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我が愛しのアスリート図鑑コミュの天龍 源一郎(プロレス)

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天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、本名:嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)、1950年2月2日 - )は、福井県勝山市出身の元大相撲力士、フリーランスのプロレスラー。身長189cm、体重120kg。血液型A型。

ニックネームは「風雲昇り龍」。また「Mr.プロレス」の異名でも知られ、レスラーからも畏敬の意をもってその名で呼ばれる。入場テーマ曲は公募で決定した高中正義の『サンダーストーム』。

福井県勝山市に生まれる。勝山市立北郷小学校卒業後、勝山市立北部中学校入学。縁あって大相撲入門が決まり中学校2年で両国中学校に入学。1963年12月、大相撲・二所ノ関部屋に入門。天龍の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川に付いて行きたがったが二所ノ関部屋に戻され意気消沈。どうにか気を張って再入幕した1976年9月場所、東前頭13枚目で8勝7敗と勝ち越したのを最後に廃業。同年10月に全日本プロレスに入門した。

アメリカ・ファンク道場で修行し、同年11月13日にはテキサスにてテッド・デビアス戦でデビュー。鳴り物入りでの入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、デビュー数年でタイトルマッチが組まれたり、エースであったジャンボ鶴田とのタッグ・鶴龍コンビ(かくりゅう-)を組まれたりしたが、体格はプロレス用に絞っており威圧感が無かったことや、技術が伴っていなかったこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。当時、「全日本第3の男」と呼ばれていたものの、人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低いものだった。しかし1981年7月30日、ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦した事を契機に何かを掴む。実際この試合以降は天龍の評価も急上昇し(天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っている)、晴れて世界王者への挑戦権も与えられるまでに至った。後の天龍の盟友となる阿修羅・原は当時の天龍の活躍に闘争心を駆り立てられ、全日本への参戦を決意したと言われている。この頃から延髄斬りや卍固めなどを試合で使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。それまでは紫のタイツを使用していたが、この頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。リッキー・スティムボートを破りUNヘビー級のタイトルを獲得。さらに長州力率いるジャパンプロレスの参戦をきっかけに、現在も続くスタイルとなる闘争心をむき出しにして戦うスタイルと変貌する。その頃から急速にファンからも支持を受け、鶴田をも食ってしまうほどの人気をその手のものとした。

長州離脱後には全日マットの活性化を目指し阿修羅・原と龍原砲を結成すると、続いて天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方大会でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになり、鶴田とのシングル対決は全日本プロレスのドル箱カードとなり、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立て、激しさや人気の面でも新日本プロレスを凌ぐようになる。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となる。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めでピンフォールを奪う快挙を達成した。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリング・サミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。

前述のドーム大会直後の横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最期に全日本を離脱しSWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。

SWS崩壊後、1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破り、1994年1月4日の東京ドーム大会ではアントニオ猪木をもピンフォールするという破竹の快進撃を見せ、当時の新日本を制覇したと言ってもおかしくない結果を残した。馬場・猪木の双方からピンフォール勝ちしたことのある日本人レスラーは天龍のみである。1994年5月には、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月にはグレート・ムタとのシングルマッチに勝利、同年12月には高田延彦からもシングルマッチにて勝利を奪っている。

1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し、藤原喜明、北尾光覇を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得。この試合は天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に、「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。

1998年2月からはフリーとなり、女子プロレスの神取忍とも対戦するなど、プロレスと呼ばれるもののすべてを体験しようとするかのような挑戦的な姿勢が目立つようになる。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司を敗りIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内二大メジャータイトル制覇を達成した。2000年には古巣の全日本が大量離脱による経営不振に陥っており、和田京平らによる説得で全日本に復帰。2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、長州とシングルで対戦する。8月にはWJに入団するが、WJは経営が迷走。「長州臭いんだよ!」「去る夏に 200キロプレス 何思う」「こんなはずじゃなかった。“天龍、WJにがっかり”だよ」「無視されたことに腹を立てろよ。長州、お前は何枚舌があるんだ」等数々の名言を残して、WJを離脱する。

2005年初頭、かつて激戦を繰り広げた全日本勢が大勢所属しているプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけていたが、当時は馬場元子が認めなかった為、三沢らとリング上で再会するチャンスがなかった。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年に当時主戦場としていた新日本プロレスと喧嘩別れの形で参戦中断したことからスケジュールに余裕が出来、晴れて参戦となった。7月18日のノア・東京ドーム大会にて元付き人の小川良成との対戦(天龍の勝利)後、肩を貸して共に退場している。またDRAGON GATEにも参戦し、WAR時代の元付き人であるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げる(2006年5月現在、天龍の3勝2敗)。同年10月には、DRAGON GATE顧問に就任、他団体参戦時にも所属選手がセコンドに付くことになった。だが、天龍本人が所属選手となったわけではなく、フリーランスとしてこれからも各団体を転戦する。また、同年11月3日のハッスルマニアで初めてハッスルにも参戦した。表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテイメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握り、見事にハッスルの中でも自己を表現して見せた。2006年7月27日には、6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。

現在の日本プロレス界において「生きる伝説(Living Legend)」として、すべてのレスラーから一目置かれる存在である。

落語家三遊亭楽太郎は墨田区立両国中学校の同級生で親友。
プロレス転向の話を持ちかけられた際に「幕内で勝ち越してから相撲を辞める」と決意。実際その通りの結果を残し、晴れてプロレス転向を遂げたという反骨精神の持ち主である。
元々は明るい性格なのだが「一人前に仕事が出来ないうちからカッコつけたことは言っちゃいけないと思って」プロレス転向後は1981年以降に「風雲昇り龍」としてブレイクするまで無口で大人しい態度を貫いていた。
プロレス界一の豪傑、酒豪として知られ、数々の男気溢れるエピソードを持つ。特に様々な酒をアイスペールに注いだものは「天龍カクテル」などと呼ばれ、自分は飲まずに記者などに次々飲ませて潰してしまう。藤原喜明との酒宴(対戦?)では、果てしなく飲んだ後にヘッドバット合戦を始めた。またダチョウ倶楽部の上島竜兵に、10万円の小遣いを与えたり、飲んでいた店にいた人全員(見知らぬ人含め)の勘定を払ったりという気前の良さも持ち合わせる。だが、それはあくまでファンや他人の前だけであって、プロレス関係者に対してはその限りではない。レスラーとして見られることをプロとして十分に意識した上での振る舞いと見るのが妥当だろう。
越中詩郎が全日本を離脱し新日本プロレスに移籍することを決め、ジャイアント馬場に了解をとるため全日本の遠征先の宿に向かった際、そこで偶然天龍と遭遇したという。事情を知った天龍は越中に付き添って馬場の元に向かい、あくまで移籍を認めようとしない馬場に対し、越中の意を汲んであげるよう説得した。そして越中が宿を離れる際、はなむけの言葉とともに、餞別として越中の服のポケットに大量の一万円札を入れたという(越中の著書より)。
「全日本第3の男」が定着し、UNヘビー級獲得に苦労したり、延髄斬りや卍固めを使用したことから猪木の亜流と揶揄されたりしていたため、当時のプロレスファンの評価は低かったが、外国人選手の評価は高かった。テリー・ファンクは一度目の引退後に雑誌に持っていたコラムで天龍を「馬場の後の全日のボス」と明言し、他の外国人選手も同調していた。が、天龍自身はその評価に対し「俺がヤツラに勝てないからだろ!」と自嘲していた。
小橋建太・天山広吉と共にチョップ特集でNANDA!?に出演した時、プロレスの永遠の疑問である「何故プロレスラーは技を避けないのですか?」という質問に対し、天龍は「よけられないんですよ。よけたら負けなんですよ。一度やっちゃったら、こいつにはもう勝てないって思っちゃう。俺はね」と答えている(その時の天龍のチョップ解説を次長課長・河本がものまねレパートリーにしている)。
寿司処「しま田」を経営している。
前田日明は、1987年頃に天龍が輪島大士の顔面を普通のリングシューズにも関わらず容赦なく蹴っていたこと、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なく蹴っていた天龍の姿に衝撃を受けた。天龍自身はこの行為について「たとえ横綱だった人間でも簡単に出来るほどプロレスは甘くないということ。それから、やっぱり横綱だった人間はヤワじゃないんだよということ。この二つを皆に知ってほしかったからやったんだ」と述べている。
今や切っても切り離せない入場曲『サンダーストーム』だが、SWS時代は当初、個人別ではなく部屋単位での入場曲が使用されていたため、会場で流されない時期があった(団体自体は容認してもこの措置には納得のいかないファンの批判が集中したため、後に選手別入場曲は復活する)。
上田馬之助はSWSが失敗した原因として「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。天龍には最後に鶴田に敗れたというイメージが続いたが(現に日テレでも最後鶴田に敗れたシーン、別の試合で鶴田のパワーボムを食らいKOされるシーンは何度も流された)、その後、前述通り新日本マットに上がり新日を制覇したといってもおかしくない程の実績を残し、さらにアントニオ猪木までも倒し、そのイメージを完全に払拭させた。
全日本・新日本の両団体におけるシングル・タッグ双方の頂点を極めたのは、2006年5月現在天龍、武藤、小島聡、ベイダーの四人のみ。リーチを掛けているのは永田裕志・高山善廣・佐々木健介の三名で、永田・高山は三冠ヘビー級王座、健介は世界タッグ王座を獲得すれば達成。また、故・橋本真也は世界タッグ王座を獲得すれば達成であった(但し、これは団体が違う故に実力以外に運や巡り合わせも影響する)。また、馬場&猪木の上の世代のみならず鶴田、藤波、長州、武藤、蝶野、橋本、高田等、昭和を代表する名レスラーと全盛期〜晩年の実力的に安定した時期にシングルマッチで対戦し尽くし勝利を収めている。全く対戦経験がないのは出自的に縁の無かった前田日明ぐらいで、その事実が天龍をプロレス界のリアル・レジェンドと押し上げていることは想像だに難くない。
神取忍と対戦した際、容赦なくグーパンチ、逆水平チョップを浴びせボコボコにした。試合後顔を腫らした神取が「死ぬかと思った」「今日ほど男に生まれたいと思ったことはない」等のコメントをしている。天龍は男女の壁を越えて『ミスタープロレス』に挑んできた『ミスター女子プロレス』に対し、あえて手加減しない事で神取に敬意を示したものと思われる。
相撲時代は美男子力士として女性人気が高かった(田上明も然り)。
全日本時代は色白だったが、SWS移籍を機に日焼けをし、褐色ボディへと変貌を遂げた。また近年は白髪染めの影響か、頭髪が茶髪になっている(長州力も同様)。
2006年7月に、スポーツ紙上で「ずっとジャンボとの戦いに備えていた」と、袂を分かった後も変わることのない鶴田へのライバル心を明かした。記事では、ジャンボの死後も彼といつか出会うかのごとく、依然として戦いに備えており、そのことが2000年以降の活動につながっていると語られている。
純朴で無骨な風情が年代を超えて多くのファンを魅了させている。1987年生まれの岩佐真悠子が天龍を好みの男性のタイプと公言している。
ライバルであり、一時期タッグパートナーでもあったスタン・ハンセンは、天龍のことを「テンルー」と呼んでいた(ロード・ウォリアーズやリック・フレアーも然り。外人選手には“リュウ”の発音がしにくいため)。
全日本プロレスが三沢光晴一派の大量離脱により団体崩壊の危機に晒された2000年7月、全日本・後楽園ホール大会に天龍が助っ人として突如登場。1990年4月に家出同然で全日本を退団してSWSに移籍して以来10年ぶりの帰郷は感動を呼び、さしもの天龍も「足が震えた」とのコメントを残した。
前述の通り、すべてのレスラーに注目されているという事に答えるように、インディー団体のリングにもこれまで上がり、若手を中心とした発展途上の選手に胸を貸している。アパッチプロレス軍のマンモス佐々木もその一人で、天龍に食らった(一騎打ちでフィニッシュホールドとなった)必殺技である”53歳”を糧とし、”29歳”(佐々木の当時の年齢)を開発している。


コメント(1)

私的には、プロレスラーの前、相撲取り時代の下手な(?)上づっぱりが印象的です。見事、別の世界で大成されてあっぱれ!

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