ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュのJ・アレジ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ジャン・アレジ(Jean Alesi, 1964年6月11日 - )は、フランス人レーシングドライバー。

フランスのアヴィニョン生まれ。両親はシチリア出身のイタリア人であり、イタリア語名ではジョヴァンニ・アレージ(Giovanni Alesi)となる。実家は自動車修理工場で、アレジは小さい頃から工場の敷地内でシトロエン・2CVやルノー・5を運転して運転を覚えていった。時には激しくやり過ぎて横転したこともあったという。

17歳の時カートレースを始め、1987年にフランスF3選手権のチャンピオンとなる。

1988年、オレカチームより国際F3000選手権にステップアップしたがランキング10位に終わり、1989年にEJR(エディ・ジョーダン・レーシング、後のジョーダン)へ移籍した。

1989年は国際F3000の初年度となる無限ホンダエンジンとレイナードの組み合わせのマシンで参戦した。DAMSのエリック・コマスとは同ポイントであったが、上位成績の数の比較により、チャンピオンを獲得した。

全日本F3000選手権にもスポット参戦した。

1989年のフランスGPでティレルよりデビューした。このレースよりティレルがキャメルのスポンサードを受けることになり、マールボロドライバーだったミケーレ・アルボレートがチームを去ったため、キャメルの支援を受けるEJRのアレジに声がかかった。このレースでいきなり4位入賞を果たし、注目を浴びた。以後もティレルから継続して参戦したが、国際F3000を優先したため2レースを欠場した。フランスGP以降、イタリアGP(5位)とスペインGP(4位)で入賞した。

翌1990年、ティレルからF1フル参戦(チームメイトはこの年ロータスより移籍した中嶋悟)。操縦性に優れるマシンとピレリタイヤを武器に、果敢な走りでトップドライバー達に挑みかかった。開幕戦アメリカGPではスタートでいきなりトップに立ち、後方から迫る王者アイルトン・セナに一旦抜かれるも、次のコーナーで鋭く抜き返す。再び抜かれ2位に終わったが、その大バトルで一躍脚光を浴びた。その後のモナコGPでも、ゲルハルト・ベルガーを抑えて2位を獲得した。

さっそく将来のチャンピオン候補として争奪戦が始まる。まずウィリアムズと仮契約したが、幼少より憧れていたフェラーリからも誘いを受ける。その当時フェラーリはベネトンからアレッサンドロ・ナニーニを獲得する方向でまとまりつつあったが、彼も巻き込んだ二重契約問題で揉めた末、ウィリアムズから契約を買い取る形でフェラーリ入りの夢が実現した。余談だが、この時フェラーリからウィリアムズへ契約買取代金の一部として1990年のマシン641/2が贈られており(オーナーのフランク・ウィリアムズが所望したと言われている)、ウィリアムズのファクトリーには歴代のウィリアムズF1マシンに混じって真紅の跳ね馬が並んでいる。

1991年にフェラーリ入りし、アラン・プロストのチームメイトとなる。同郷のトップドライバーと組み3位3回を獲得したが、チームは成績低迷で混乱した。シーズン終盤にプロストがフェラーリを離脱すると、アレジはエースとなった。翌年はイヴァン・カペリとコンビを組んだが、チーム成績はさらに低迷。雨中のレースなどで健闘したものの優勝することはできなかった。


1995年 カナダGP/フェラーリ1993年からの3年間は、ベルガーとの息の合ったコンビでフェラーリの再建に尽くした。1994年のイタリアグランプリで初のポールポジションを獲得。1995年のカナダGPで、ミハエル・シューマッハのマシントラブルでトップに立ち、F1通算92戦目でようやく初優勝を果たした。憧れのジル・ヴィルヌーヴの名前を冠するサーキットで、ジルと同じカーナンバー27のフェラーリでの勝利であった。(この6月11日はアレジ自身の誕生日でもある)早くから逸材といわれながら、当時としてはティエリー・ブーツェンの96戦に次ぐ2番目に遅い初優勝であった。また、「国際F3000(後のGP2にあたる)チャンピオンはF1では優勝できない」という当時のF1界のジンクスを打ち破る勝利でもあった。また、イタリアGPでは、ベルガーとのワンツー体制を築いていたが、レース中にアレジの412T2の車載カメラがちぎれ飛んでベルガー車のフロントサスを壊してしまい、さらに悪いことに残り数周でアレジ車もリヤベアリングがトラブルを起こしてリタイヤしてしまった。

フェラーリの復活に貢献したものの、チームは1996年にミハエル・シューマッハを招聘し、結果的に1対2のトレードの形でアレジとベルガーはベネトンへ移籍した。ベネトンでもコンスタントに成績を残しフェラーリ時代を上回るシリーズ成績を残したが、チャンピオン争いどころが優勝もならず、2年間の在籍後に離脱。シューマッハなら勝っていたとされ評価を下げてしまい、その後はトップチームから声がかからず、ザウバー(1998年〜1999年)、プロスト(2000年〜2001年)、ジョーダン(2001年第13戦以降)などの中堅チームを転々とした。

ジョーダンでは2002年の契約延長を望んだが、チームがホンダエンジンの供給を巡り佐藤琢磨との契約を選んだため、最終戦日本GP直前にF1からの引退を表明。ラストレースは新人キミ・ライコネンのコースアウトに巻き込まれる形で終えた。 この年(2001年)のアレジは、リタイアはこの最終戦のみでプロスト〜ジョーダン移籍後全レースを完走していた。

2002年よりドイツツーリングカー選手権(DTM)に活動の場を移し、メルセデス・ベンツチームのワークスドライバーとなったが、顕著な成績は得られなかった。2006年シーズンを最後にDTMからも引退。その傍ら、日本のディレクシブのシニアエクゼクティブアドバイザーに就任し、マクラーレンのセカンドチーム立ち上げを目指し、F1関係者との折衝に当たった。しかし、FIAの承認を得られず、また、ディレクシブのモータスポーツ活動撤退により、計画は実現に至らなかった。現在は、スピードカーレースに参戦中である。

F1デビュー以前はエリック・ベルナール、エリック・コマスと共にフランスの若手有望株、フランスのABC(Alesi,Bernard,Comas)と呼ばれた。当時は荒削りなアレジよりコマスの評価が高かったが、F1で成功できたのはアレジのみであった。

F1ドライバーとして卓越したマシン操縦力を持っており、スライドした時のコントロールなどは天下一品。タイヤの使い方に巧く、磨耗したタイヤでライバルが苦しむ中上位に残る事も多かった。雨のレースに強く、濡れかけた路面をドライタイヤで走るのが得意だった。また、スピンした時のリカバリーは決まって派手にタイヤスモークをあげるスピンターンを決めていた。そのアグレッシブな走りで「フェラーリ伝説のドライバー、ジル・ヴィルヌーヴの再来」と呼ばれ、特にティフォシからの人気は凄まじいものがあった。

しかし、不幸にもアレジがF1で戦ったのは「ただ速く走る」から「総合力で勝つ」時代への転換期であった。ドライバーにはチームを束ねるリーダー的資質と開発能力が求められ、アレジのような純粋なファイターでは結果を得られなくなった。マシン自体もブレーキを遅らせたドライビングスタイルでは結果が出しづらいようになっており、様々な意味で「10年遅く生まれてきたドライバー」という評価もある。また、勝利に近い位置にいながら、マシントラブルなど不運に泣く場面も多かった。ベネトン時代以降はその熱き走りを封印し、マシンをなだめながら粘り強く完走へ導く走りを続けざるを得なくなっていた。ただ、その熱きドライビングスタイルに魅了されたファンは今でも多く、『記録よりも記憶に残る』ドライバーの一人として挙げられる。

フランス生まれ(イタリア系フランス人)ながら、シチリア人の熱い血を宿しており、良く言えば情熱的、悪くいえば直情的である。カッとなりやすい所から「大きな子供」と呼ばれたこともあった。
少年時代はジル・ヴィルヌーヴが憧れのドライバーで、自宅の部屋には等身大のポスターが飾ってあったという。1992年には、チームに頼み込んでジルと同じカーナンバー"27"を得た。また、エリオ・デ・アンジェリスも尊敬しており、自身のヘルメットにアンジェリスと同じ赤と黒のストライプをデザインしている。
コーナリング中、ヘルメットをコーナーのイン側へ傾ける癖があった。ステアリングの握り方も独特で、円の頂に近い、時計の針に例えるなら「11時5分」の位置を握っていた(上部が平らになったD型や左右にだけグリップがあるタイプでなく円形のステアリングを使用していた)。同郷の先輩パトリック・タンベイが「アレジが勝てないのはこの握り方のせい」とテレビ中継で批判したこともあったが、アレジは後に優勝することで見返した。
1991年、フェラーリに移籍して初めてのテストで「アラン・プロストと同じセッティングにしてくれ」と所望、1996年にベネトンに移籍して初めてのテストでは「ミハエル・シューマッハと同じセッティングにしてくれ」と所望し、いずれのセッティングでも乗りこなす器用さを見せた(余談だがベネトンでやはりシューマッハのセッティングを試したベルガーはスピンを連発した)。
1992年にローレンス夫人と結婚し長女シャルロットが生まれるが、後に離婚。離婚前から日本の女優後藤久美子と交際しており、のちに事実婚の形で婚約(現在は入籍してると噂されているが真相は不明)。後藤がアレジの熱心なファンで、日本のファンクラブパーティーで知り合ったことから交際するようになったという。1995年の初優勝時には日本向けのインタビューで交際宣言を行い、しばしワイドショーを賑わした。その後3子を設け、TOYO TIRESのCMにも仲良く出演している。親日家であり、度々日本を訪れバラエティー番組にも出演している。
アラン・プロストは結婚式の立会人を務めるなど、公私共に友人であった。プロストチームでも関係は保たれたが、2001年のカナダGPでアレジが入賞した際、高価な無線器具の付いたヘルメットを観客に投げ与えてしまったことにプロストが怒り、シーズン中にチームを去ることになってしまった。
1993年F1日本グランプリでリタイアに終わった夜、帰京先のジュリアナ東京で踊りまくり、リタイアのストレスを発散した。
片山右京はフランスF3時代に競い合った旧友。ともにジル・ヴィルヌーヴを敬愛している。
ミハエル・シューマッハとは家族ぐるみで親交があり、シューマッハ夫妻とアレジ・後藤ペアがベビーカーを並べてショッピングしている光景がパパラッチされたこともある。アレジが日本GP前のイベントで突然引退を表明した際、同席したシューマッハは驚きを隠せなかった。
中嶋悟が出演したエプソンの企業TVCM中で疾走するティレル019をドライブしていたのは、中嶋のヘルメットを被ったアレジである。
F1でのハイテクデバイス禁止〜ラウンチコントロールシステム解禁までの間、ドライバーの実力によるスターティンググリッドからのスタート・加速技術において、デビッド・クルサードと並び「スタートダッシュがうまいドライバー」と評価されていた。
1995年フランスグランプリでは、周回遅れのルカ・バドエルと接触し、怒りの抗議のため左腕を振り上げたが、もう一方の右手では同時にカウンターを当てて車を制御するアレジらしい走りを見せた。
ポールポジションを獲得したのは2回であるが、いずれもイタリアグランプリ(モンツァ)で獲得したものである。(1994年、1997年)

コメント(1)

お忙しい中アレジ選手のアップありがとうございます。
あまりのなつかしさに泣けました、、

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング