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我が愛しのアスリート図鑑コミュのザ・シーク(プロレス)

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ザ・シーク(The Sheik、1924年6月11日 - 2003年1月18日)は、アメリカ合衆国ミシガン州ランシング出身(ギミック上はヨルダン・アンマン出身)のプロレスラー。

本名は、エドワード・ジョージ・ファーハット(Edward George Farhat)。「シーク(首長)」の名を冠したプロレスラーは数多く存在するため、本国アメリカでは尊敬の意味も込めジ・オリジナル・シーク(The Original Sheik)とも呼ばれる。

元祖「アラビアの怪人」。プロモーターとしても活躍し、「デトロイトの帝王」と呼ばれた。

身長183cm、体重110kg(現役当時)。甥のサブゥーもプロレスラー。

両親はレバノンのベイルートからアメリカへ移民として渡ってきた。11人兄弟の10番目だったため、家庭は貧しく幼い頃から働いて家計を助けた。学生時代はアメリカンフットボールに熱中し、全米屈指の名門大学ミシガン大学でもスター選手として活躍した。

1947年プロレスデビュー。当初は普通のファイトスタイルでテキサス州等を転戦し、ドリー・ファンク・シニアとも戦った。リングネームもザ・シークではなく、「ザ・シーク・オブ・アラビア(アラビアの酋長)」だった。その後「蛇」・「女性マネージャー」・「火炎攻撃」を使い「狂人キャラ」を確立していった。1962年、NWA認定USヘビー級王座を獲得。1964年にデトロイト地区のプロレス興行権を買い取り、プロモーターとしても有名な存在となる。

1972年9月に末期の日本プロレスのリングに上がるため初来日。この時は坂口征二とUNヘビー級2連戦を行い、初戦で王座を奪取している(第2戦で奪回される)。1973年全日本プロレスに初参戦。ジャイアント馬場のPWF世界ヘビー級王座初防衛戦の相手を務めている。1974年には新日本プロレスのリングにも上がっている、しかしシリーズ中に放棄し帰国してしまったために、以降新日本プロレスから出入り禁止となり、1シリーズしか参戦していない(デトロイトで他の勢力が興行を行い、地元を留守にする訳にはいかなくなったため帰国したというのが真相)。1977年、全日本の「世界オープンタッグ選手権」にアブドーラ・ザ・ブッチャーと「地上最凶悪コンビ」を組んで参加。「ザ・ファンクス」と凶器攻撃(主にフォーク)で大流血戦を繰り広げ、日本のプロレスファンの度肝を抜いた。1979年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」では、ブッチャーと仲間割れして火炎攻撃を見舞わせた。翌1980年の世界最強タッグでは「シークのコピー」といわれたグレート・メフィストを連れて参戦、ブッチャー組との最終戦で両者リングアウトに持ち込んでブッチャー組の優勝を阻止している。1981年の世界最強タッグにはマーク・ルーインとのコンビで参加。新日本から移籍してきたタイガー・ジェット・シンと抗争を繰り広げたが、衰えは隠せず、シンとのシングル戦ではリングアウト負けしている。昭和期ではこれが最後の来日となった。

1990年以降はFMWを主戦場として、大仁田厚と抗争を繰り広げた。アメリカでも活動を続け、ECWにも登場している。1998年12月11日に大仁田が旗揚げした新団体「USO」の後楽園ホール興行でザ・シークの引退セレモニーが行われた。

2003年1月18日、ミシガン州・ランシングのスパロー病院で肺炎により78歳で人生の幕を閉じた。彼の死は来日したアブドーラ・ザ・ブッチャーによって日本人に伝えられた。

2007年に、WWE殿堂入りを果たした。

「ザ・シーク」とはイスラム教徒の家長・首長を意味する語だが、ザ・シークは文字通りレスラーとして、またプロモーターとして悪役レスラーの「家長」を貫いた。リング外では、スーツをビシッと着こなし「アラブの大富豪」を思わせる気品も持ち合わせていた(本名の「ファーハット」はアラブ世界で上流階級に通ずる姓である)。それとは対照的にリング上では狂人を演じ続け、終生プロに徹したその姿は甥のサブゥーは勿論、大仁田にも影響を与えた。
1977年12月15日に蔵前国技館にてザ・ファンクスと共に行われた世界オープンタッグ選手権最終戦では、12分を過ぎたころ、五寸釘を改造したと思われる鋭利な刃物でテリー・ファンクの右肩口を切り裂き、重傷を負わせたあと、傷口に向かい、今度はタッグのアブドーラ・ザ・ブッチャーがフォークでテリーの右腕を突き刺し、さらに交互に深い傷を負わせたが、ドリー・ファンクが入り、テリーに包帯を巻いた後、両方がストレートパンチをあて、さらに進んだ後、シーク・ブッチャー組の反則負けとなった(ちなみに、レフェリーにも凶器攻撃をしている)
1992年5月6日、FMW兵庫県・三田市大会における大仁田・ターザン後藤組VSシーク・サブゥー組のファイヤー・デスマッチでは、リングの周りの火炎の勢いが強すぎるというアクシデントが起きた。リングは凄まじい火炎に囲まれ酸欠状態となり、異変を察知したレフェリー・レスラー達は次々とリングを飛び降りたがシークは最後まで異様な姿でリング内に残り、ぎりぎりでリングから降りると逃げ惑う観客に睨みをきかせ、場外でも更に大仁田に火炎攻撃を仕掛けた。ノーコンテストの裁定が下ると自ら救急車に乗り込み病院へ直行した。火傷は全身の60%におよぶ重症で、死も覚悟した大仁田は急遽アメリカからシーク夫人を呼び寄せたが二日後には「もう大丈夫だ。」と言って大仁田の肩を叩いたという。明らかに主催者側の不手際だったが、「邪道」と呼ばれながら体を張って頑張っている大仁田には敬意を払い、不手際を責めることは無かった。そんなシークに敬意を表すため引退セレモニーを行った際は、「これは何だ!オレは永遠に引退などしない。」と言い放ったという。しかし、長年のレスラー生活で既に足が十分に動かせなくなっており(かかとの感覚が完全に無くなっていたという)既に試合をすることは不可能でそのまま引退した。
その凶行は時にレスラー以外にも及び、「全日本プロレス中継」のアナウンサー倉持隆夫の額を切り裂いて重傷を負わせたこともある。だが後に倉持がデトロイトに赴いた際、シークはそのことを謝罪し、倉持をたいへん豪華にもてなしたという(ちなみに「重傷」というのは誇張であり、後輩アナウンサーの若林健治によれば実際は数針縫った裂傷だったらしい。だが酒席での倉持は気が大きくなったのか、「いや〜あの時は12針縫っちゃってね〜」などと誇張表現した回想をしていた、とのことである)
日本のプロレスファンを愛しており、引退セレモニーでは「日本のファンは世界一のファンです。」とリングからコメントした。また、引退後に自分の豪邸に日本人ファン数十人を招待したこともある。
好物はアップルパイ。これを手土産に持っていけば、「りんごが少ない」などと小言を言われつつもインタビューを受けてくれたという。
ジャイアント馬場が亡くなった時に寄せた追悼コメントは「馬場が良いプロモーターだったとか、良いライバル関係だったとか言う思い出は他の爺さんレスラーに聞いてくれ」という一見素っ気ないものだったが、これは終生ヒールを貫き、リング上では馬場と常に対立し続けたシークなりの哀悼の意だった。
狂人ヒールとしてのイメージばかりがついてしまっているが、キャリア初期の試合ではしっかりとしたレスリングのテクニックも駆使している。後進の指導においては、ヘッドロックのかけ方を徹底的に教え込むなど、基礎技術を重視した育成方針をとっていたことが、サブゥーの回顧などから明らかになっている。

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