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我が愛しのアスリート図鑑コミュの杉本 清(実況アナ)

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杉本 清(すぎもと きよし、1937年2月19日 - )は元関西テレビアナウンサーで、現在はアライバルに所属するフリーアナウンサー、タレント、競馬ライター。関西放送記者クラブ会友。 血液型はB型。「関西競馬実況中継の神さま」と謳われ、数々の名台詞で知られる。


奈良県大和高田市出身。奈良県立高田高等学校、関西学院大学法学部卒。大学在学中の1960年に知人のツテを頼って関西テレビにアルバイトとして入社。最初は大道具担当、ついで編成担当だったが、翌1961年、先輩の松本暢章(故人)に勧められアナウンサー試験を受験し合格し、正社員に登用される。同年の冬に研修で松本に連れられて行った阪神競馬場で馬券を的中させ、競馬の魅力にとりつかれる。

翌1962年の桜花賞中継でパドック担当のアナウンサーとなり、同年6月の競馬ダイジェスト番組で出張中の松本に代わって毎日杯の実況を担当。まずまずの出来だった事もあり、以降はパドック担当に加え、土曜日のダイジェストの実況を担当する事になり、ついでゲートリポート担当も兼ねる様になった。

1969年、競馬中継がカラー放送化される事に伴い、メイン実況担当の座を正式に松本から譲られた(これ以前にも現在のGII・GIII相当の重賞を実況したことはあり、1966年4月17日京都競馬場でのスワンステークスが、確認できる内では最古の杉本の実況である)。

正式に譲られて最初の実況は桜花賞だった。実況の中で通過時計を入れたのは杉本が最初とされている。実は、シンザン主戦騎手の栗田勝から『1600mのレースで、最初の800mを47秒で通過すれば前の馬は全部つぶれる』と聞いており、この桜花賞がそのペースで展開していたため、「ゴールまで800m、47秒かかりました。かなり速いペース、桜花賞ペースになっています。追い込み馬が届く展開です。」と思わず言ったが、レースは待機策を採ったヒデコトブキが1番人気・トウメイを差し切って優勝した(しかしその後、関東のアナウンサーから、この実況を雑誌を通じて指摘された)。ちなみに、初期の実況、特に長距離レースの実況ではペースがうまく掴めず、最後の直線で声が一杯一杯になってしまう場面も多かった(代表例:エリモジョージが逃げ切り勝ちを収めた1976年天皇賞・春)。

1973年の天皇賞・春では、双眼鏡で本命馬タイテエムを探すうちに見失ってしまいあやふやな実況を余儀なくされたにも関わらず、モニター画面ではタイテエムをしっかり映していた事や、レースの数日後にその事を視聴者に指摘されたの切っ掛けに、双眼鏡を介した実況からモニター画面を重視した実況に変わっていった。天皇賞の2週間程度前に行われた桜花賞でも2番人気・キシュウローレルをクインマハールと間違えて実況してしまった。ほんの少しの間であったのと、タイテエムと違い、レースに勝利したのが間違えた馬達と関係無い1番人気・ニットウチドリの為か、天皇賞の様な指摘は見当たらなかった。実況では名調子が定評もあり1973年の菊花賞の実況では3角にさしかかった2番手ハイセイコーを『ゆっくりと、ゆっくりと降らなければなりません』と放送し、多くの人に好印象を与えた。ハイセイコーには特に思い入れがあった様で、1974年秋の京都大賞典では『ミスターサラブレッド・ハイセイコー、これが関西最後の雄姿です』は引退を年末に控えているとは言うものの、現役馬を表現するのには異彩を放った放送といえよう。これは概ね好評を博した。

テンポイントとの繋がりは各方面でたくさん触れられているので、ここでは多くは触れないが、1975年の阪神3歳ステークスの実況の評判を聞きつけたポリドールレコードの人間(「さらばハイセイコー」のレコードも担当)が、杉本に「歌を歌ってくれ」と依頼。杉本は一応は歌ってレコーディングもしたものの、出来の酷さに結局は没となった。このレコードが世に出た頃、テンポイントが初めて関東のレース(東京4歳ステークス=トキノミノル記念。現在の共同通信杯)に出走する事になり、ポリドール関係者は東京競馬場のパドックにテンポイント応援の横断幕を張った。これが、現在では各地で一般に見られるパドック掲示の横断幕の始まりと言われている。

レコード関連では、1980年に「杉本清・競馬名勝負大一番! - 1980年度中央競馬8大レースのすべて」という企画レコードもある。また1997年には「杉本清のGI~完全実況′97前期・後期」のタイトルでCD・ビデオを出している。東京優駿(日本ダービー)を実況したのは、このレコードの為の実況と1997年(グレードAの競馬コーナー用に収録。)と2000年以降(詳細は後述)。又、テンポイント・トウショウボーイ・グリーングラス(俗に「TTG」と称す)が揃ったレースではこの3頭が上位を独占したが、杉本がTTG揃い踏みのレースを実況したのは、厳密に言えば1976年の菊花賞だけである(揃い踏みのレースは3度あったが、他の2回のうち1977年の宝塚記念は他のアナウンサーが実況しており、後述の名実況で名高い有馬記念は、本来は日経新春杯のアクシデントで実現せずに終わったテンポイントの海外遠征ドキュメンタリー番組での収録が予定されていた実況である)。

「杉本節」、「実況詩人」と呼ばれた杉本ではあったが、松本とは違い三冠馬の実況(松本は1964年シンザンの三冠達成を実況)をする機会にはなかなか恵まれなかった。1970年の二冠馬タニノムーティエは喉鳴りで完敗、1971年の二冠馬ヒカルイマイと1975年の二冠馬カブラヤオーは故障で出走叶わなかった。周囲から「杉本は三冠馬の実況をした事が無い」と言われ始めたその矢先、1983年ミスターシービー、1984年シンボリルドルフと2年連続で三冠馬が出現、1年置いた1986年にはメジロラモーヌ、その8年後の1994年にはナリタブライアンと、計4頭の三冠達成の瞬間の実況をする栄誉を担った。

1990年に「専門職」と呼ばれる半ばフリーな立場となり(『優駿』での杉本の説明によれば、この「専門職」とは「好きな事をやっていいと言う事だったんですよ。こう言う対談に出るにしても、会社を通さなくて良いから、自分で判断してやる」立場との事(参考文献参照)。関西テレビ内では、杉本の後輩・桑原征平もフリーになる直前の肩書は「専門職」だった)、1992年からは年末恒例の「さんま・清の夢競馬」がスタート、1995年からは「ハンマープライス」のオークショニアとして出演し、とんねるずと親交を持つようになり、バラエティーにも進出する。とんねるずとはスポーツ番組「グレードA」でも一緒に担当している。また、1995年ごろ「さんまのナンでもダービー」(テレビ朝日制作)では局の垣根を越えて出演し、実況を担当した(当時は在阪テレビ局アナが系列外の在京テレビ局のテレビ番組に出演するのも今まで無く、杉本が初めてである)。

一方では、ライスシャワーが予後不良となった宝塚記念での実況について苦情の手紙を寄せた視聴者に、生涯初めて実況に関する謝りの手紙を出している[1]。1996年には、大往生を遂げたシンザンの追悼イベントの司会も勤めた。

1997年2月19日編成局専任局次長職を最後に定年退職。定年退職前、とんねるずの誘いでアライバルへの所属が決定。定年退職の当日は「ハンマープライス」の企画で「杉本清引退記念パレード」と銘打って、大阪市内をオープンカーでパレードを行った。以降は日本テレビ「スポーツうるぐす」の競馬キャスター、関西テレビ「ドリーム競馬」のターフコメンテイターを担当。また、数々の競馬イベントの司会も担当し、さらにはCMのナレーションでも多く起用されている。

競馬実況そのものは、定年退職直後は宝塚記念・天皇賞(春)・菊花賞とその関連のレースに絞り、徐々に担当レースをかつての部下で後輩アナウンサーの馬場鉄志に譲り(それ以前から、杉本の不在時の実況や牝馬戦線を担当していた)、2004年の宝塚記念で一応のピリオドを打っている。

その後、2007年4月22日に、東京競馬場フジビュースタンド竣工を記念して開催された第1回ジョッキーマスターズで久々の実況を行った。

また、フジテレビ系列の真夏の一大イベント「FNSの日」の盛り上げにも一役、買っている。1993年の『第1回平成GIダービー』が同日・初登場且つ初実況。それ以降、1994年の『第2回平成GIダービー 北野大障害』を前年に引き続く2年連続実況を担当。それから11年後の2005年にはFNSあっついテレビ局決定戦の決勝トーナメント・初戦として行われた準々決勝のサラリーマンドッジボールと準決勝&決勝戦の社長アームレスリング、全7試合の実況を担当した。 

なお、競馬中継の他にも関西テレビ制作の三菱ギャラントーナメント(現・三菱ダイヤモンドカップゴルフ)の実況を1996年まで務めていた。最終日が日本ダービー当日と重なるケースが多く、ホールアウトが遅くなると、ダービーの映像をリアルタイムで見ることができないことも多かった。

天覧競馬となった2005年10月30日の第132回天皇賞(秋)のレース前、競馬関係者の一人として今上天皇から言葉を掛けられた。

長年関西テレビの競馬中継で実況を担当し、「あなたのそして私の夢が走っています」という言葉は、宝塚記念を象徴する名言となっている。

杉本は2000年の菊花賞で実況生活に一旦区切りをつけて以来、宝塚記念だけは毎年実況していたが、2004年を最後に宝塚記念の実況からも引退。2005年以後の宝塚記念の実況は関西テレビの石巻ゆうすけアナウンサーが務めている。最後の宝塚記念の実況では、出走馬がゲートに収まったとき「清、最後のGI・・・」と言った。

彼の打つ本命印(俗に「私の夢」と呼ばれている。少し前は「杉本情報」などとも呼ばれていたことがある)の馬がことごとく勝てないため、競馬関係者に本命にしないでほしいと言われることがある。

競馬関係者との交流が幅広いのは言うまでもないが、それでも関東所属や地方競馬の関係者の中にはあまり顔を知らない人もいる。かつて関東所属の関係者で縁が深かったのは福永洋一と同期の柴田政人や、菊花賞2連覇の菅原泰夫が代表格で、岡部幸雄とは挨拶や対談程度で深いつきあいはなかった。しかし、岡部が引退して評論家に転身してからは、一緒に仕事をする機会が急増している。また、園田競馬場・姫路競馬場の場内実況で有名な吉田勝彦とも交友がある。

前述のように、1990年からアナウンサー職ではなく「専門職」となり、関西テレビ関係以外での仕事もするようになった杉本であったが、1996年8月15日に旭川競馬場で行われた第8回ブリーダーズゴールドカップ(優勝・メイショウアムール)で、たまたま夏休みで(別の仕事説あり)旭川競馬場に来ていた杉本がレース実況も行った。杉本本人は「専門職」でもあり、また地方競馬を盛り上げる意味合いで引き受けたとされるが、「許可なし」でやったことを主催者側と関西テレビが問題にし(先の「専門職」に関する説明とは随分異なる反応であるが)、翌1997年に発売された地方競馬の交流重賞の映像を集めたビデオ「ビデオハロン96前期」では、このレースの実況が別のアナウンサーに差し替えられている。なお、定年退職後も同レースを含む地方競馬の実況をしばしば行っていた。

1995年1月17日早朝、兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災の際は、関西テレビのアナウンサーが総動員で被災地の現場や最新情報などをレポートしたが、杉本アナだけは当時管理職であり「競馬実況のイメージが強すぎる」との理由から震災報道には加わらなかった。また、ニュースもあまり担当することはなく、KTVワイドニュース(FNNスピーク)内でのローカルニュースを担当する程度であったが、1980年代中盤以降はそれもほとんどなくなった。定年退職の日には久方ぶりにニュースを担当した。
同じ杉本姓で自身が定年退職した1997年に入社した杉本なつみアナウンサーとは直接のつながりはないが、1999年のセンバツに母校・高田高校が出場した際、杉本なつみの高田高校への取材に高田高校卒業生ということで同行。生徒に「親子ですか?」と聞かれ、「親子に見えるか?」と答えていた。
家族は妻と長男。長男の名前が横山典弘と同じであり、「『弘典』で同名は多くいるが、『典弘』で同名というのはそんなに多くないだろうから珍しい」と著書の中で語っている。
大川慶次郎、杉本清、井崎脩五郎の予想が重なった場合全く当たらないと言われており、2005年菊花賞で杉本、井崎の予想が重なった際、「天国の大川さんも同じだろう、きっと笑ってますよ」と二人で笑い合っていた。

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