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我が愛しのアスリート図鑑コミュのB・ブロディ(プロレス)

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ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)のリングネームで最も知られるフランク・ドナルド・グーディッシュ(Frank Goodish、1946年6月18日 - 1988年7月17日)は、アメリカ・ニューメキシコ州アルバカーキ出身のプロレスラー。身長198cm、体重135kg。ニックネームはキング・コング、超獣、哲学獣、プロレス界のイエス・キリスト、インテリジェント・モンスター他。

全日本プロレスや新日本プロレスに参戦し日本でも活躍した外国人トップレスラーのひとりであり、人気・実力共に高く評価されている。日本では、会場売りパンフレットなどに「本名:フランク・ゴーディッシュ」と記載されていた。

ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活躍していた(後輩チームメートがスタン・ハンセン)。1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」入団。膝の故障で3年で引退。その後、「ダラス・モーニング・ニュース」の、スポーツコラム担当の記者となった。

新聞記者時代にフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、プロレス界に入った。1972年、ヒューストンにてプロレスデビュー(一説には、1973年デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。ダラス地区中心に優遇されたが、その後、自らに挑戦するために、ダラス地区のプロモーターから離れ、オクラホマ地区に転戦した。

1974年10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとコンビ結成。同年12月、USタッグ王座を奪取した。1975年7月、同王座転落、及びコンビ解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」に改称。その後、ローカルのベルトをいくつも奪取、獲得した。

1976年夏ごろ、WWWF入りし、「ブルーザー・ブロディ」に改名。知名度も上がり、まもなく、メインイベンターとしての地位を築く。1977年、ダラス地区に凱旋。1978年9月11日、ディック・ザ・ブルーザーとの世に言われるブルーザー対決で、WWAタイトル奪取。

1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。以後このベルトを巡ってドリー、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと名勝負を繰り広げる。1982年、スタン・ハンセンと、日本にてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビで年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者に輝く。

1985年3月21日、新日本プロレスに引き抜かれる形で移籍し、来日。以前に、新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜き、それに怒った全日本がタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いた事も含め、日本の2大団体の関係が、さらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝2敗3分け)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、仙台での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「藤波辰巳&木村健吾組に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。

1987年10月2日、全日本、新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦ではタッグながらスタン・ハンセンとの世界初対戦(結果的に最初で最後となった)が実現した。両者が絡んだ時間は僅か数十秒。

1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックの仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びをわかちあい、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていくという伝説のシーンが展開された。

1988年7月16日、プエルトリコ、バイヤモン市にあるバイヤモンスタジアムでの興行中、同地区のボス、カルロス・コロン(現在WWEで活躍しているカリートの実父)とのトラブル発生。カルロスの配下である、レスラー兼ブッカーの「ホセ・ゴンザレス」に、ドレッシングルームにて、腹部をナイフで刺される。同年7月17日、刺し傷が肝臓に達し、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し、結局、ホセ・ゴンザレスは無罪判決を得ている。

リング上では超獣ギミックを一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」「哲学獣」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため<要旨>」と語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された試合運びには定評があり馬場や鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなものさ」と語っていた。

試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であったが、それらの行為は彼がプロ入り前に新聞記者を経験していたためではないかとも思われる。

一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。トラブルが無かったのはダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた頃から彼のプロモーター嫌いが始まったという。

また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。ちなみに初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。

ブロディ・キック
助走をつけてのビッグ・ブーツ。別名「キングコング・キック」。

キング・コング・ニードロップ
助走をつけてのニー・ドロップ。ポスト最上段からのダイビング・ニー・ドロップは切り札としてよほどの相手にしか出さなかった。

ギロチン・ドロップ
助走をつけての高角度のギロチン・ドロップ。その高さは古舘伊知郎に「無重力状態」とたとえられた。同時代のアメリカでハルク・ホーガンが同じ技をフィニッシュにしていたが、スピード・高さともブロディが完全に上回っていた。

ジャイアント・スウィング
ワンハンド・ボディスラム(ゴリラスラム)
怪力をアピールするため右腕一本で豪快に投げ飛ばす。馬場や鶴田のような右腕だけで投げるには苦しい巨漢でも工夫して右腕一本で投げているように見せていた。

ブレーンバスター(ブレーンバスター・スラム)
独特のフォームのブレーンバスター。ビル・ゴールドバーグの「ジャックハマー」のヒントとなった技。
意外なところでは、天龍源一郎とのインターナショナルヘビー級タイトルマッチで逆さ押さえ込みでフォール勝ちしたことがある。また、巨体でありながら抜群の跳躍力をもって放たれるドロップキックも隠れた得意技の一つである。

コメント(2)

これも大感謝です。知らないことが沢山ですが、私の記憶が正しければ、メキシコかどこかの居酒屋で刺し殺されたと思います。
ツェッペリンの「移民の歌」をテーマに入場してくる姿が好きでした指でOK

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