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我が愛しのアスリート図鑑コミュの植村 直己(冒険家)

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植村 直己(うえむら なおみ、1941年(昭和16年)2月12日 - 1984年(昭和59年)2月16日頃(遺体が発見されていないため詳細は不明))は、日本の男性登山家・冒険家。1984年、国民栄誉賞受賞。

1941年2月12日、兵庫県城崎郡日高町(現在の豊岡市)で、植村藤治郎・梅夫妻の末っ子として生まれる。実家は農家。干支の巳を取って「直巳」と名付けられたが、「巳(へび)より己(おのれ)の方が格好良い」ということで「直己」と改名した(単に、町役場の戸籍担当職員の誤字で「巳」が「己」となったとも言われている)。

少年期より同郷の加藤文太郎(浜坂町(現在の新温泉町)出身)に憧れ、学校行事で登った蘇武岳を皮切りに但馬の嶺々への山行をはじめる。兵庫県立豊岡高等学校卒業後、豊岡市の新日本運輸(現在は廃業)に就職。しかし翌1960年に明治大学農学部農産製造学科に入学、山岳部へ入部してからは登山に没頭。同じ明治大学山岳部の小林正尚のアラスカ旅行の話を聞いて、海外の山へ憧憬を抱くようになる。

1964年5月2日大学卒業後、就職試験に失敗、アルバイトで貯めた金を元に、周囲の反対を押し切って横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、アメリカ・ロサンゼルスへ向かう。到着後、苦労して職を得るがすぐに不法就労でつかまる。なんとか強制送還を免れ、ヨーロッパへ向かう。シャモニーでモンブラン単独登攀を目指すが、クレバスに引っかかってしまい、失敗。しかし、モルジンヌのスキー場で冬季オリンピック滑降金メダリストのジャン・ビュアルネに雇われ、ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とする。

1965年、明治大学のゴジュンバ・カン登頂隊に途中参加し、4月23日登頂を果たす。ヒマラヤ遠征後、再びモルジンヌに戻るが、黄疸で一ヶ月の闘病生活を余儀なくされる。

1966年7月、モンブラン単独登頂に成功、10月24日、アフリカ最高峰キリマンジャロの単独登頂に成功。

続いて1968年には南米最高峰のアコンカグア単独登頂に成功する。このあと、アマゾン川のいかだ下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰のマッキンリー登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念。4年5ヶ月ぶりに日本に帰国する。

日本山岳会が創立65周年事業として、エベレスト登頂隊派遣を決定。植村直己も参加する。自己負担金を用意できず、荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力等が認められ、第1次アタック隊に松浦輝夫と共に選ばれ、1970年5月11日、エベレスト南東稜から登頂に成功する。 しかし、大量の隊員を荷物運びとして使い、ほんの一握りしか登頂できない極地法による高所登山に疑問をもつ。

同年8月、エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦、単独登頂を成功させる。この時点で世界初五大陸最高峰登頂者となった。

翌年初めには小西政継らとともに冬季のグランド・ジョラス北壁に挑み、他の隊員は凍傷にかかりながらも奇跡的に五体満足で完登。

同じく1971年4月、イギリスBBCが主催し、米ノーマン・ディレンフォース隊長率いるエベレスト国際隊へ参加、ネパール側南壁制覇を目指して再びエベレスト登頂を目論むが、各国からの代表を寄せ集めた国際隊は登攀が進むに連れて互いの利害関係が徐々に表面化し、結局、失敗に終わる。

この頃から植村は南極横断への夢を抱き始め、実現のための準備に少しずつ入っている。1971年8月、南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる北海道稚内から鹿児島までの国内縦断を徒歩51日間で実現する。以後、植村は単独登山、単独冒険へと傾倒する。

グリーンランド北部のエスキモーとの共同生活を経たのち、1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功。

1978年、犬ぞりを操って、人類史上初の北極点単独行に成功し、極点に到達した。同年にはグリーンランド縦断にも成功。イギリス王室から優れた冒険家に贈られる勲章を受賞するなど、世界的な名声と評価を獲得した。一方で、食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機での補給をしたことなど、スポンサーの電通の意向もあったが一部の間で疑問と批判も出た。北極圏単独犬ぞり行にはナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾った。

この北極点・グリーンランドの犬ぞリ探検成功後、植村の冒険は苦難に満ちたものとなっていく。

1980年、エベレストの厳冬期登頂を目指して植村を隊長とする日本隊が編成されるが、登攀隊員の一人が突然の事故にあい死亡、また悪天候にもみまわれ、登頂は失敗。

1982年、アルゼンチン軍の協力が得られることとなり、積年の夢だった南極点単独犬ぞリ探検を計画し、南極のアルゼンチン軍基地に待機し出発を待つが、フォークランド紛争勃発によりア軍が協力を撤回し断念。

2度の冒険の失敗に初心に戻る決心をした植村は、野外学校設立を夢見、勉強を兼ねてアメリカの野外学校に参加するため渡米。ついでにアラスカでマッキンリー登頂を目指す。このマッキンリー登頂計画は知人・友人への事前の連絡がほとんどなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由については謎である。登頂開始の植村は一部の記者のみによってインタビューされた。

1984年2月12日世界初の厳冬期単独登頂を果たす。43歳の誕生日だった。しかし翌2月13日に行われた交信以降は連絡がとれなくなり、消息不明に。3日後の2月16日、小型飛行機がマッキンリーに行ったところ、植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候が悪く、視界も悪かったので、救出することができずに見失ってしまった。その後明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれたが発見されることはなく、山頂付近とキャンプ跡地に残された彼の装備の一部が遺品として発見されるにとどまり、やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた。そして現在に至るまで遺体は発見されていない。このため、最後に植村の姿が確認された1984年2月16日が、植村の命日とされた[要出典]。享年44(満43歳没)。

1984年4月19日に国民栄誉賞を受賞。1994年、公子夫人と有志によって、記念館と「植村直己自然学校」が設立される。

植村家は代々農家で、彼の祖父は損得・金勘定抜きで困っている人を助ける性分だった。

植村直己もこの祖父の血を引いており、登山隊に加わるときにはトップに立ちたいという想いはあっても、自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場に立った。高校時代は学校の池の鯉を友人と焼いて食べるなど、かなりいたずら好きな少年だったが、ガキ大将的なところは無く、成績も平凡で目立たず地味な存在だったという。

明大山岳部時代にはコロコロとしょっちゅう転ぶことからドングリとあだ名され、入部当時は馬鹿にされていたが、少しでも同期の連中と肩を並べたいと密かに日本の山岳行を繰り返し、その陰の努力が実ってサブリーダーにまでなっている。

植村は数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされているが、実際には人一倍臆病な性格で、十分な計画と準備を経て必ず成功するという目算無しには決して実行しなかった。体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌った。

しかし公子夫人や知人の多くが指摘しているように、逆にその劣等感をバネにして数々の冒険を成功させたともいえる。人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢を前にして話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければならなかったが、口下手ながら自身の体験に基づいた公演は多くの聴衆に感動を与えた。

単独行に傾倒した以降の植村は、アマゾン川単独河下り、北極点単独犬ぞり到達、グリーンランド単独犬ぞり縦断など数々の有名な冒険を達成している。ここでの植村の特徴は、例えば登山における高度馴化と言った度合いを超えて、冒険する現地で長期間を過ごして言わば生活馴化することから始めるという点にあった。特に犬ぞり行に先立つ約五ヶ月は単身グリーンランドのエスキモー宅に寄宿し、衣食住や狩・釣り・犬ぞりの技術に至るまで、極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。従ってアマゾン行では主な食料源は釣りとバナナに頼り、犬ぞり行では釣りと狩猟で得られる生肉と脂を中心に、持参の紅茶とビスケットで補完すると言った食生活だった。俗にアザラシの漬物と言われるキビヤックはその特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だったという話は有名である。これらの挿話は、先進国の機材や物資を大量に持ち込んで言わば西欧文明流の力押しで自然を制覇するという近代以降の冒険流儀を一概によしとしなかった植村の思想性を表している。

但し、盲目的に現地の流儀に拘った訳ではない。植村の犬ぞりは現地の伝統的な構造と製法に則りつつ、構造材としては強化プラスチック(FRP)を利用した例があった。極地用のテントは自ら考案したものを使用した。冬山登山などでは、クレヴァス対策として何本もの竹竿を身体にくくり付け、滑落した場合のストッパーにしていた。植村が行方不明となった最後のマッキンリー行においても、肩に竹竿を括りつけて登頂して行く姿が見られた。

エベレスト登頂の際、「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と、山頂の石を持ち帰るためにNHKから渡されていた最新型のビデオカメラを山頂に置いていった。その時考えた言い訳は「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」。その後、カメラは日本の第二次登頂隊によって発見され、無事に日本に戻ってきた。

犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った毎日放送から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影した。周囲には誰もいないことから、その後彼方から引き返しカメラとフィルムを回収、貴重な記録映像となった。当時の番組にはその「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送されている。

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