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我が愛しのアスリート図鑑コミュの上田 馬之助(プロレス)

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上田 馬之助(うえだ うまのすけ、1940年6月20日 - )は、元大相撲力士、日本の元プロレスラー。本名:上田 裕司(うえだ ゆうじ)。愛知県出身。身長190cm、体重118kg。頭髪をまだらに金髪に染めていた事から「まだら狼」と呼ばれた。

1958年に高校を中退して追手風部屋に入門。その後間垣部屋に移る。当時の四股名は「上田山」→「海部錦(あまにしき)」。

1960年に、追手風部屋に同期入門した仲間である林牛之助(ミスター林)の誘いで、力士を廃業し日本プロレスに入門。1961年4月プロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、ショー性を一切排した「ガチンコ」に滅法強いといわれていて、その意味では現在の総合格闘家の元祖ともいえよう。(当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまう事がしばしばあったらしく、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていた。)

1966年にアメリカに渡り「ミスター・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年3月に帰国したが、ここでも馬場、猪木、坂口征二らの影に隠れ、大きな活躍はできなかった。1971年末の猪木追放騒動では、猪木の計画を日プロ幹部に密告したといわれる(後述)。馬場に次いで坂口も日プロ離脱を表明した1973年3月、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得、念願の国内初戴冠を果たしたが、まもなく日プロは崩壊した。

その後、大木らと共に全日本プロレスへ参戦したが、前座扱いだった為フリーとなり渡米、南部地区を中心に転戦した。1976年、アメリカから馬場、猪木、ラッシャー木村への挑戦を表明、木村が応じたため、同年5月に国際プロレス参戦した。この時から前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(後に髪全部を染め、「金髪の狼」「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになった。木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得。日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めた。

1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成して北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けることになる。1978年2月8日には因縁深い猪木と釘板デスマッチを実現(11分2秒 上田のTKO負け)。シンと仲間割れした決着戦では、猪木がレフェリーを務めるも、上田・シンとも猪木を急襲、試合は無効試合になるが、対猪木の共闘戦線としてシンと和解する。同年暮れにはヒロ・マツダ、マサ斉藤らフリーの日本人レスラー達と狼軍団を結成、新日勢と抗争を展開した。斉藤とのコンビでは国際プロレスにも参戦した。その後も主にシンとのコンビで新日に参加したが、1979年以降はやや戦績を落とし、坂口との北米ヘビー級王座をめぐる抗争がメインとなった。

1981年に再び全日本プロレスへ、先に移籍したタイガー・ジェット・シンを追う様に参戦した。ここでもインタータッグ王座を獲得するなど、ヒールとして大いに暴れた。しかし、またしてもシンと仲間割れをし全日本プロレスを去る。そして新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日に再参戦。一時期はマシン軍団やヒロ斉藤との共闘をしていたが仲間割れし、カルガリー・ハリケーンズの離脱後に新日正規軍入り、UWF軍との5対5のイリミネーション・マッチでは、前田日明と心中して場外に飛び降り引き分けるという活躍をした。(ちなみに当時の上田の入場テーマは、プロレスリング・ノアの三沢光晴が今現在使っている「スパルタンX」である。また、前述の全日本プロレスにおけるシンとの仲間割れを起こした試合は、全日正規軍+プリンス・トンガvsシン軍団の4対4で行なわれた日本初のイリミネーション・マッチであり、両団体の歴史的試合にまたがって参加したのは上田だけである。)その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体を転戦した。

1996年3月に東北自動車道で、西濃運輸との不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事で一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい。

その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。

その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。
常に竹刀を片手にし、レスラー人生を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。また、高いプロ意識の持ち主であったことが言動の随所に表れている。

相撲時代に毛筆の訓練を受けたために、能筆としても知られていた。
サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「プロレスにライセンス制度を導入すべきだ」というような発言もしている。
全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、親しいプロレス関係者には、日本プロレスのレフェリーだった沖識名がハワイへ帰国する際に、全日が「ありがとう興行」を実施したのに売上から餞別を一切渡さなかった(松岡巌鉄と上田がファイトマネーの中から餞別を渡した)事が最終的なきっかけだったと語り、後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。
ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。
以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ・フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期がある。
自身の隆盛期が過ぎた頃に、海外で顔にペイントをし「テング」のキャラクターとリングネームでも活躍していた。なお日本では全日で一回だけ、ザ・グレート・カブキとのシングルが組まれた際にこのキャラクターで試合をした。
引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
外人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。
筆まめという一面もあった。日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに、丁寧な文体で書かれた近況の手紙を、定期的に送っていたという。
上田が新日正規軍から離れ(前述)セミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」というマイクアピールを行った。このもようは「言いたい事だけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。

ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。

一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、この事に気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。

当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかった事に嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。

ただ2007年1〜5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。

いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、その後日本プロレスは崩壊し「全日本プロレス」と「新日本プロレス」が誕生した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落とした事も事実である。

上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。

山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。





コメント(1)

本当の上田馬之助さんを知りました。鳥肌が立ち、感動しました。ありがとうございました。

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