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我が愛しのアスリート図鑑コミュの柴田政人(ジョッキー)

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柴田政人(しばた まさと、1948年8月19日 - )は青森県東北町出身の日本中央競馬会所属の元騎手で現在は調教師である。

岡部幸雄や福永洋一、伊藤正徳らとは同期・馬事公苑花の15期生にあたる。元調教師の柴田不二男は叔父にあたり、栗東所属の調教師・柴田政見は実兄で、元騎手の柴田利秋は実弟。騎手の柴田善臣とプロ野球・西武ライオンズの柴田博之は甥。

騎手成績は11728戦1767勝、重賞89勝(以上JRAのみ)。騎手の手腕がより重要視される長距離競走を得意としており、天皇賞3勝(秋の施行距離が3200mの時を含む)、ステイヤーズステークス(中山競馬場の3600m)は5勝している。長年に渡り岡部と共に騎手として双璧をなしてきた。

1966年、高松三太調教師の門下に入り、騎手見習いとなる。
1967年、高松三太厩舎所属騎手としてデビュー。初騎乗は3月4日エストレリータ(4着)。5月20日ハーバーウエーブで初勝利を挙げる。6月に現夫人と結婚。
1969年、アローエクスプレスへの騎乗で脚光を浴び、勝ち数はどんどん上がっていくが、「大舞台」での勝利はなかなか出なかった。
1970年1月の京成杯をアローエクスプレスに騎乗し、重賞初制覇。しかし関西馬のタニノムーティエに対し、既に関東のクラシック代表馬として注目されていたアローエクスプレスを今後も若い柴田に任せるのは時期尚早と判断され、馬主であった伊達秀和の意向もあり皐月賞前に加賀武見に手替りが決まる。これは東西の対抗意識が強かった時代の悲劇的なエピソードとして今でも語られることが多い。
1973年、61勝を挙げて初の関東リーディングジョッキーを獲得。
1978年、ファンタストで皐月賞に勝利し、初のクラシック制覇(期しくもオーナーはアローエクスプレスと同じ伊達秀和だった)。しかし、夏の函館滞在中にファンタストが腸捻転で急死してしまう悲運に遭う。
1979年、師匠である高松三太調教師が肝臓癌で死去。厩舎が解散した時には、生前の高松調教師と親交が深かった境勝太郎厩舎に一時的に所属。息子の高松邦男が後を継いで厩舎を開設した際に高松邦男厩舎に移籍。このように、騎手生活の中でフリー(どこの厩舎にも所属していない騎手)になったことが一度もない。(岡部がフリーになることを勧めたこともあるそうだが、決心はしなかった)
1980年、天皇賞(秋)で牝馬プリティキャストを駆り、見事なヘッドワークで大逃げを打ち優勝。
1981年、ブロケードで桜花賞に勝利し、高松邦男厩舎所属馬でのGI級初制覇。
1983年、キョウエイプロミスで天皇賞(秋)を制覇し、通算800勝を大舞台で達成。続くジャパンカップでもスタネーラの2着に入線し日本馬初の連対を果たす。
1985年、ミホシンザンで皐月賞、菊花賞を制覇。1987年には天皇賞(春)を制覇。
1986年、オーストラリア遠征で自身初の海外勝利をあげる。
1988年、132勝を挙げ日本リーディングジョッキーに輝く。
1990年、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスでアサティス(Assatis)に騎乗(3着)。
1991年6月、1万回騎乗を、7月にはシルバーヘリオスに騎乗し1500勝を達成。
1993年3月、引退した郷原洋行の後を受けて日本騎手クラブ会長の座に収まる。同年5月30日、ウイニングチケットで悲願であった東京優駿(日本ダービー)を制覇。
1994年4月24日、東京競馬第6レースでコクサイファーストに騎乗、最後の直線で左前脚故障のあおりを受けて前方に投げ出されるように落馬し頸髄不全損傷ならびに左腕神経叢損傷の重傷を負う。リハビリの末に調教に乗れるまでの回復を見せたが、「日常生活には問題ないが、騎手としての復帰は難しい」との主治医の診断もあり、同年9月6日に引退を表明。
1995年2月16日、調教師試験に合格。同年2月26日に中山競馬場にて引退式。
1995年、美浦トレーニングセンターに自厩舎を開業。
2005年終了時点で、調教師通算1819戦115勝(JRAのみ)。
現在は調教師の傍ら、サンケイスポーツ紙で「政人の目」という重賞レース回顧記事を記すほか、NHKでのGIレース中継での解説として出演することもある。また一時週刊Gallopにて「寿司政」という対談コーナーを連載した。なお「寿司政」の名前の由来は寺山修司の著作に登場する「寿司屋の政」に由来する。寺山の著作の中の人物は柴田をモデルとしているわけではないが、騎手引退後に寿司屋の役でJRAのCMに出演した際に、柴田のことを「寿司屋の政」と呼ぶようになった。

2007年4月22日に開催した元騎手によるエキシビジョンレース「第一回ジョッキーマスターズ」では、スターター役として登場した。またレース後のオークションにも登場し、ウイニングチケットの東京優駿時のサイン入りゼッケンを出品した(落札価格は11万)。参加資格が充分ある氏が騎手として参加しなかったのは、落馬負傷の古傷のせいで、もうレースはできないためだと言われている。

1988年の東京優駿直前に開催されたダービーフェスティバルの席上、柴田は「ダービージョッキーというのは大変名誉なことですから、ダービーを勝てたら騎手をやめてもいい、というぐらいの気持ちで乗らないとダメですね」と発言した(この年はコクサイトリプルに騎乗し3着)。ところがこの言葉が一人歩きを始めてしまい、「ダービーを勝ったら騎手をやめてもいい」、そして「ダービーを勝ったら引退する」と解釈されてしまい、ウイニングチケットで実際に東京優駿を勝った際にはファンから本気で引退するものだと誤解されてしまっていた。しかし偶然とはいえ悲願の東京優駿勝利後一年ほどで引退することとなってしまう。
そのダービーでは、長い府中の直線で早めに先頭に立ったこととビワハヤヒデ、ナリタタイシンらが追いすがっていた為、「持ってくれ!」と絶叫、馬を叱咤激励していたという。見事勝利を飾ったレース後には「世界のホースマンに日本のダービーを勝った柴田ですと伝えたい」の名言を残した。
現在、競馬新聞の馬柱等では兄である柴田政見(柴田見)がいるため「柴田人」と表記されている。騎手時代も兄・政見が現役だった1990年2月いっぱいまでは「柴田人」だった。

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