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武田勝頼コミュの悲運の名将武田勝頼

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私は勝頼公は父信玄公にも劣らぬ優れた武将だったのではないか・・と考えているのですが、皆様はいかが思われますでしょうか?

特に穴山信君との大きな確執が勝頼公強いては武田家滅亡の悲劇の始まりだったのではないかという考えなのですが・・

コメント(17)

穴山梅雪との確執も、元はといえば義信事件に端を発しているような気がします。

勝頼公が、落ち延び先に岩殿城ではなく岩櫃城を選んでいたらどうなっていたのでしょうか、、。真田昌幸に庇護され西上野辺りに潜伏していたら、歴史は変わった、、、と言う事はないにしても、高家として残れたかもと思います。
義信事件では穴山信君の弟が切腹になってますね。
信長の書状に勝頼侮りがたしと文面があったことから、信長は武田勝頼はじめ武田軍を幕格として迎え入れたかったようにも見受けられるのですが・・・現に武田が滅んだあとその旧臣を家康がひそかに招きいれていたようですし。

勝頼公が信長の傘下となっていたならば・・もしかして次の天下は・・・思ってしまう自分がいます・・・
>高家として残れたかもと思います

高家(5000石程度?)どころか、20万石くらいの大名として生き残った可能性が高いと思います。ただし、岩櫃城攻めを滝川一益に任せて信長が本能寺で殺られるのが大前提です。この場合、わたしの予想では、

1)上野は北条と半分こ、悪くても1/4は確保できるかと
2)上杉が北信に入るとしても、おそらく、中信は勝頼が貰えるかと(上杉の意図は徳川・北条との緩衝地帯が欲しい)
3)徳川は南信・甲斐を確保し、勝頼と争う可能性はあるものの、徳川にとっての主戦線は三河・尾張方面なので、南信・甲斐割譲を条件に同盟できる可能性がある
4)秀吉に従属する際は、上杉を通じて行えば確実

とはいえ、関ヶ原で勝頼がどう動くかが気になります。
家康に喧嘩を売る可能性もありそうです。
勝頼公が真田昌幸に庇護されたとしたらグスタフさんのおっしゃられるように生き残れる可能性が大いにありますね。
徳川氏は武田の旧臣を吸収して勢力を拡大していった面もありますので、徳川氏が抑えられる形になったのではないでしょうか。

勝頼公が秀吉に従属し、小田原攻めなどで活躍していたら、どうなっていたでしょうか・・・

ミーコさんの言うとおり
信玄公という偉大な父を持っていたこと・・その信玄公の偉大さゆえにご親類衆は勝頼公を主と見ることができなかったのでしょうか・・・

設楽ヶ原の戦い後、高天神城の援軍など毎度のように出兵していた武田家の財政は次第に衰えていったと言われています。黒川金山も底を尽き始めていたようですし
そんな中なぜ韮崎に新府城を築城し更なる出費をしたのでしょうか・・・穴山信君が財政を圧迫させるために提言したとの意見もありますし・・・
ご親類衆との不和が大きな悲運を招いていたのでしょうね・・


甲斐という国は、元々、信虎公を追放したり、信玄公の時代にも義信事件が起きたりとご親類集や部下達が独立心旺盛と考えれば、勝頼公ことを元同輩と侮ったのは、不思議ではありませんね。

結局、一枚岩になれず滅ぶべくして滅んだと言うのが印象です。

信玄公の死去勝頼公が織田と手を組んだら

一体どうなったんでしょう。
このまま本能寺の変が起きた後が気になりますね。
はじめまして。
勝頼はどんなドラマでも大概暗愚に描かれているので違和感を覚えます。
勝頼に興味をもったのは新田次郎さんの小説「武田勝頼」がきっかけです。
ただ、少々、武田家滅亡の原因を穴山信君はじめとする御親類衆のせいにし過ぎの
感は否めないのですが。。。長篠合戦の際の佐久間の裏切りについても本当かどうか
ちょっと疑わしいです。新田さんの小説以外に佐久間の裏切り疑惑について論じてる
ものを見たことがないのです。新田さん以外のものを読んだり、見たりして思ったのは
下記です。

・信玄は自分の後継ぎのことを真剣に思いやっていなかった。もっと勝頼のことを考えて 穴山や信廉の力を小さくして勝頼が運営しやすくするべきであった。義信を自刃に追い やっているのならなおさら勝頼を大事にするべきであった。結局、信玄は自分のことだ けを考えていて(家臣には思いやりがあるのですが)身内に対して冷たすぎたのではな かったか(実の父親を理由はどうあれ追放してもいますし)。その点、信長は長男の信 忠に帝王学を仕込み、後継ぎの教育をしっかりしています。ただ、家臣に冷たすぎまし た。つまり、武田家を滅亡に追いやったのは勝頼ではなく信玄が種をまいていたので  す。義信が後をついでも信繁があとをついでも遅かれ早かれ滅亡していたでしょう。
・勝頼は暗愚ではなかったがなぜ長篠で倍以上の織田軍に戦いを挑んだか。新田さんは、 次のようなことを理由に挙げています。?勝頼は正面きっての戦いはしたくなかったが 穴山信君の意見を抑えきれなかった→僕の意見ですが、馬場や山県などの優秀な家臣が いて本当に武田家のことを思うのだったら戦争をやめることはできたのではなかった  か。なんだかんだいって武田家が負けるわけがないと思っていたと思います。これは勝 頼だけでなく武田軍団全体の傲慢さです。?梅雨時期で鉄砲が機能しないと見込んでい た(実際晴れてしまったのは武田にとって運が悪かったとしかいいようがないです)?
 佐久間信盛が織田を裏切るという手紙(のぶながの罠)に引っかかってしまった(これ は本当のことか分かりませんがもし、武田が信じてしまったのなら武田が馬鹿だったと しかいいようがありません)
・長篠では武田の有力家臣がほとんど討ち死にしています。これだけの数の武将が死んで いる合戦を長篠以外に知りません。しかもほとんどが退却戦の時に討ち取られていま  す。鉄砲に突っ込んでいって死んでるのは真田兄弟や土屋くらいです。つまり、猪突猛 進していたのはほんのわずかな時間で、そこでやっぱり勝てんわとなって裏切り者が続 出し、全体的に撤退をはじめたときに徹底的に討ち取られたというのが真実ではないで しょうか?となるとやはり、すぐにあきらめた武田軍の結束がもろかったということに なります
・長篠あとの動きでもう衰退へは歯止めがかからなくなってきます。その中で一つ勝頼が
 判断を誤ったのは、やはり御館の乱の際、黄金2万両を受け取り景勝側についてしまっ たことではないでしょうか。当然北条との同盟はなくなってしまいます。あそこでもし 北条側について景勝を滅ぼしてしまっていれば、東日本は北条と武田のもので、織田家 とは北条と手を組んであたれることになります。けどやはり織田には勝てなかったでし ょうが、景勝と組むよりは長生きできたでしょう。景勝は織田の武田攻めの際、自分の ことで手一杯で武田を守る余力は全くありませんでした。

結論でいいますとどう転んでも武田の生き残る道はなかったように思えます。ただ、勝頼が暗愚ではなく心の優しい武将であったことは分かります。

個人的には、信玄の時点で領土拡張優先のために外交的に無理をして、特に北条氏の信頼を失ったことが大きい気がします。
さらに、かなり無理を重ねて駿河と遠江を取りに行ったのに、徳川の抵抗が予想以上に強くて十分な支配が出来ないままに病没することとなってしまった。

勝頼は、信玄が上杉、北条、織田、徳川と敵対してしまい、四面楚歌にしてしまった外交状態を引き継がざるを得ず。
しかも、義信事件の後遺症もあって、統率も十分に取れていないままの武田家臣団を率いて東奔西走を強いられた。

また、信玄が参加していた反信長包囲網も各個撃破されて既に機能しなくなっており、逆に信長の最優先の攻撃ターゲットになってしまった。

勝頼に失敗が有ったとすれば、やはり外交政策でしょうねぇ。
積極的に戦によって織田徳川に圧力をかけるより、まずは外交政策で上杉、北条と同盟を結び、さらに織田徳川との領国境界付近の国人領主達を取り込むことに専念すべきだったのでしょう。
>>[12]
御館の乱でもし武田勝頼が上杉景虎側についていたら北条氏政との同盟もそのままで上杉景勝を滅ぼし、三国同盟で織田信長や徳川家康に対抗できる勢力になった可能性がありましたね。

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