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我が愛しのアスリート図鑑コミュの増田 明美(マラソン)

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増田 明美(ますだ あけみ、現在の本名・井脇明美、1964年1月1日 - )は、元女子マラソン・陸上競技長距離走選手、現在スポーツジャーナリスト・レース解説者・タレントなどで活動中である。千葉県夷隅郡岬町(現・いすみ市)出身。

中学校当時は軟式テニス部で活動していたが、2年生のとき地元の駅伝大会に助っ人として出場し、足の速さが注目される。それをきっかけに3年生では陸上とテニスの二足のわらじを履き、県の大会にも出場。高校で陸上を続けるつもりはなかったが、走りを見た私立成田高等学校の陸上部監督である瀧田詔生にスカウトされ、同校に進学する。(小出義雄も少し遅れてスカウトに来たという)

高校1年のとき貧血にかかり、瀧田からマネージャーへの転向を指示される(これは、増田の負けず嫌いの性格をみた瀧田が故意に行ったものであった)。それに反発した増田はいったん陸上部をやめるが、半年後に復帰、「(マネージャー転向を指示した)瀧田を見返してやろう」という思いから猛練習を重ねる。その結果が長距離に転向した3年生の1981年に開花する。4月19日に中央大学で行われた記録会で10000m(33分20秒0)、5000m(途中計時16分48秒4)の日本新記録を出したのを皮切りに、出るレースで快記録を連発、6月までにトラックの3000m・5000m・10000mとロードの10キロ・20キロの日本記録をすべて塗り替える。中でも圧巻は6月7日のアジア陸上の10000mで、その年のボストンマラソン優勝のアリソン・ローや同3位のジョーン・ベノイト(のちロサンゼルスオリンピック女子マラソン金メダリスト)らと互角に渡り合い、ついに彼女らを抑えて33分13秒22の日本新記録で優勝した。身長180cmを越えるローを150cmの増田が抜き去る模様は、国立競技場の観客を大いに沸かせた。一方これらのレースで同走した佐々木七恵は、あまりの速さの違いに「別世界の人」と感想を漏らすほどで、それが正式にヱスビー食品の陸上部に入るきっかけとなる。こうした活躍に、マスコミからは「女瀬古」のあだ名がつけられた。(同年に放映された大河ドラマ「おんな太閤記」の影響もあると思われる)

1982年2月21日、千葉県光町(現在の横芝光町)の小さな大会で突如初マラソンに挑戦する。初めてのフルマラソンは、マスコミが注目するメジャーな大会よりも、小さな大会でのほうがプレッシャーも少なくのびのびと走れるだろうという、瀧田の意向があっての出走だった。結果、2時間36分34秒の日本最高記録で優勝し、途中計時の30キロも合わせて、長距離全種目の日本記録を1年で塗り替えるという快挙を達成した。その後も3月7日の中日20キロロード(名古屋国際女子マラソンの前身)では2位ながら1時間6分55秒の世界最高記録を更新する。これらの結果、女子マラソンが正式プログラムとなる1984年のロサンゼルスオリンピックへの出場を、実業団で目指すこととなった。

増田の進路をめぐっては、資生堂やダイエー(いずれも当時女子マラソン大会を後援していた企業である)からも誘いがあったが、高校時代の練習環境をできるだけ変えないという条件で、地元の川崎製鉄千葉(現・JFEスチール)に瀧田とともに進んだ。他実際に、瀬古利彦の師である中村清が増田にも興味を示し、瀧田に「うち(ヱスビー食品)にくれないか」と持ちかけるもその後断られた、という話も伝えられている。もっとも増田自身はこの件についてはコメントしていない。

社会人になってからは自己のトラック記録を更新する一方、1982年5月のスポニチ陸上の5000mでヱスビー食品入りした佐々木に敗れるなど、レース結果に波が出るようになる。マラソンの記録も同年6月6日に再び佐々木に塗り替えられた。1983年1月には、第1回の全国都道府県対抗女子駅伝に千葉県チームの一員として参加、優勝チームのアンカーとして記念すべき最初のゴールテープを切る。しかし、その2週間後の大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)では貧血のため14.7キロ地点で意識を失って昏倒、無念の棄権となった。過度の練習と緊張、そしてダイエットのし過ぎによる栄養失調が原因だった。

その後、宗茂・猛双子兄弟の所属する旭化成の陸上部との合同合宿に参加し、宗兄弟から「リラックスして走る」ことを教えられて復帰。1983年9月11日にアメリカ・オレゴン州のマラソンで 2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界記録でもあった)を再び樹立。翌年のロサンゼルスオリンピック女子マラソン代表をかけて、11月の東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障で欠場(佐々木が優勝して代表を獲得)。1984年1月、前回途中棄権した大阪女子マラソンに出場する。ここでは前年と一変してレース終盤まで独走するが、東ドイツのカトリン・ドーレにゴール手前の40.9Km地点で逆転を許す。しかし、2時間32分05秒の好タイムで2位となり、代表の座をつかんだ。

オリンピック本番に向け練習を重ねるも、暑さに弱いという体質と周囲の激励をプレッシャーに感じたことから調子を落とし、本番直前には壮行会を無断欠席する事件も起こす。臨んだ8月のロサンゼルスオリンピック本番では体調の不良と、「先頭集団で走っていない」ことに耐えられず、16Km付近で再び途中棄権となってしまった(佐々木七恵は19位だった。また同レースでゴール直前、夢遊病者のように意識朦朧と成りながらも競技場の大声援の中完走した、スイスのガブリエラ・アンデルセンの姿を見て、増田自身考えが甘過ぎると反省したという)。この途中棄権は大きなダメージとなり、陸上への熱意を失ったことから、同年秋には「引退会見」を開いて川崎製鉄を退社。いったん陸上競技を離れた。

増田がロサンゼルスオリンピックのマラソンに出場したことについては、現在でも時期尚早だったという意見が根強い。しかし、佐々木七恵を除いて他に人材がいなかったことや、当時ロサンゼルスでは10000mがまだ種目に無かった(加えられたのは松野明美が出場した次のソウルオリンピックからである)ことなど、時代の中でやむを得なかった側面が大きいと思われる。

陸上を退いた増田は、法政大学経済学部の通信課程に入学し教員の道を歩もうとしたが、マラソンへの情熱が捨てきれず、1986年に大学を中退してNECに就職。オレゴン大学での陸上留学を経験する。このとき増田を指導したブラジル人のオリベイラから、「自主的にトレーニングすること」の重要性を教えられる。1987年に帰国。12月の全日本実業団対抗女子駅伝では、それまで無名の松野明美に追い抜かれた。

翌1988年1月31日の大阪国際女子マラソンで、途中棄権となったロス五輪以来の4年ぶりのフルマラソンを走る。このレースはソウルオリンピックの代表選考会だったが、日本人最高の2位となった宮原美佐子が、増田の日本記録を更新して日本女子初の2時間30分突破を果たし、五輪代表内定となった(同レース出走で3位の荒木久美、4位の浅井えり子もソウル五輪代表となる)。一方の増田は太股を痛めて体調が万全で無かった事も有り、優勝争いも日本人トップ争いにも全く加われず、マイペースでの走りとなる。

その大阪のレース途中、増田の不甲斐ない走りに憤慨したのか、沿道の観衆から「増田!もうおまえの時代は終わったんや!!」という、痛烈なヤジを浴びた時に、増田は思わず立ち止まってしまった程だったが、それでもなんとか完走する。結局記録は2時間53分30秒で順位も30位、全盛期から程遠い成績に終わった。しかし「再びマラソンを走り通せた」ことの嬉しさから、ゴール後の増田は思わず涙を流した。この痛烈なヤジを飛ばされた時のエピソードは、現役引退後に増田自らトークショー等でもよく語っている。

その後トレーニングを重ね、精神的にも成長した増田は1989年11月の東京国際女子マラソンでは日本人最高の8位入賞(2時間37分34秒)を果たして第一線に復帰。1990年4月のロンドンマラソンでは19位ながらも、全盛期に近い2時間34分42秒のタイムを記録した。しかし、同年12月の全日本実業団対抗女子駅伝で、従来のような闘志を感じられなくなったことから引退を決意。1992年の大阪国際女子マラソンを引退レースと決めて練習に励んだが、本番では足の痛みのため関門制限時間に間に合わず、ここでも16.8Km地点で途中棄権を余儀なくされた。引退後の検診で、過去の無理なトレーニングがたたり、足の骨に複数の疲労骨折が起きていたことが判明した。

スポーツライターに転身し、新聞や雑誌に寄稿したり、陸上競技・ロードレースの解説を中心に放送に出るようになる。 解説については、現役時代の経験と選手個人への綿密な取材に基づいたきめの細かい内容が特徴。また語り口も、常に選手を「〜さん」付けで呼び、落ち着いた聞きやすい声と巧みな話術によって、論理的な解説を加えていくことの出来る、いまやスポーツ界屈指の名解説者であるといえる。オリンピックの女子マラソンでも、アトランタオリンピックとアテネオリンピックではラジオ、シドニーオリンピックはテレビの解説を務めている。その傍ら、全国各地でランニングやウォーキングの指導にも当たっている。

2005年1月、ファイナンシャル・プランナーの井脇祐人と結婚。

また、2005年8月21日には真言宗智山派大本山川崎大師で夏期講座の講師を務めた。
川鉄千葉の頃までは修行僧のように無表情で走っていた。これは高校時代にしゃべりすぎて成績を残せなかったレースのとき、瀧田から「いい記録を出したければ口を閉じろ」と指導されたことに由来する。本来はおしゃべり好きであるが、引退直後はその饒舌な姿と現役時代とのギャップに驚く人も少なくなかった。また、酒豪としても有名で、どんなに飲んでも酔うという実感が無いと言う。
現役時代は宮澤喜一元首相、引退後は江川紹子に顔が似ていると言われた。また、柴田理恵からは、ヨーダに似ていると言われた事がある。
成田高校から川鉄千葉の時期は瀧田の自宅に下宿していた。当時同じ陸上部のライバル選手だった樋口葉子も同居しており、彼女を太らせるために相手の茶碗にご飯を大量に盛りつけたり、お互いが相手の目を盗んで腹筋や腕立て伏せのトレーニングをしたりと、息の詰まるような生活をしていた。その樋口とは後に親友になり、現在でも度々連絡を取り合っている。増田自身も後年「当時の樋口さんは私にとって大き過ぎる存在だったし、彼女さえいなければ...と正直妬んだりもしていた。でも今では逆に樋口さんがいなかったら、私は絶対に強くなれなかったし、ロス五輪にも行ってなかったと思う」と、最大のライバルであった事に感謝しているという。
自宅に増田を下宿させていた頃、瀧田はテレビ局の取材に答えて「増田と風呂に入りたい」と放言し、インタビュアーを慌てさせたことがある。
瀧田の実弟である滝田栄の大ファンである。
都はるみの形態模写を高校時代以来得意とする。テレビの物まね番組では、都はるみ本人から贈られた着物を着て歌ったこともあった。
「踊る!さんま御殿!!」では、あまりの饒舌さに加え、明石家さんまと他ゲストとの会話を「横取り」するかの如く喋り続けたり、笑顔で柴田理恵らの批評めいた言葉を口にした為、さんまから「あんた人のいい『にこにこ辻斬り』やね」と言われる。この回では現役時代の増田の恋愛話をさんまが聞き出す光景に、ゲストの長谷川初範が「(聞き出すのが)うまいなぁ〜」とさんまに感心したり、あまりにも喋り続ける増田に対して同じくゲストの上島竜兵に「もう勘弁して下さい」と、増田に土下座する大波乱のシーンとなった。
石川さゆりの「天城越え」が、増田のカラオケの十八番であるという。また増田自身「天城越え」のメロディーだけを、何回も録音したカセットテープを聴きながら練習したりもした。実際1989年の東京国際女子マラソンでは、レース終盤の心臓破りの登り坂を走っている最中、増田の頭の中には「天城越え」のメロディーが、ずっと流れ続けて離れなかったらしい。
現役引退後まもなくの1994年、日本テレビのテレビドラマ(「ブスでゴメンね!」)に出演したことがある。当初「ブス役」と聞いて立腹したが、シナリオを読んで「顔が美しくなくても心は美しい女性」というキャラクターに感銘し、出演を受諾した。
話し声の聞き取りやすさには定評があり、日産自動車のテレビCMに声だけの出演を果たしたことがある。(イチローの出演した「イチロ・ニッサン」のCM)
2004年のアテネオリンピックでは女子マラソンのラジオ中継(NHK第1と全民放ラジオ同一放送)で解説を行った。TBSでのテレビ中継の有森裕子の解説があまり良くなかったため、テレビを見ながら音だけはラジオを聴いていたという視聴者も多かった。1996年のアトランタオリンピックの際にもテレビ朝日での解説を務めた宮原美佐子と宮嶋泰子アナウンサーの実況の評判が思わしくなく、同様の視聴を行った人が少なからずいたと思われる。明石家さんまや元バレーボール五輪代表の川合俊一らも「増田さんの解説は、解りやすくていいですね」と、賞賛している。
2000年頃から俳句の実作を始めており、NHK教育テレビの俳句番組にも時折ゲストとして出演している。
夫・井脇祐人は、2007年2月の記念すべき第1回東京マラソンで3万人近い市民ランナーのひとりとなった。増田はこのとき解説担当としてフジテレビに出演していたが、フジのカメラが夫の後姿を映し出したときに、増田は思わず「もぉ〜、やだ〜!」と呆れ、叫んでいた。その理由は、井脇はこのとき正式な番号ゼッケンのほかにも、「増田明美の夫」と印刷されたゼッケンもつけていたからであった。
2007年4月から5月にかけて、NHK教育テレビで毎週木曜日放映の「趣味悠々−増田明美のウオーキング&ジョギング入門」にレギュラー出演した。



コメント(2)

アタシも彼女の解説大好きです
マラソン中継は実況解説で大分変わりますからね

気持ちのいい解説で可愛い人だなぁと思います

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