ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

杜甫の魅力コミュの房兵曹が胡馬の詩

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
房兵曹胡馬詩

胡馬大宛名
鋒稜痩骨成
竹批雙耳峻
風入四蹄軽
所向無空闊
眞堪託死生
驍騰有如此
萬里可横行

(以下、読みは吉川幸次郎先生の杜甫詩注巻2 ページ379〜による)

房兵曹が胡馬の詩

胡馬 大宛の名
鋒稜(ほうりょう) 痩骨成る
竹批(そ)ぎて雙耳(そうじ)峻(たか)く
風入りて四蹄軽し
向こう所 空闊(くうかつ)無く
眞に死生を託するに堪えたり
驍騰(ぎょうとう) 此の如き有らば
萬里も横行す可し

杜甫は馬が好きだったらしい。馬の描写は秀逸なのだそうだ。鋒稜痩骨なるとは馬は痩せて筋肉がしまったのがよいこと。馬の描写としては、

「竹批ぎて雙耳峻く」
 馬の耳が竹を批いだように、ピンと高くたっている様子。
「風入りて四蹄軽し」 
風が馬の前からぶつかり、それが馬を上へ持ち上げるように、馬は軽やかに進んでいる
「向こう所 空闊無く」
   馬の前には空間があるが、しかしその空間は次々に馬によって征服されていくという意味だ。


風入りて四蹄軽し
向こう所 空闊無く

この詩の中で上の二句が秀逸だ。 
馬と風という意味では、「馬耳東風」のように、風は馬を通り過ぎるものだ。なのに、何故、杜甫は馬の「四蹄軽く」と述べるのだろうか。この句の上に耳の記述があるのも不思議だ。
馬の耳を褒め、また風を馬の歩みを軽くすると、ポジティブに見ているからだ。
杜甫の遊びがあったように思う。

「向かうところ、怖いもの無し」、「向かうところ、敵なし」と言う位、向かうところの後にくるものは、怖いものがあるが空闊もそのようなものなのだろうか。「空闊莫涯兮、鳥飛杳杳」という言葉があるが、空闊はむしろ、これから来る見えない何かを指しているのではないだろうか。こうしたものを意に介せず、ぐんぐん進む馬を頼もしく思えるのだろう。だから「眞に死生を託するに堪えたり」となるのだろう。

コメント(1)

ヨセフさんから、次の書き込みがありました。

「蕪村の句に
風入四蹄軽
木の下が蹄のかぜや散さくら
というものがありました。」



これに以下のように返事をしました。

「ヨセフ様

いや、いや有難うございました。これは勉強になりました。

木の下(このした)という馬が通ったため、風が出て、桜が散ったという歌なのですね。

杜甫の句が上手く、利用されていますね。
軽やかに馬が木の下を通っていく姿が目に浮かびます。

そして、この「木の下」という源仲綱の愛馬が目に浮かび、また仲綱の千載集にある歌、

    山ざくら散るをみてこそ思ひ知れ
          たづねぬ人は心ありけり


が示唆されるのでしょうね。
この歌と蕪村の句をくっつけると、

    木の下が蹄のかぜや散さくら
         たずねぬ人は心ありけり

となり、蕪村の知性と、遊びに思わず驚いてしました。


今週、タクシーに乗っていましたら、タクシーの前をバイクが疾駆していました。おっさんが乗っていました。彼のジャンバーが風に膨らんで、忙しく振動していました。ふと、杜甫の句を思い、もしかして杜甫の見た馬には、何か包むような衣があって、これが風の空気を吸い、膨らんだのではないかと想像されました。 」

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

杜甫の魅力 更新情報

杜甫の魅力のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング