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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの箕輪城(みのわ)

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箕輪城は、高崎市箕郷町の箕輪小学校の近くにある。この小学校自体が城の一部だったようだ。この城の位置的な重要性は、武田軍は碓氷峠を越えて上野国侵攻を行う。箕輪城を攻略せず素通りして上野国に攻めた場合、側面または背後を攻められ挟みうちになる。また、信濃との補給を絶たれることになるから、上野国攻略には箕輪城攻略が必須条件だったと思う。
城は榛名白川と井野川に囲まれており、川と沼を利用した小高い山城だったと思われる。
今回は、二の丸まで車で行き、そこから徒歩で本丸、御前曲輪に行ってみた。

コメント(8)

 特に高所ではない二の丸からでもいい景色を眺めることができた。櫓などがあった時代はもっと良い景色であり、敵の様子が一目瞭然であったと思う。
 戦国時代、関東管領上杉氏、上杉憲政が上野国(群馬県)を治めていた頃、上野国を狙っていたのは、北条氏だけではない。武田信玄も狙っていた。
 最終的に越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り逃げてしまう上杉関東管領を支え、武田信玄の上野国の侵略を阻止した名将、長野業正(ながのなりまさ)の居城である。
武田信玄は「業正のいるかぎり、上州(上野国)には手を出せぬ」と言ったそうだ。長野業正自身も「箕輪に業正がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせることは叶わぬ」と言ったそうである。また、業正は上州の黄班(虎のこと)と言われていたらしい。
 業正は享禄三年(1530)戦死した父の後を継ぎ上野箕輪城の城主となる。長野家は在原業平の末裔らしい。よって業の文字が名前に入るのか?
 自らの基盤を固めるため、12人の娘を西上州各地の国人領主に嫁がせ、縁戚関係による団結を図った。これが「箕輪衆」である。
 北条氏は、武田信玄に箕輪城を攻め落として欲しいと依頼していたようだ。上野国が武田氏の支配下になれば、上杉謙信と直接戦う必要はなく、関東の東方の敵(太田、里見、佐竹など)に専念できるから。また、言い換えれば、東方の敵が理由で上野国に手が回らないといったことも一つの理由だと思う。
武田軍は数回したらしいが、武田軍が侵攻する。長野氏が食い止める。越後から上杉軍が救援に駆けつける。武田軍が撤退する。といったことを繰り返したのだろう。
 しかし、そんな業正も病には勝てなかった。永禄四年(1561)11月、業正は病死する。やがて、業正の死を知った信玄は、業正の息子・業盛の守る箕輪城を攻略する。父に劣らぬ勇将であった業盛は奮戦するが、永禄六年(1563)落城。業正死後、わずか二年後のことである。
本丸は広く、今まで見た戦国時代のお城の中で一番の大きさの本丸と思った。さらに御前曲輪があり、城の規模は予想以上であった。また、典型的な山城だと思っていたが、農地化されており、なだらかな小高い山城であった。
 業正の息子・業盛は武田軍に破れ、最後を覚悟し、敵陣地に気の済むまま切り込んだ後、この御前曲輪で自刃したとのこと。この御前曲輪には、井戸があり、曲輪から下を覗くと結構高い曲輪になっており、昔の遺構が良く残っているお城である。
 また、業正に関する言い伝えが残っており、居候していた真田幸隆が山本勘助の勧めで武田家に士官がきまり、業正に黙って武田に向かったところ、後から業正の家臣が追っかけてきて幸隆の家具と家族や家来を届けさせたとのこと。幸隆は黙って来たことを後悔した。
 他に、業正の晩年、死期を悟った業正は、昔のお礼に来た真田幸隆に上野攻略のポイントは沼田攻略であると教えた。自分の死後、誰かに上野を取られるなら、知っている幸隆に取ってほしいと考えたらしい。本当の話かはわからないが・・・
画像で見る限りしっかりと整備されたところですね。さすが日本名城100に選ばれるわけです。
業正の跡を継いだ業盛は弱冠14歳だったそうで、それを41歳の信玄が攻めるのは簡単なこと。(2年もたせただけでも評価できます。)北条から西上野を自由にしていいとの確約ももらっていればあとは上杉の援軍次第。というわけで箕輪城を落とすのは時間との勝負だったわけです。
箕輪城(みのわじょう)

永正9年(1512年)戦国時代中期、長野業尚が築城する。
関東管領山内上杉氏の支配下であったが、上杉憲政が越後へ亡命した後は、
長野業正が上杉氏の後ろ盾を得て、長野氏全盛時代を築きますが、
永禄4年(1561年)に長野業正が亡くなると子の長野業盛が家督を継ぎます。
永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、落城し長野業盛は自刃して果てました。
その後、箕輪城は武田氏、織田氏、北条氏の支配を受け、最後は徳川氏の支配下となり、
井伊直政が入城し箕輪城の改築を試みますが、高崎城に移るとともに、箕輪城は廃城となりました。

桑名山を背に目の前は前橋や高崎など群馬県の中心部を見下ろすことができます。
クマに注意の看板はありますが、正直大丈夫そうです。
平日にもかかわらず天守のない山城にしては来城者が多い気がしました。
お城の駐車場から二の丸に向います。二の丸まで車で来れるようです。
二の丸から本丸に向います。箕輪城の石碑があります。
昔はなかった門が復元されていました。
井伊直政のころの門を復元したとありました。
門を通過し蔵屋敷へ橋を渡ると箕輪城の大きさがよくわかります。
二の丸に戻り郭馬出西虎口門に向います。
再現された門としては一番立派な門のようです。
20年前の箕輪城よりとてもきれい整備されていました。
写真1、2本丸の石碑 写真3箕輪城からの眺め
写真1本丸の門 写真2蔵屋敷へ渡る橋 写真3蔵屋敷から見た門

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