ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュの三沢 光晴(プロレス)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
三沢 光晴(みさわ みつはる、本名:三澤 光晴、1962年6月18日 - )は、日本の男子プロレスラー。北海道夕張市生まれ、埼玉県越谷市育ち。プロレスリング・ノア(以下ノア)代表取締役社長。あわせて2006年9月にグローバル・レスリング連盟初代会長に就任。

現在、関東地区で放映中の不動産会社「リーヴライフ21(ザ・リーヴ)」のコマーシャルに出演中である。

人気・実力などにおいて新日本プロレスの蝶野正洋、全日本プロレスの武藤敬司、ノアの小橋建太と共に、日本の男子プロレス界の頂点に君臨する。いくら打たれても投げられても立ち上がってくるところから「ゾンビ三沢」「受け身の天才」「アンタッチャブル」と称され、若い頃には端整な顔立ちから「エルボーの貴公子」とも呼ばれたが、一方で全日本プロレス時代はしばしば満身創痍の状態でリングに上がりつづけていたことから、「ガラスのエース」とも呼ばれていた。

一貫してグリーンを基調としたロングタイツを着用し続けている。理由として、

彼が好きだった正統派外国人レスラー、ホースト・ホフマンに倣った物であること
占い師に「貴方は緑がいい」と助言されたこと
などが挙げられている。 初期のデザインはタイツの白い部分がリングシューズのあたりまで内側に直線的に描かれていたバージョンであったが、間もなく白い部分が外側から内側にL字で描かれる現行バージョンに変更された。また、1994年6月の川田利明との三冠戦ではL字の部分が従来より丸まったデザインでのタイツを着用した。

例外的に、マスクを脱いだ直後の試合で新コスチュームが間に合わず、タイガーマスクのロングタイツや青のロングタイツ(デザインは緑の旧バージョン)を、1994年のサマーアクションシリーズIIでは青や赤のロングタイツ(デザインは現行バージョン)を着用した事がある。

また、彼が旗揚げしたプロレスリング・ノアでは、リングマットに自身のイメージカラーと同じエメラルドグリーンの物を使用している。これは「目に優しい色だから」という理由もあるようだが、日本のプロレス・格闘技団体では青を採用することが多いため、プロレス専門誌の写真などでも特徴的な印象を与えている。

1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。埼玉県と北海道の間で転居を繰り返すが、両親が離婚したために兄と共に母方の三沢家に引き取られ越谷市に移り住む。幼少の頃、兄と一緒にテレビに流れる全日本プロレス中継を見て「見るもんじゃなくてやるもんだな」「俺ならもっと面白く出来る」と思いプロレスラーへの憧憬を抱く。中学3年の時に家を抜け出し全日本プロレスの事務所まで押しかけたが、事務所の前にいたジャンボ鶴田に「僕は大卒だけど入門が遅すぎたとは思わない。高校を出てからまたおいで。」と説得され、高校への進学を決意。

1978年
プロレスの為にレスリングの名門である足利工業大学附属高等学校に入学。3年時に世界ジュニア選手権出場、国体で優勝を果たす。
長く盟友として苦楽を共にする一つ下の後輩川田利明とはこの時に出会っている。
1981年
3月 - 全日本プロレスに入門。同年8月21日、埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて同期の越中詩郎を相手にプロレスデビュー。同年10月シングル戦初勝利。
1982年
東京スポーツ新聞社制定 昭和57年度プロレス大賞・新人賞獲得。
1983年* 4月 - ルー・テーズ杯争奪戦で準優勝。
1984年
3月 - 越中と共にメキシコに遠征に出発。
同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身。東京・蔵前国技館にてお披露目される。

8月26日 - 田園コロシアムにてラ・フィエラを相手にデビュー戦を行い、8分37秒、タイガー・スープレックス'84で勝利。
1985年
6月 - 日本武道館にて小林邦昭の持つNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座にタイトル初挑戦するも敗退。
8月 - 両国国技館にて再び同タイトルに挑戦し、15分36秒、タイガー・スープレックス'85で小林邦昭に勝利、シングル王座初戴冠。
10月 - チャボ・ゲレロを相手に王座防衛の後、ヘビー級転向のため返上。
1986年
7月 - 両国国技館にて「猛虎7番勝負」番外戦、ザ・グレート・カブキに勝利。
10月 - 岡崎市体育館にて「猛虎7番勝負」第1戦、谷津嘉章に敗北。
11月 - 世界最強タッグ決定リーグ戦にジャイアント馬場とのタッグで初出場。
1987年
2月 - 夕張市総合体育館にて「猛虎7番勝負」第2戦、フランク・ランカスターに勝利。
3月 - 高崎市中央体育館にて「猛虎7番勝負」第3戦、リック・フレアーに敗北。
4月 - 熊本市体育館にて「猛虎7番勝負」第4戦、阿修羅・原に勝利。
6月 - 石川県産業展示館にて「猛虎7番勝負」第5戦、天龍源一郎に敗北。
7月 - 後楽園ホールにてジャンボ鶴田をパートナーにPWF世界タッグ王座に挑戦、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組に勝利し第3代王者になるも8日後のリターンマッチに敗れ王座陥落。後楽園ホールにて「猛虎7番勝負」第6戦T・デビアスに勝利。
1988年
2月 - 後楽園ホールにてカート・ヘニングの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦、リングアウト勝利するもルールによりタイトル獲得ならず。
3月 - 横浜文化体育館にて「猛虎7番勝負」最終戦、鶴田に敗北。
5月10日に現夫人と結婚。同時にタイガーマスクの正体を発表する。
6月 - 仲野信市・高木功・高野俊二・田上明と共に決起軍を結成。
9月 - 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで無理をして復帰する。
1989年
3月 - 日本武道館にてリッキー・スティムボートの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦し敗北。
この試合後左膝の怪我が深刻化、手術を受けるために長期欠場に入る。この間に決起軍解散(馬場の「全然、決起してない」という一喝から)
1990年
1月 - リング復帰。
2月 - 新日本プロレスのリック・フレアー来日中止騒動の余波から「'90 スーパーファイトIN闘強導夢」に天龍とのタッグで出場。自身初の交流戦に挑む。長州力・ジョージ高野に勝利。
4月13日 - 全日本プロレス、新日本プロレス、そしてWWF(現・WWE)との3団体合同による「日米レスリング・サミット」を東京ドームにて開催。ブレット・ハートとのシングルマッチを戦い、20分時間切れで引き分ける。
4月 - 岡山武道館にて小橋健太(現:小橋建太)をパートナーにカンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦、勝利。第51代王者に輝く。
この後突如、天龍がSWSに電撃移籍。その後も多くの所属選手が天龍の後を追い、大量離脱騒動が起こる。

5月14日 - 川田とのタッグで谷津、サムソン冬木(故:冬木弘道)と対戦。試合中冬木の執拗なマスク剥ぎ行為にあい、自らマスクを取って投げ捨て冬木に突進。素顔の三沢光晴に戻る。広島県立体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。
現在まで続く三沢のイメージカラーである“緑”はこの時期に固まった。
6月8日 - 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。
7月 - 松戸市運動公園体育館にてテリー・ゴディが返上した三冠統一ヘビー級王座をスタン・ハンセンと争うことに。しかし惜しくも王座奪取ならず。
8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子と共に「超世代軍」結成。
田上は鶴田のパートナー指名を受けて超世代軍としての活動を殆どしないまま離脱。
9月 - 三冠統一ヘビー級選手権挑戦者決定戦に出場。ジャンボ鶴田と争うがバックドロップ・ホールドに敗北。
1991年
2月 - 宮城県スポーツセンターにて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス組に敗れる。
4月 - 日本武道館にて鶴田の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、敗れる。
6月 - 千葉公園体育館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ハンセン&ダニー・スパイビーに敗れる。
7月 - 石川県産業展示館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り王座奪取。第17代王者となる。
9月 - 日本武道館にて川田をパートナーに鶴田&田上明組と世界タッグ王座防衛戦。フェースロックにより鶴田から初ギブアップ勝ちを奪う。世界最強タッグ決定リーグ戦に伴い王座返上。
11月 - 川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦に出場するも怪我の為途中から欠場。
1992年
3月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、敗れる。
6月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界タッグ王座挑戦、鶴田&田上組に敗れる。
8月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。
その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱。名実共に全日本のエースになる。
10月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
12月 - 日本武道館にて川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となる。
1993年
1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。
2月、日本武道館にて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
4月、川田が超世代軍離脱を表明。いわゆる四天王プロレスが幕を開ける。

5月 - 日本武道館にてハンセンを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
6月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界タッグ王座挑戦、川田&田上組に敗れる。
7月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
9月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
10月 - 日本武道館にてハンセンを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となる。
1994年
3月 - 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルのダグ・ファーナス戦で喰らった技が原因で歩行困難に。途中リタイアとなる。
5月 - 札幌中島体育センターにて川田&田上組を相手に世界タッグ王座防衛戦。40分を越える激闘の末、勝利。
6月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座戦を戦い、タイガードライバー'91を解禁し防衛。
7月 - 清水市営体育館にてウィリアムス&ジョニー・エース組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座防衛。日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。
12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となる。
1995年
1月 - 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。
3月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組を下し世界タッグ王座防衛。
4月 - チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。
5月 - 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。
6月 - 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。初めて川田からピンフォール負けを喫する。
この試合は1995年度プロレス大賞年間最高試合賞を受賞。
7月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
9月 - 日本武道館にて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
10月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに川田&田上組の持つ世界タッグ王座に挑戦、引き分け。日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。
1996年
3月 - 日本武道館にてゲーリー・オブライトを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
5月 - 札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。
6月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組を下し世界タッグ王座防衛。
7月 - 石川県産業展示館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座防衛。
9月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。
12月 - 秋山をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦出場。最終戦で敗れ準優勝。
1997年
1月 - 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。
3月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定巴戦にて川田にシングル戦で初フォール負けを喫し優勝を逃す
三沢はこの試合の前に小橋と30分フルタイムを戦ったばかりで明らかにスタミナ切れだった。
5月、小橋が超世代軍を正式に離脱。
6月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
7月 - 日本武道館にて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
8月 - 札幌・中島体育センターにて秋山をパートナーにウィリアムス&オブライト組の持つ世界タッグ王座に挑戦するも敗北。
9月 - 日本武道館にて秋山を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
10月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
10月21日 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。
12月 - 秋山をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦出場。最終戦で敗れ準優勝。
1998年
1月 - 大阪府立体育会館にて秋山を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。新技エメラルドフロウジョンを初披露し防衛。
2月 - 日本武道館にてジョニー・エースを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し3年ぶりの優勝。
5月 - 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。この間自ら志願して一部試合のマッチメークを任される。
9月 - 秋山戦に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」結成。超世代軍はこれをもって消滅。
10月 - 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。
この試合でプロレス大賞・ベストバウト賞を2年連続受賞。

1999年
1月 - 全日本の象徴であった馬場が逝去。2月、鶴田が引退。全日本の内情は暫し混迷する。三沢もこの時期かなり悩み、マスコミの取材に対し、弱気な発言をする時もあった。
3月 - 日本武道館にてアンタッチャブルとして小橋&秋山組の持つ世界タッグ王座に挑戦するも敗北。
5月 - 馬場の引退興行として行われた東京ドーム大会にてベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。この大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。
6月 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
7月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
8月 - 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。その後アジアタッグは即返上。
9月 - 日本武道館にて行われた5大シングルマッチ開催で川田欠場の代役として2試合に出場。高山に勝つもベイダーに敗れる。社長としてファンに対する責任をきっちり果たして見せた姿に、ファンは惜しみない拍手を贈った。
10月 - 愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。
2000年
4月 - 松本市総合体育館のチャンピオン・カーニバル公式戦において裏十字固めによりベイダーから初のギブアップ勝ち。
これによりベイダーは左腕骨折。
この頃、裏ではオーナーの馬場元子夫人との確執が表面化。
5月 - ジャンボ鶴田、肝臓移植で訪れたフィリピンで手術中の出血多量により逝去。三沢が社を代表して記者会見に立つ。
6月 - 東京スポーツの記事で5月に全日本の社長を辞任していたことがスクープされる。
6月13日 - 定例役員会において三沢が口頭で一方的に取締役辞任の意向を伝え散会。同時に小橋・田上・百田も取締役辞任。オーナー側との亀裂は決定的となる。

2000年
10月 - 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔と丸藤正道が加わる。
12月 - 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。
新日本プロレスを退団しプロレスリングZERO-ONEを旗揚げした橋本真也が登場。三沢は純血選手たちでの開催を考えていたが橋本の強硬な対戦要求に根負けし大森隆男戦を用意した。
2001年
1月 - 大阪にてついに橋本とタッグマッチで対戦。闘魂三銃士と初めて手を合わせる。橋本のシングルマッチ要求に初めてマイクアピールを行う。
3月2日 - ZERO-ONE旗揚げ戦にノアの宣伝を兼ねて秋山準とのタッグで出場。橋本真也&永田裕志組と対戦し、混戦の隙をついたバックドロップを橋本に見舞いピンフォールを奪う。試合後、小川直也の挑発にエルボーで応戦し初遭遇。
この後お互いの求める方向性の違いからZERO-ONEとの交流は頓挫。橋本との遭遇もこれが最後になる。
3月21日、団体公認のベルトGHCヘビー級王座をかけたトーナメント戦が開始。
4月、有明コロシアムにて高山善廣をエメラルドフロージョンで下し初代GHCヘビー級王者に輝く。
日本テレビにてNOAHの地上波放送が開始。
4月18日 - ZERO-ONE旗揚げ第2戦に力皇猛とのタッグで出場。小川直也&村上一成組と対戦し勝利。
5月 - 札幌にて田上明を相手にGHCヘビー級王座防衛。
7月 - 旗揚げ1周年興行で念願だった日本武道館に進出。メインで秋山準を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に臨むも敗北。
11月 - 小川良成をパートナーにベイダー&スコーピオ組からGHCタッグ王座獲得。
12月 - 有明コロシアムで高山善廣&大森隆男組に敗れGHCタッグ王座を失う。
2002年
5月2日 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し蝶野正洋とシングルマッチで対戦、かつてのお互いの団体の主を象徴する技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。
9月7日 - 「Navigation Over the Date Line 2002」 最終戦 大阪府立体育会館大会において、佐野巧真と組んで王者森嶋猛・力皇猛組とGHCタッグ選手権試合に挑むも敗れる。
9月23日 - 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山善廣を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。
2003年
1月10日 - 「GREAT VOYAGE 2003」日本武道館大会において、蝶野正洋とドリームタッグを結成。小橋建太&田上明組と対戦するが、小橋のリアル・ブレーンバスターの前に敗れる。
3月1日 - 「Navigate for Evolution 2003」最終戦 日本武道館大会において、完全復帰を果たした小橋建太を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に挑むも、小橋のバーニングハンマーの前に敗れる。
この試合は2003年度プロレス大賞ベストバウト賞を受賞。

2004年
1月 - 小川良成とのコンビで新日本の永田裕志・棚橋弘至組に流出していたGHCタッグ王座に挑戦、ベルト奪還に成功。
7月10日 - ノア初の「DEPARTURE 2004」東京ドーム大会を開催。GHCタッグ選手権試合にて全日本の武藤敬司&太陽ケア組と対戦、防衛に成功。
これで三沢は新日本出身のいわゆる闘魂三銃士と全て手を合わせたことになる。
2005年
1月8日 - 「GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛と組み、天龍源一郎・越中詩郎組と対戦。天龍源一郎とは約15年ぶりの対戦となった。
1月23日 - 最終戦 神戸大会ワールド記念ホールにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に敗れGHCタッグ王座を失う。
5月14日 - 新日本プロレス東京ドーム大会に参戦。藤波辰爾とタッグを組み、蝶野正洋・獣神サンダー・ライガー組と対戦。
7月18日 - 「Destiny 2005」東京ドーム大会で5年ぶりに川田利明とシングル対決、これに勝利。
しかしこの時の川田のマイクアピールに憤慨した三沢は試合後に川田との絶縁を宣言。
9月18日 - 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。
これにより1992年より続いていたシングルタイトル挑戦成功率100%の記録が途切れる。
12月4日 - 「Winter Navigation 2005」横浜文化体育館大会において、タッグマッチで柴田勝頼と初対決。
2006年
1月22日 - 「The First Navigation 2006」最終戦 日本武道館大会において、NOAHマットでははじめて(初対決から1年3ヶ月ぶりに)、6人タッグマッチで佐々木健介と対戦する。
7月16日 - 「Summer Navigation 2006」最終戦 日本武道館大会において、秋山準と組んで、高山善廣復帰戦の相手を務める。
9月12日 - グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任する。
12月10日 - 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルドフロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲く(。
2007年
9月9日 - 日本武道館で、藤波辰爾との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの潮崎が西村に足四の字で敗れる。
12月9日 - シークレット(超大物X名義)でDDTに初参戦(新潟フェイズ大会)。鈴木鼓太郎とのタッグで高木三四郎・マッスル坂井組に勝利した。ちなみに本来は坂井ではなく、三沢の偽装レスラー・偽沢光晴こと一宮章一と対戦する予定だったが、一宮が病気のため欠場してしまい、夢の偽装VS本物対決はお流れになった。
12月10日 - プロレス大賞最優秀選手、および12月2日の小橋建太復帰戦で年間最高試合賞を受賞。デビューから26年で初の最優秀選手賞を受賞。
2008年
3月2日 - 森嶋猛のGHCヘビー級王座の挑戦を受けるが、強烈なバックドロップからフォールされて敗れ、8度目の防衛に失敗し王座陥落。





コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング