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我が愛しのアスリート図鑑コミュの原田雅彦(スキージャンプ)

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1968年5月9日北海道上川町に生まれる。身長174cm、血液型A型。小学校3年の時からスキージャンプを始め、東海大学付属第四高等学校卒業後雪印乳業に入社。1990年代以降、日本を代表するスキージャンプ選手となる。1992年アルベールビル、1994年リレハンメル、1998年長野、2002年ソルトレークシティ、2006年トリノの計5回の冬季オリンピックに出場。

オリンピック、世界選手権を通して9個のメダルを獲得しているが、これは日本人最多である。

2006年3月20日、現役引退を表明。3月25日の伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会で現役を引退、4月からは所属する雪印乳業スキー部のコーチに就任した。

その人柄と国際的知名度から2007年に札幌市で行われる2007年FISノルディックスキー世界選手権札幌大会の特別広報大使に任命されている。

長年日本ジャンプ界を支え、多くの失敗と多くの大ジャンプからジャンプの豪快さ、難しさ、すばらしさ、切なさを余すところ無く自らのジャンプでファンに伝えてきたこともあり、「ミスタージャンプ」の呼び声もある。


リレハンメルオリンピック、長野オリンピック団体での大失敗ジャンプの印象で「本番に弱いアスリート」とのイメージを持つ者もいるが、ノーマルヒル、ラージヒル、団体競技全てで世界チャンピオンになった唯一の日本人選手であり、オリンピックでも、団体で金・銀、ラージヒルで銅(共に長野オリンピック)を獲得している「日本ジャンプ史上最も実績を残した選手の1人」である。

もともと原田は、1992年のアルベールヴィルオリンピックの個人ラージヒルで4位入賞したことが、世界の強豪として認識された初めての大会だった。この大会でのエースは葛西紀明であったが惨敗している。ラージヒルでは1本目113mで4位につけると、解説者(秋元正博氏)が「ここで115m以上飛ぶとメダルの可能性があります」と解説する中、116mの大ジャンプに成功しこの時点のトップに。実況、解説者とも大喜びしたのもつかの間、残る3選手が原田のポイントを上回り4位に終わったが、長く低迷していた日本ジャンプ陣の新たなヒーロー誕生の瞬間だった。

翌1993年原田は、ワールドカップ未勝利でありながら、ファールン世界選手権のノーマルヒルで優勝した。これは1972年の札幌オリンピックでの笠谷幸生以来の世界制覇だった。

その翌年のリレハンメルオリンピック・団体で大失敗ジャンプをしているが、このシーズンむしろ好調であったのは葛西紀明で、本来であれば葛西がラストジャンパーとなるべきところだが、この大会葛西は不調。これまでビッグイベントで実績を残し「本番に強い」との評価もあった世界チャンピオンにラストジャンパーのお鉢が回ってきたのである。

これ以降、マスコミ・一般人からのバッシングもあり、また船木和喜の台頭により彼のフォームを意識するあまりスランプに陥ったが、95-96シーズンに本来のフォームに戻したことで調子を取り戻し、度々ワールドカップで優勝するようになる。長野オリンピックの前年である96‐97シーズンは一時不振に陥るも、トロンハイムの世界選手権で優勝。五輪、世界選手権を通じてラージヒルの優勝は日本人初の快挙。ノーマルヒル、団体で準優勝に輝いている。

現役の世界チャンピオンとして再び地元長野オリンピックに臨むこととなったが、国内マスコミは「本番に弱い原田」との論調も見られ、「世界王者」に対する扱いとは言えないものもあった。

長野オリンピックでも、ノーマルヒルでは2回目に失敗しメダルを逃し、また団体競技当日の悪天候もあいまって1回目は79.5mのジャンプとなるが、2回目は当時のバッケンレコードとなる大ジャンプで見事に巻き返した。



今でこそ明るく笑顔を絶やさないイメージがあるが、幼少時は泣き虫で人見知りであった。それがジャンプを始めたことで精神的にも成長し、今の笑顔につながっているが、さすがに長年の重圧から解放された長野五輪の団体戦直後は幼い頃の「泣き虫原田」に戻ってしまった。

そのユーモアとウィットに富んだ性格と豪快かつポジティブなジャンプスタイルから「ハッピー・ハラダ」と呼ばれ、ヨーロッパではオーストリアのアンドレアス・ゴルトベルガーと人気を二分するほどの人気を誇った。なお、両者とも競技者としては引退しているが、飛ぶこと自体は辞めていない。

その反面、内面はいたって真面目で、不平不満は絶対に言わず悩みも自分で抱え込んでしまう性格である。しかしそれが裏目に出てスランプ時に適切な指導を受けられなかったり、トリノ五輪の失格時にはコーチやスタッフにも非があったとの指摘もあった中すべての責任を自分で背負おうとしたなどと言うこともあった。



原田のジャンプスタイルは他の選手と比べ独特で、ジャンプの踏切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。これは、原田の並外れた高い跳躍力を持ったがあればこそのジャンプであった。しかし、このジャンプスタイルは、踏切りのタイミングが合わない場合、大失敗ジャンプにつながりやすいという欠点があった。それが後のリレハンメルオリンピックの失敗ジャンプの要因の1つになった。その後のスランプ時は船木和喜のような低いジャンプスタイルに挑戦するも泥沼にはまってしまう。 しかしサンダーベイ世界選手権で惨敗した後の1995年夏頃から原点に立ち返り高いジャンプを心がけるようになるとそれまで船木型を目指して得た良い部分と合わさり、インパクトをつける高いジャンプでありながらタイミングが多少合わなくても飛距離を落とさない「原田型」というスタイルを会得(踏切のタイミングの許容範囲は一流選手でも80cm程度というが、この頃の原田は1m近くあったと言われていた)、1996-97年シーズンに軽い不調に陥るも同年のトロンハイム世界選手権までに復活を遂げると、その夏からは他の選手より2m近く短い助走でK点を大きく超えるジャンプを見せるほど圧倒的な強さを見せるようになった。しかし他の選手に比べて飛びすぎてしまうため他の選手が軽々大ジャンプを見せるようなアプローチ速度の速い試合運営が続いた時に実力を抑えざるを得なくなって順位に結びつかないケースが増えたが、この技術が長野五輪の団体戦1本目の大雪の中で飛距離には現れなかったが最大限のジャンプが出来る要因となった。

後に原田は、当時活躍していた日本人選手の主流だった、出来るだけ踏み切りの動作を抑えたスタイルに移行する。その後、長い間スランプに陥った原田はトリノオリンピックの直前に、助走姿勢でのひざの角度をこれまでより鋭角にするようにした。このスタイルは、従来の立ち幅跳びで中腰で飛ぶ場合に比べ、より多くひざを曲げることが出きパワーを得られるが、方向性、タイミングの取り方が難しくなる。つまり、このスタイルは方向性よりもインパクトを重視した姿勢である。

皮肉にもこの頃より世界のジャンプスタイルの主流はかつて原田が実践していた「低速でも距離を伸ばす高いジャンプ」に移行、世界の技術が当時の原田にやっと追いついたと言える。



リレハンメルオリンピック・ジャンプ団体で7人が飛び、よほどの大失敗ジャンプでもない限り金メダルが確定している場面で原田は最後の一本を飛ぶことになった。しかし原田の前に飛んだドイツのエース、イェンス・バイスフロクが135.5mのスーパージャンプをマークする。これが大きな重圧となったのか(しかしこの件は原田本人が否定している)。この時点でも105m以上飛べば日本の優勝が決まるはずであったが、結果は97.5mであり銀メダルに終わった。原田はこのことで一部から大バッシングを受け、1年以上自宅などへの嫌がらせもあった。


長野オリンピック・ジャンプ団体で、日本の3番手となった原田の1回目は運悪くほとんど前も見えないような大雪の中で行われた。このためアプローチの速度が著しく落ち、直前に飛んだドイツの選手より1.8km/h、このグループで一番早かった選手より3km/h以上も遅い87.1km/hのスピードで飛び出した。(速度計測地点からカンテの先まででさらに85km/h近くまで減速した可能性もあるとこの時ヘッドコーチだった小野学は自著の中で指摘している。1本目終了直後、小野学はこの速度差に関して競技委員会に抗議したが却下されてしまった)。飛距離だけをみれば一見失敗ジャンプだが、所々ブレーキがかかるアプローチによってまともなクラウチングさえ組めず、他の選手だったら60mにも届かなかったかも知れないと関係者が声をそろえるような状況で、最大限のジャンプをし、飛距離は79.5mではあったが飛型点も着地点のみの減点にとどめて35.6点を獲得。本人にとってもコーチ、観客にとってもショッキングな低空飛行であったがこれが最終的に日本を救うことになった(試合後に岡部孝信が「3人目が原田さんで良かった、俺たちならもっと上で落ちてた」とコメントしている)。2人目までトップだった日本の順位はこの時点で2位に下がり、さらに他国の4人目が大ジャンプ続出の中、4人目の船木和喜が1人だけ悪天候に泣かされ飛距離が伸びず、1本目終了時点で日本は4位まで後退してしまったが、1位との差はわずか13.6点、日本の力を持ってすれば一人でも逆転の可能性のある点差であった(実際に2本目の1人目、岡部孝信のジャンプで1位に浮上した)。

1本目終了時点で悪天候により打ち切りの可能性もあった。2本目が行われるかどうかは、テストジャンパーの結果次第であった。西方仁也、高橋竜二、葛西賀子らテストジャンパーの懸命な頑張りによって2本目が行われることになる。

原田は2本目「両足を複雑骨折してもいい」との覚悟で137mの大ジャンプを決め(決して飛型点の高い美しいジャンプではなかったが)、金メダルへの立役者となった。ジャンプ後自失したように嗚咽しながらも、次のジャンパーである船木和喜への声援「ふなき〜ふなき〜」や、また金メダル決定直後のインタビューで「(リレハンメルオリンピック団体戦での事を聞かれ)でもね、今日は長野だから」「4人たすきをさ、渡しあったんだよ」「(1本目後の気持ちを聞かれ)辛かったよもぅ・・。またね、みんな迷惑かけてんのかなと思ってた・・辛かった・・」「でもね・・屋根ついてないからしょうがないよね」などと、号泣しながら答える姿もみせた(心理学的にこの時の原田の精神状況は「破壊」と呼ばれている)。なお、「ふなき〜ふなき〜」に関してはインタビュアーに「今は船木が飛ぶから待ってくれ」と言いたかったらしい。



長野オリンピックでは個人でもラージヒルで銅メダルを獲得している。それも、1本目に6位から、2本目に一時は測定不能となるほどの大ジャンプを見せての大逆転であった。この時世界一低速に強いといわれていた原田は1本目、早い順番で飛んだ選手さえK点を軽々超えるほどの超オーバースピードによる飛び過ぎへの不安とノーマルヒルから引きずった固さから踏み切りに失敗、しかしオーバースピードと強い向かい風に助けられて120mを飛び6位、しかし1本目のジャンプで完全に吹っ切れた原田は2本目に日本中を驚かせる超特大ジャンプを見せたのだ。飛距離が自動計測できる135mを超えて着地したため飛んだ時点で飛距離が表示されず、原田の飛距離が発表されたのは最後のアンドレアス・ビドヘルツルが飛んでからしばらくたってからだった。あまり話題にはならなかったが、このとき4位のビドヘルツルとの差はわずかに0.1ポイント。そのドラマチックな展開は、NHKの工藤三郎アナウンサーによる「因縁の2回目」、「立て! 立て! 立て! 立ってくれ!! 立った!!!」という実況にあらわされている。



トリノオリンピックに出場するまでに地道なトレーニングを続けた。だが、トリノオリンピックのジャンプ競技を開催する中でジャンプ競技について強風の為に出場枠を減らすというオリンピック運営側の通告があったが、原田はジャンプ競技最後の出場枠に入ることが出来た。そしてジャンプ・ノーマルヒル予選が始まり、95mのジャンプを行ったもののジャンプ終了後の抜き打ち検査によりスキー板が国際スキー連盟(FIS)の定めた規定よりも体重に比べて長い事が発覚、失格となった。規定によると登録された原田の身長174cmで使用できる板の長さは身長の146%の254cmまで。実際にジャンプで使用した板は253cmで、仮に原田が253cm板を使用するならスーツとブーツを着用した体重が61kg以上なくてはならず、検査による体重は60.8kgと、たった200gの差だった。しかし、雪印スキー部や全日本スキー連盟に公式に登録されている今シーズンの原田の身長は173cmであり、その身長で253cm板を使用するのに必要な最低体重は60kgである。原田が語った「勘違い」の理由であると思われるが、この大会においてなぜ1cm高い身長で登録されたのかは不明である。更にこの大会ではコーチなどスタッフが選手がそう言うことにならないためにすべきフォローを怠り選手任せにしたことが指摘されたが、原田が不平不満を言わない性格と言うこともあり、真相は未だにはっきりとはしていない。


主な競技成績
世界選手権(1991年、バルディフェルメ)
個人ノーマルヒル 15位
個人ラージヒル 17位
オリンピック(1992年、アルベールビル)
個人ノーマルヒル 14位
個人ラージヒル 4位
団体ラージヒル 4位(上原子次郎、原田雅彦、葛西紀明、須田健仁)
世界選手権(1993年、ファルン)
個人ノーマルヒル 優勝
個人ラージヒル 4位
団体ラージヒル 5位(須田健仁、岡部孝信、葛西紀明、原田雅彦)
オリンピック(1994年、リレハンメル)
個人ノーマルヒル 55位(2本目は失敗ジャンプとなり54.5mに終わった。)
個人ラージヒル 13位
団体ラージヒル 2位(西方仁也、岡部孝信、葛西紀明、原田雅彦)
世界選手権(1995年、サンダーベイ)
個人ノーマルヒル 52位
世界選手権(1997年、トロンハイム)
個人ノーマルヒル 2位
個人ラージヒル 優勝
団体ラージヒル 2位(船木和喜、岡部孝信、原田雅彦、斉藤浩哉)
オリンピック(1998年、長野)
個人ノーマルヒル 5位
個人ラージヒル 3位
団体ラージヒル 優勝(岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)
世界選手権(1999年、ラムソー)
個人ノーマルヒル 3位
個人ラージヒル 6位
団体ラージヒル 2位(葛西紀明、宮平秀治、原田雅彦、船木和喜)
世界選手権(2001年、ラハティ)
個人ノーマルヒル 5位
個人ラージヒル 33位
団体ノーマルヒル 4位(宮平秀治、岡部孝信、原田雅彦、葛西紀明)
団体ラージヒル 4位(宮平秀治、吉岡和也、葛西紀明、原田雅彦)
オリンピック(2002年、ソルトレークシティ)
個人ノーマルヒル 20位
個人ラージヒル 20位
団体ラージヒル 5位(宮平秀治、山田大起、原田雅彦、船木和喜)
オリンピック(2006年、トリノ)
個人ノーマルヒル 失格
FISワールドカップ通算9勝

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