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我が愛しのアスリート図鑑コミュのK・ライコネン(F1)

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キミ・マティアス・ライコネン(Kimi Matias Räikkönen, 1979年10月17日 - )は、フィンランド・エスポー出身のF1ドライバーである。2007年のワールドチャンピオン。

5歳の時に兄のお下がりのモトクロスバイクを乗り始め、8歳の時に兄とともにカートをはじめる。12歳のときより本格的なレースに参戦し、1999年までにカートで数々のタイトルを獲得する。

1999年にはフォーミュラ・フォードユーロカップに参戦するが、資金難により数戦で参戦を取りやめている。しかし、同時期に参戦したフォーミュラ・ルノーイギリス選手権のウィンターシリーズではマノー・モータースポーツ・チームのシートを得て4戦4勝し、翌2000年のレギュラーシーズンは10戦中7勝、2位1回、3位2回という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得する。

ジュニア・フォーミュラにはこの2年弱の期間に23レースに参戦したに過ぎなかったが、その内13レースで勝利を上げ、勝率は実に53%という高率であった。

フォーミュラ・ルノーでの成績に目をつけたF1ザウバーチームのオーナーペーター・ザウバーにより、2000年9月に催された同チームのテストに招かれ、スペインのヘレス・サーキット、カタロニア・サーキットでザウバーのF1カーのステアリングを握った。ここでの走りもザウバーの眼鏡にかなうものであったため、翌年のレギュラードライバー契約を勝ち取ることとなる。

2001年オーストラリアGPでザウバーからF1デビュー。

フォーミュラでのレースは実質フォーミュラ・ルノーのみで、F3を経験せずにF1に参戦することについて(当時のFIA会長であるマックス・モズレーを含め)他の関係者からの批判は小さなものではなかった。事実、ライコネンのスーパーライセンスは4戦限定の仮ライセンスで、危険であれば取り消される可能性もあった。こうした事情から当時のザウバー代表ペーター・ザウバーはメディアに対し、F1に来る前にF3に出場させることも考えた、と心中を語っている。

しかし、開幕戦オーストラリアGPでいきなり6位入賞で周囲の批判を驚きに変え、その後正式にスーパーライセンスが発給された。第6戦のオーストリアGP、第8戦のカナダGPでは共に4位入賞するなど、新人らしからぬ安定感で全17戦中4戦で入賞し9ポイントを獲得、ドライバーズランキングでも10位につけた。国際F3000チャンピオン獲得経験のあるチームメイトのニック・ハイドフェルト(12ポイント獲得)と比べても大きくは引けを取らず、結果としてザウバーチームはF1参戦以来、最高の成績でシーズンを終えることとなった。

ザウバーでの活躍は当時ザウバーにエンジンを供給していたフェラーリからも注目され、2002年についてはフェラーリに移籍する可能性がささやかれていたが、結果的にライコネンを獲得したのはマクラーレン・メルセデスであり、ライコネンは当時マクラーレンの正ドライバーであったフィンランド人ミカ・ハッキネンの後任としてチームに加入した。

2002年

2002年 アメリカGPこの年は移籍初戦のオーストラリアGPで自身初のファステストラップを記録するとともにいきなり3位に入賞して初表彰台を獲得すると、年間で4回登壇し、シーズンで24ポイントを獲得した。リタイアは10回を記録したが、内ミスによるものはドイツGPの1度だけで、残りは全てメカニカルトラブルによるものだった。中でもエンジントラブルには悩まされ、第14戦ベルギーGPから第16戦アメリカGPにかけ3戦連続でリタイアに追いやられたのをはじめ、計6戦をエンジントラブルによって失った。

この年、特筆されるレースはフランスGPで、このレースでは終盤トップを走行し初優勝かと思われたが、72周のレースの67周目で、前を走る周回遅れのアラン・マクニッシュ車から出たオイルによりスリップした隙にミハエル・シューマッハにオーバーテイクされ、2位に終わった。

2003年
この年はマクラーレンの新車開発の遅れにより、前年型MP4-17の改良型であるMP4-17Dで臨んだ。

第2戦のマレーシアGPで初優勝を飾り、結局1年間で優勝はこの1勝のみであったが、安定してポイントを積み上げていったことで、当時ドライバーズタイトル3連覇中のミハエル・シューマッハと最終戦まで対等に渡り合い、ドライバーズポイントランキングで2位につけた。

また、この年はニュルブルクリンクで開催された第9戦ヨーロッパGPで自身初のポールポジションを獲得している(第15戦アメリカGPで2回目のポールポジションを記録)。

2004年
2004年シーズンは不運なエンジントラブルに多く見舞われ、7戦を消化した時点で僅か1ポイントしか獲得できなかった。

第8戦のカナダGPでは決勝レースで5回ものピットストップをした末に5位入賞を果たし(レース後にウィリアムズとトヨタが失格になったことによる)、次戦のアメリカGPでも6位入賞し、シーズン中盤になってようやく復調の兆しを見せた。

第10戦フランスGPでマクラーレンが新車MP4/19Bを投入すると、続くイギリスGP予選で2004年シーズン初のポールポジションを獲得、決勝レースでも、同年初の表彰台となる2位を獲得。その後ベルギーGPでシーズン初優勝を飾った。

またこの年はマネージャーのスティーブ・ロバートソンとともにライコネン・ロバートソン・レーシング(ダブルRレーシング)を設立し、翌年からイギリスF3選手権に参戦させることを発表している。

2005年
2005年シーズンは開幕当初はマクラーレンの新車の信頼性不足によりやや出遅れるも、ヨーロッパラウンドに入るや、第4戦サンマリノGPから3戦連続ポールポジション、第5戦スペインGP以降シーズン7回のレースで優勝を飾るなど、ルノーのフェルナンド・アロンソと激しいチャンピオン争いを繰り広げたが、惜しくもアロンソに及ばなかった。

この年は第7戦ヨーロッパGPで、トップで迎えたファイナルラップにおいてサスペンション破損によりリタイア(記録上は11位完走)し2位のアロンソに優勝を与えてしまうという致命的なトラブルがあったほか、リタイアしたレース(記録上2戦)はいずれもメカニカルトラブルによるものであった。

シーズンで7勝を挙げたが、これはチャンピオンのアロンソと並び2005年シーズンの最多勝となるものであるとともに、その年のワールドチャンピオンタイトルを獲れなかったドライバーがシーズン中に挙げた勝利数としては過去最多となるものである(但し2005年は全19戦ありF1史上最多のレース数の年だったことは差し引いて考える必要がある)。ライコネン以前では、アラン・プロストがシーズン7勝を挙げながらチャンピオンタイトルを逃すということを1984年、1988年の2度している。

加えて、この年ライコネンは年間でファステストラップを10回記録しており、これはミハエル・シューマッハが2004年に記録したものと並び、1シーズンのファステストラップ獲得の最多記録となるものであった。

なおイタリアGP(モンツァ・サーキット)においては、F1のグランプリ史上最速となる最高時速370.1km/hをマークしている。

また、この年からF1日本グランプリの地上波生中継が始まったが、ライコネンはそのレースでチェッカーフラッグ目前でのピットインで1位の座を明け渡し2位に落ちるが、しかしその差を一気に取り戻して、ファイナルラップで劇的な追い抜きをし、優勝を果たすという素晴らしいレースを展開した。そのためもあってか視聴率も10.8%とまずまずの数字を取ることに成功し、翌年、翌々年でも生中継を続けることに貢献した。

2006年

2006年シルバーストンテスト2006年シーズンは昨年のような圧倒的なスピードは影を潜め、昨年同様信頼性に欠けることなどもあってチーム含めて未勝利に終わってしまった。シーズンの1/3をノーポイントで終えてしまうほどマシンは信頼性に欠けていたうえ、絶対的なスピードも前半のルノーやアメリカGP以降のフェラーリには及ばず、何度か訪れた優勝のチャンスはリタイアで失うと言う運の無さはこの年も健在であった。

第15戦イタリアGP終了後に、2007年から2009年までフェラーリと契約した事が発表された。

なお、この年はライコネン・ロバートソン・レーシングがイギリスF3選手権で初めてドライバーズチャンピオンタイトル(マイク・コンウェイ)を獲得している。

2007年シーズンは、初のワールドチャンピオン獲得という悲願を達成した。

フェラーリ移籍初戦となったオーストラリアGPで、優勝。このレースで自身初めて、優勝、ポールポジション、ファステストラップ独占(ハットトリック)を達成した。しかしモナコGP予選で大きなミスを犯し16位、決勝でも速さを見せられず8位となった。その後の第8戦フランスGPと第9戦イギリスGPで連勝。第13戦イタリアGPでは土曜日の予選前のフリー走行で大クラッシュし、首を痛めた。続く第14戦ベルギーグランプリにおいてポール・トゥ・ウィンを果たし、ドライバーズサーキットとして名高いスパ・フランコルシャンを3度制覇している。そして最終戦のブラジルグランプリにて予選3位から優勝を果たし、最大26ポイント差を跳ね返す史上最大の逆転劇を演じ、悲願の年間総合優勝を達成した。この年のチャンピオン争いは最終的に1位ライコネン110ポイント、2位ハミルトンと3位アロンソが109ポイントと、1位から3位までの差が1ポイント差であり、さらにシーズン最終戦まで争いが続き、しかも三つ巴になるというF1史上でも稀に見る激戦であった。1位から3位までの差が1ポイント差でシーズンを終えるのはF1史上初。

家族は父、母、兄(ラミ)、妻(ジェニー)
ニックネームは北欧出身で常にクールな性格から「アイスマン」。雑誌などのインタビューでも口数が少なく、あまり英語の滑舌が良くないことから「記者泣かせ」と言われるが、ドライビングスタイルや優勝したときのパフォーマンスは情熱的でアグレッシブ。リタイアした際に、誘導しようと体に触ったコースマーシャルを突き飛ばしたり、ステアリングをコックピットに投げ捨てるなど激情にかられることもある。
身長175cm 体重63kg 血液型はA型。(F1速報のプロフィールより)
足のサイズは26cm 好きな女性のタイプは「かわいい子」。

マネージャーは、F1参戦前からディビッド・ロバートソン、スティーブ・ロバートソン親子。彼らは、ジェンソン・バトンを発掘した人物でもある。
大の酒好きとしても知られ、表彰台でのシャンパンファイトでは、まずシャンパンを一口飲んでから参加する。一方、その酒癖の悪さが噂されており、オフシーズンを中心にしばしば酒がらみのゴシップ報道がされている。また2007年最終戦のブラジルグランプリでは、大逆転でワールドチャンピオンを勝ち取ったからか表彰台に上がったとたんシャンパンを口にした。
人生で最初の車は、母親の友人からタダでもらったロシア製のラーダ。赤い車体を自分で黒く塗装していた。
プライベートでの運転でもアグレッシブらしく、冬の凍った道を高速でスリップしてあやうく林に突っ込みそうになり、父親に注意されたそう。
2006年モナコGPでは、リタイアした数分後、クルーザーでグラス片手に優雅にGPを観戦するというお茶目な一面を見せている。但しまだレースは行われていることから、本来であれば速やかにピットに戻りエンジニアやチームメイトに情報を提供すべき場面であり、一種の「職場放棄」であるとみなすことも可能(逆に言えば、既にチームとライコネンとの関係が冷え切っていたことを示す行動であったともいえる)。また前述の酒癖の悪さとも関係し、この行動には批判も多い。
2006年最終戦ブラジルGPではこのレースでヘルメットを置くミハエル・シューマッハの引退セレモニーが行われたが、彼はこれを見逃した。イギリスITVによるインタビューにおいてセレモニーを見逃した理由を問われたライコネンは、世界中に配信されているライブ映像であるにもかかわらず、「クソをしに行っていた("I was having a shit")」と発言し、物議をかもした。
2007年シーズン開幕前、地元フィンランドのスノーモービルレースに「ジェームス・ハント」名を使って出走し優勝。シーズン中には地元のパワーボートレースにゴリラの着ぐるみで変装して参加した。
2007年イタリアGPでは“ICEMAN”のロゴが入ったハーレーで現れた。

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