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我が愛しのアスリート図鑑コミュのM・ハッキネン(F1)

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ミカ・パウリ・ハッキネン(Mika Pauli Häkkinen, 1968年9月28日 - )はフィンランド出身のレーシング・ドライバーで、2度F1のドライバーズタイトルを獲得しており、歴代のフィンランド人トップドライバー同様、「フライング・フィン」と形容されている。

非常に日本人受けするタイプの金髪碧眼のイケメンで、日本では「北欧の貴公子」、「白夜の国の王子様」などの美称でも呼ばれた。また、当時のロータスが日本企業との関係を深めていたこともあり、デビュー当時からインタビューなどの形で日本で取り上げられることも多く、その走りとナイスガイな人柄は多くの男性ファンにも愛され、F1雑誌『AS+F』の人気投票で1992年から引退する2001年まで10年連続で1位を獲得したほどの人気がある。

また大変な恐妻家としても知られており、マクラーレン在籍時にピットでモニターをにらむ妻・イリヤ夫人の姿はF1名物として有名であったほか、欧州で放送されるメルセデス・ベンツのテレビCMでも「イリヤの尻に敷かれるハッキネン」という設定のものがよく見られた。

1990年には同じ町内の生まれで幼い頃からのライバルであるミカ・サロとシーズン序盤こそ熾烈な争い(これはミカ・ミカ対決と呼ばれた)を演じたが、シーズン中盤からは5連勝を含む計9勝を挙げる圧倒的強さでイギリスF3チャンピオンとなった。その年、F3の世界王者決定戦ともいえるマカオGPに参戦。予選ではそれまでA・セナが保持していたコースレコードを塗り替えるタイムを記録してP.Pを獲得(予選2位のドイツF3チャンピオン、M・シューマッハもA・セナのタイムを破るが、ハッキネンからは0.5秒ほど離されている)。決勝レースの第1レグでは圧倒的なタイム差で勝利。しかし続く第2レグではミハエル・シューマッハにわずかながら先行される。この周回で付かず離れずの2位を維持すれば総合優勝であるにもかかわらず、最終ラップでトップを走るM・シューマッハを抜きにかかり、両者接触してしまってリタイアとなった。一方のM・シューマッハは優勝し、両者明暗を分けた。翌週に日本(富士)で行われた「インターナショナルF3レース」でもM・シューマッハが優勝してマカオGPから連勝を飾る一方、ハッキネンは予選から続くエンジントラブルによるリタイアでF3のレースを終えた。 なお、この年ハッキネンはM・シューマッハが参戦していたドイツF3やイタリアF3において、スポット参戦ながらいずれも勝利を収めており、実力的にF3ではほぼ敵なしの状態にあった。

同郷で1982年のF1チャンピオンであるケケ・ロズベルグのマネージメントで翌1991年、ロータスからF1デビューを果たす。デビュー戦アメリカGPは走行中にステアリングホイールが外れるトラブルに見舞われるが、第3戦サンマリノGPでは見事5位入賞を果たす。しかし、当時のロータスチームは前年までのタイトルスポンサーのキャメルを失うなど資金難の為、基本設計が3年前から変わっていないマシンで参戦していた。この為、ハッキネンは奮闘していたが、それが精一杯の結果であった。

1992年はレギュラードライバーとなったジョニー・ハーバートをチームメイトとして迎える。このコンビは公私ともによい関係で、お互い良い成績を収めることができた。この年のマシン「ロータス107」はクリス・マーフィーがデザインしたもので、セミ・アクティブ・サスペンションを搭載し(実際にはアクティブサスのスイッチは切っていることが多かったが)、ハンドリングが良好であった。この年の活躍でハッキネンに名門マクラーレンからオファーが入る。

1993年は既にマイケル・アンドレッティがマクラーレンのドライバーに決定していたが、アイルトン・セナが残留するかどうかは不確定であった。ハッキネンはセナがチームを去ると賭け、マクラーレンと契約する。しかし、結果的にセナは残留し、ハッキネンはテストドライバーとしてシーズンを過ごすこととなる。その憂さを晴らすようにF1の前座レースとして開催されていたポルシェカップに参戦し、格の違う速さで勝利を重ねた。そして、レギュラードライバーのアンドレッティが、成績不振及びレース環境の違いに馴染めなかったことからアメリカに帰国することとなった為、代役として第14戦ポルトガルGPから実戦復帰した。復帰初戦にいきなりエースのセナを予選で上回り、強烈な印象を与えた。そして次戦日本GPでは3位に入り、初の表彰台に立つ。

ハッキネンがエースドライバーとなった後のマクラーレンは、3シーズンの間勝利から見放されるなど、選手権では中位の成績に甘んじており、ハッキネン自身も1995年オーストラリアGP予選では瀕死の重傷を負うクラッシュに見舞われるなど、苦境に陥ったこともあった。このクラッシュで入院中に献身的に看病をしてくれた同郷の恋人のイリヤ・ホンカネンと1998年に結婚をする。

マクラーレンは、1995年よりメルセデスエンジンを搭載し、アラン・プロストがテクニカル・アドバイザーとして加入、またウィリアムズをチャンピオンに導いた功労者であるエイドリアン・ニューウェイをチームに迎えるなど、着々とチーム強化を果たしていた。

その努力が実を結びだした1997年、ハッキネンはルクセンブルクGPでF1参戦97戦目で初ポールポジションを獲得するも、同僚のデビッド・クルサード共々トップ快走中、その年に度々泣かされ続けて来たメルセデスエンジンのトラブルでリタイアし、ファンを嘆かせた。しかし、最終戦ヨーロッパGPではファイナルラップで99戦目にしての悲願の初優勝を果たした。

そして1998年、ハッキネンの才能が一気に開花することとなる。開幕戦オーストラリアGPと第2戦ブラジルGPではチームメイトのデビッド・クルサードと共に、他チームのマシンに圧倒的な差をつける力強い走りを披露して開幕2連勝を果たした。特にオーストラリアGPでは、クルサードと2人で3位以下の全てのマシンを周回遅れにするほどの圧勝であった。その後、シーズンが進むにつれて、宿敵ミハエル・シューマッハの執拗な追い上げを受けることとなるが、第15戦ルクセンブルクGP、第16戦日本GPと鬼神の如き走りを見せ、見事に初のワールドチャンピオンを獲得した。尚、このタイトル獲得にはこの年よりマクラーレンが装着していたブリヂストンタイヤの戦闘力も大きく寄与していた。

翌1999年には、マシンの信頼性不足やチームメイトとの同士討ち、そして何よりミハエル・シューマッハがイギリスGPでクラッシュして欠場したことの影響もあったか、前年に比べやや勢いを欠いた戦いとなった。しかし、最終的にはフェラーリのエディ・アーバインを振り切り、2年連続でドライバーズタイトルを獲得した。

2000年には、シーズン中盤までにミハエル・シューマッハに最大24ポイント差をつけられたが、シューマッハの中盤戦での連続リタイアもあり、終盤戦を迎えるまでに一旦は逆転を果たすという熾烈な争いを繰り広げた。しかし、ポイントリードで迎えた第15戦アメリカGPで痛恨のエンジントラブルが起きるなど、惜しくもファン・マヌエル・ファンジオ以来の3年連続のチャンピオン獲得はならなかった。

2001年は、開幕オーストラリアGPでのクラッシュ(後にハッキネンがF1引退を考えるきっかけとなったと告白)や、第5戦スペインGPでトップを快走中に突然ファイナルラップにストップしたり、度重なるマシントラブルや不運により、第2戦ブラジルGPと第6戦オーストリアGPと第10戦フランスGPではまともに走れずにリタイアをしてしまうなど、精彩を欠いたシーズンとなってしまう。それでもイギリスGPやアメリカGPの様に「ツボ」にはまった時には手のつけられない速さを見せた。

こうした苦戦の連続や、何よりレースとプロモーションに追われる生活に疲れを感じたことから、ハッキネン自身は引退の意思を固めていたといわれるが、ロン・デニスの説得もあり、イタリアGP開催期間中に、翌2002年シーズンを休養することを発表。同郷のキミ・ライコネンにシートを譲ることとなった。

しかし、1年をすごした後、F1復帰の意思がないことを確認したハッキネンは、結局同年ドイツGPにて正式にF1引退を発表することとなった。

翌2003年、ハッキネンはヨーロッパラリー選手権のイベントのひとつである北極圏ラリー(Arctic Lapland Rally)に出場。引退直後からラリー転向の噂があったが、あくまで昔からの夢を叶えたかっただけだと否定した。

2005年シーズンについては、ウィリアムズチームのフランク・ウイリアムズからF1復帰のオファーがあったといわれるが、熟考の結果、メルセデスチームからDTMに参戦することとなった。早くも第3戦スパ・フランコルシャンにて初ポール・初優勝を果たした。2006年11月30日にはバルセロナ合同テストで2001年以来にF1マシンを走行した。

DTMには2005年から2007年まで参戦し人気を博したが、2007年11月にドイツ・シュツットガルトで行われたメルセデスの「スターズ&カーズ」記念イベントで、2007年のシーズン終了をもってレーシングドライバーとしての全てのキャリアを終える事を正式に発表した。 このイベントでは彼がF1グランプリにおいてチャンピオンを獲得した、マクラーレン・メルセデスMP4-13のオリジナルマシンがメルセデスベンツ・モータースポーツからサプライズとして提供され、これを駆ってパレードラップを行う栄誉を与えられた。

F1での実績から、ハッキネンはミハエル・シューマッハに劣ると見られる場合があるが、F1においてはマシンの差をドライバーの手腕だけで克服することは困難であることも多く、単純には比較できない。

精神的な芯の強さがM・シューマッハより多少劣ると言われるが、『勝つ為なら手段を選ばない』と度々批判の対象になるM・シューマッハとは逆に、「クリーン・ファイター」であるハッキネンの人間性に魅了される者も少なくない。M・シューマッハとの関係も、アイルトン・セナとアラン・プロストの例のような険悪な関係にならず、極めてスポーツマンシップあふれるフェアな関係であった事も特筆すべきだろう。 普段他ドライバーの評価する事を滅多にしないM・シューマッハが、ハッキネンに負けたときは常に「今日のミカは本当に速かった」や「マシンがキマった時は悪魔のように速い。」と賞賛し、自身の最大のライバルには真っ先にハッキネンの名を挙げている。

マクラーレンがトップレベルの競争力を発揮した時、ハッキネンはチームメイトのデビッド・クルサードを上回る成績をあげたことからも、チャンピオンを獲得するだけの実力を有していたことは間違いない。また、エンジニアとコンピューターが「これ以上速く走ることは出来ない」とはじき出したタイムを、ハッキネンはしばしば上回るらしく、エンジニアが「何と言って良いのか……ものすごく繊細なアクセル操作をしているのだろう……」と言葉を失ってしまったエピソードも印象的である。

1996年の最終戦日本GPで3位に入賞したハッキネンは、レース後の記者会見の席上、このレースで優勝してチャンピオンを決めたデイモン・ヒルに「君にも同じ日が来る」と言われる(余談だか、かつてニキ・ラウダも最後のチャンピオンを決めたとき、同様な言葉をアラン・プロストにかけている)。ハッキネンは2年後の1998年の最終戦、同じ日本GPで優勝して初のチャンピオンを決め、2年前と同じ記者会見場で「あの時は想像できなかったけど、ついにこの日が来たよ」と語った。

2000年イタリアGPでの勝利によりセナの通算41勝に並んだシューマッハが、レース後の記者会見で意外にも涙ながらに言葉に詰まった姿を見て、隣に座っていたハッキネンも思わずもらい泣きをし、なおも質問を浴びせようとする記者を「もういいだろう」と制した。 レース中においては因縁あるライバルのシューマッハを庇った、ハッキネンの人の良さが垣間見えた場面だった。

2000年、スパ・フランコルシャンで行われたベルギーGPにおいて、トップ走行中スピンを喫してしまい、数秒後ろを走行していたミハエル・シューマッハに抜かれ、2位に後退するが、その後猛追し、ケメル・ストレートにおいて、周回遅れのリカルド・ゾンタを挟んでシューマッハをオーバーテイクするという離れ業をやってのけ、「20世紀最高のオーバーテイクだ!」と関係者から評価されるほどだった。余談だが、ハッキネンがゾンタとシューマッハを一気に抜く際、ゾンタはシューマッハの分はスペースを外側に空けておいたが、ハッキネンが内側から抜くとは、当然の如く思っておらず、2台に挟まれて抜かれた瞬間、驚いて「あいつら、クレイジーだ!」と無線で言い放ったという。



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