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我が愛しのアスリート図鑑コミュの川上 哲治(野球)

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川上 哲治(かわかみ てつはる、1920年3月23日 - )は、熊本県球磨郡大村(現人吉市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。

現役時代から「打撃の神様」と言われ、また監督としては読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、V9(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成した。愛称は「打撃の神様」、「哲」、「ドン川上」。現役では最高齢のプロ野球解説者(NHK)であり、その長寿ぶりから最近では「球界の森繁久彌」と呼ぶ声もある。

妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 - 1944年)。子はノンフィクション作家の川上貴光。

元は右投げ右打ち。5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。経過が悪く完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていた。その後しばらくは左投げ右打ち。

熊本県立工業学校(現・熊本工業高等学校)2年生の4月から左打ちに転向した。熊本工の投手として吉原正喜(捕手)とのバッテリーが評判となり、1934年・1937年夏の全国中等学校野球選手権大会へ2度出場し、いずれも準優勝する。また選抜中等学校野球大会にも1936年春に1回出場している。

1938年に東京巨人軍に入団。同期入団の吉原正喜、千葉茂、内海五十雄、野村高義、岩本章、三田政夫らとともに「花の昭和13年組」として注目を集めた。入団当時は投手として登録されていたが、球威に乏しく自他共に「軟投派」タイプであった。監督の藤本定義は川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。熊本工業学校時代の同級生吉原正喜が開幕試合で新人ながらスタメン出場し、千葉茂が二塁手として活躍しているのをみて「早く打撃に専念すればいいが…」と悶々としていた。春シーズン(当時のプロ野球は春・秋の2シーズン制が採られていた)は川上は投手と打者の両方で起用されたが、いずれもぱっとしない成績だった。

川上が野手に転向したのは春シーズンが終わり、秋シーズンに入る前に行われた夏のオープン戦だった。当時の正一塁手だった永沢富士雄が怪我でスタメン落ち急遽一塁手として出場したゲームで3安打の活躍を見せると、藤本定義監督から「ファーストミットを用意せよ」と言い渡された。川上は「これで好きな打撃に専念できる」と大喜びした。この年の秋シーズンから一塁手として定着する。翌1939年から内野手として登録されるが、1941年までは投手も兼業していた。

1939年から1シーズン制に戻り、川上はこの年の首位打者を獲得した。以後1941年にも首位打者に輝いた。「投手で4番」の先発出場を3回記録しており、1939年4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。

その後徴兵され出征し、内地で敗戦を迎える。

川上は郷里の人吉に帰り、家族を養うために農業に専念していた。プロ野球は早速1946年4月からペナントレースが再開され、巨人は川上に対して選手復帰を申し立てた。しかし、川上は人吉の家族を扶養することを考え、「もし3万円貰えるなら巨人に復帰する用意がある」と伝えた。これは、プロ野球で初めて選手が球団に対して契約金を要求したことになり「三万円ホールドアウト事件」とも言われる。1946年6月から巨人に復帰し、その年3割をマーク。

翌1947年、運動具メーカーと契約を交わし赤色に染めたバットを使ってプレーし、この「赤バット」は、青バットを使用した大下弘とともに鮮烈な印象を与えた。この運動具メーカーとの契約は、プロ野球選手のCM出演第1号ともいわれる。しかし、バットの塗料がボールに塗り移って使い物にならなくなるとの理由で、赤バット、青バットはこの年限りで使用を禁止されるたが、ファンには強烈な印象を残した。

1947年シーズン途中から巨人の監督は三原脩が就いた。三原はスターを重用し川上も三原を慕っていたが、一方で若手や他球団から移籍した選手は自分たちの扱いに不満を持ち、1949年シーズン終了後一部の「反三原」らの選手たちが決起して監督の三原を排斥して水原茂を擁立しようした「三原監督排斥騒動」が持ち上がる。川上はこの動きに反対していたが、球団は選手たちの圧力に屈して三原を更迭して水原を監督に据えた。川上は水原に対していい感情を持っておらず、また水原はチームの主力選手になっていた川上を叱責するなど両者の仲は深くなっていった。

川上は当試合終了後も宿舎で深夜までスイングするなどしたりあったが、時チーム内では練習熱心で知られていた。そして、1950年のシーズン途中に、多摩川のグラウンドで打撃投手を個人的に雇って打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるという感覚に襲われた。これが有名な「ボールが止まって見えた」というエピソードである。

1951年、サンフランシスコ・シールズの監督フランク・オドールから、自チームのスプリングキャンプに日本球界から数名を招待したいと申し入れがあった。監督の水原は川上を推薦した。川上は水原とは仲が悪いので自分が選ばれることはないと思っていたのでこの決定に驚いた。さらに、渡米してスプリングキャンプに参加したところ、監督は練習メニューをコーチに任せたきりであとは地元の名士たちとの交流に費やしていることに驚いた。ここで川上は、アメリカ球界ではチームは監督が絶大な権力者であり、選手が監督に従うものであると学んだのだった。当時の日本球界では、「三原監督排斥騒動」で選手が監督を突き上げたりしたように「選手は監督と対等である」との風潮が一般的だったが、川上はこれが間違いであると実感したのだった。キャンプを終えて帰国してから川上は水原に対する態度を180度変えて、水原に対して極めて協力的になった。

1951年には打率.377を記録。これは1986年にランディ・バース(阪神)が.3885を記録して塗り替えるまでセ・リーグ記録であり続け、1989年にウォーレン・クロマティが更新(.378)するまで球団記録だった。また同年シーズンは規定打席到達者による年間三振6の最少三振タイ記録も達成した。1957年には1949年以来の打率3割未満に終わり、翌1958年は「この年3割打てなかったら引退しよう」と決意するもさらなる打撃不振に喘ぎ、4番の座も新人の長嶋茂雄に奪われシーズン後半から6番に下がった。日本シリーズは西鉄ライオンズに3勝4敗で破れ、第7戦終了後に現役引退を表明した。

引退後は1959年からコーチに就任。1960年の10月には監督の水原茂がカメラマンを暴行する事件を起こして球団から謹慎処分を受け、川上が代理監督を務めた。

1961年、水原監督が監督を辞任し、監督に昇格。当時巨人は1955年以来日本一を逃しており、1960年はリーグ優勝さえ逃していた。戦力的には長嶋茂雄1人だけが打撃で頼りになる状態で、投手陣では藤田元司が肩痛を抱えるなど絶対的な柱が不在という状態であった。だがオーナーの正力松太郎は「常勝」を掲げており日本一にならなければ評価しないという態度だった。こうした戦力面での不安を抱えながらも川上は日本一を目指さなければならなかった。

川上が目を付けたのがロサンゼルス・ドジャースの野球だった。戦力に乏しいドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目し、ドジャースのコーチのアル・キャンパニスが著した『ドジャースの戦法』をその教科書として、春季キャンプからその実践に入った。コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。サインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入していった。こうした野球が効を奏して1961年にはリーグ優勝、さらに南海ホークスを倒して日本一に輝いた。ただし、打撃面ではランナーが出るとランナーを進塁させるためはんで押したようにバントを繰り返したことから、マスコミから「高校野球並み」だと批判されることが多かった。

川上は監督就任後の1961年の春季キャンプから、グラウンドから報道陣を追い出して取材規制を敷いた。当初は記者たちからこの規制に対して反発が上がったが、1962年からさらに徹底していった。この報道管制をマスコミは「哲のカーテン」と呼んだ。川上は日本球界で初めて専属広報をおき、坂本幸夫が初めてその役を担った。川上はグラウンドの権限のみならずスカウト部長を兼任するなどチーム編成の面でも権限を掌握しており、栄養学、ランニングコーチ制の導入など新機軸を次々と打ち出していった。

選手時代のサンフランスシスコ・シールズのキャンプに参加した経験から、選手には監督・コーチに対して絶対服従を要求したが、コーチ兼任の広岡達朗は歯に衣着せぬ性格であり、川上の「体で覚えろ」的な練習方針に反発していた。1964年、広岡は週刊ベースボールで手記を連載したが、川上はこれに「監督批判」を感じ取って連載を中止させた。さらに同年8月6日の対国鉄戦で、0−2とリードされた7回表ランナー3塁の場面で3塁ランナーの長嶋がホームスチールを敢行。これは長嶋の判断によるプレーのようだったが広岡はこれをベンチのサインだと感じ「俺の打撃がそんなに信用できないとか」と激怒して、次の球をあてつけがましく三振してバットを地面に叩きつけ、そのまま球場から去って帰宅した。川上はこの一連の行為を監督批判として広岡を他球団へトレードしようと決意する。

シーズン終了後に広岡は自分がトレードされることが分かると、オーナーの正力亨に直訴し「トレードされるぐらいなら巨人の広岡として終わらせてほしい」と直訴する。しかし正力享は松太郎に報告すると、松太郎は「打撃面を強化して残れ」と激励され、トレードはご破算となった。しかし、一連の動きはマスコミの格好のターゲットとなりマスコミは広岡を支持し、さらにあるスポーツ紙に川上が広岡残留を苦々しく思っていることを吐露した記事が報道されると、川上はさらなるマスコミの攻撃にさらされた。川上にとっても子供が学校でいじめを受ける、夫人がストレスで大病を患うという苦痛を味わうことになる。だが川上は松太郎に会って事情を説明して松太郎の信頼は保持することに成功する。

そして戦力が整った1965年以降、巨人は1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。この間堀内恒夫、土井正三、高田繁、高橋一三ら若手が主力選手として支え、さらにトレードで富田勝ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。特に捕手の森祇晶に対してはアマチュア球界の有力選手を次々に獲得していき安住を許さなかった。

だが巨人が連覇を続け、さらに王・長嶋が活躍してタイトルを独占するという状況が続くと、ファンやマスコミがこれに飽きてきて、予定調和的に巨人が勝ち続けることへの不満が高まっていった。川上はこうした批判を次第に気にし始めており、V6を達成した1970年には監督からの退任も決意している。ファンやマスコミからは長嶋茂雄が次期監督となることへ期待が高まっていった。川上のほうも、長嶋に対して監督としての教育を施そうと考え1970年からコーチ兼任とし、1972年からは後楽園球場のロッカールームを首脳陣の使うロッカーに移して監督会議にも出席させている。そして1973年シーズン終了後に川上は長嶋に対して、現役引退して監督へ就任するよう勧め、自分も監督を退任しようとしたが、長嶋が現役生活に拘り1974年も選手生活を送るように直訴した。1974年長嶋はシーズンを通じて打撃不振に喘ぎついに引退を決断、そしてチームも連続日本一を逃し、川上は監督退任を決断した。

監督勇退後は球団専務に就任したが、煙たい川上を現場から遠ざけたい正力亨オーナーの意向で少年野球担当に回されわずか1年で退団。1976年からNHKの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家となった。

川上の後を受けた長嶋は1975年に球団史上初めて最下位に転落し、同年シーズンオフにはトレードで張本勲、加藤初を獲得して戦力を補強し1976年、77年とリーグ優勝を達成した。しかし日本シリーズでは阪急ブレーブスに破れ日本一はならなかった。チームも依然としてV9を支えたベテランが主力で、V9と比べるとチーム力の低下が明らかとなった。前監督の川上も「勝つことにこだわりすぎ次世代の戦力を整備してこなかった」と批判されるようになった。

1980年巨人はペナントレース序盤から優勝争いから脱落し、球団史上初めて「3年連続V逸」が濃厚となっていった。8月に週刊文春に牧野茂、国松彰、藤田元司らと共に巨人の現状をOBの立場から叱責するという趣旨の座談会で、「次期監督は藤田もありうる」などと発言し大きな反響を呼んだ。同年は3位となり1980年10月26日巨人は監督は長嶋が辞任を申し立て、次期監督に藤田元司が就任すると発表したが、当日スポーツニッポンが「長嶋解任」と報道しファンは球団による解任と受け止め、週刊文春での発言から川上が長嶋解任の黒幕であると見なされた。同年末から『サンデー毎日』の取材に答えて「黒幕説」を強く否定している。この監督交代時には川上が球団代表に就任することが予定されていたが、川上のあまりの人気のなさから球団が川上の人事を見送っている。長嶋と川上の不仲はこの件で決定的になったとされ、長嶋が私的な会話の中で「野沢のオッサンにやられた」 (野沢は川上の住んでいる世田谷区野沢のこと)と言ったとされる。

最近ではJ SPORTS STADIUMに特別ゲスト解説で出演することがある。1965年に野球殿堂入り。1999年3月17日、生誕地の熊本県人吉市に川上哲治記念球場完成。(川上哲治記念球場・人吉市ホームページ内)後年は鶴岡一人と共に球界に強い影響力を持ったことから「ドン川上」といわれるようになった。勇退後の1992年、球界初の文化功労者に選ばれた。



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