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我が愛しのアスリート図鑑コミュの秋山幸二(野球)

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秋山 幸二(あきやま こうじ、1962年4月6日 - )は、熊本県八代郡宮原町(現・氷川町)出身のプロ野球コーチ、元プロ野球選手。ポジションは三塁手→外野手。現役時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスで活躍した。

球界屈指の中堅手としての守備範囲、盗塁技術、そして長打力を併せ持っていた。そのため、1985年から18年間、引退するまでオールスターゲームにファン投票で選ばれ続けた(18年連続ファン投票選出は歴代最長記録である)。福岡ソフトバンクホークス二軍監督を経て、2007年度の総合コーチに就任。王貞治監督の後継が有力視されている。

1980年 熊本県立八代高等学校から西武ライオンズにドラフト外で入団。当初は地元大学への進学を決めていたが、無名の高校を引っ張った大型右腕投手としてスカウトの間では評判となっていた(3年生の夏の甲子園熊本県予選では決勝に進出したが、大津一洋‐伊東勤(現・西武ライオンズ監督)がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れた)。ほとんどの球団が投手としての獲得を目指したが、西武と読売ジャイアンツが秋山の打撃能力に注目(秋山自身も、投げることより打つことの方が好きだったと言う)。巨人との争奪戦の後、根本陸夫監督は「4年後には4番を打たせる」という言葉で秋山を動かしたとされる。
こうしてドラフト外で入団。西武入団当時の背番号は71で年俸は240万円と、当時のドラフト外入団高卒選手では平均的待遇だったが、契約金は5000万円という破格の値段だった。
同時に三塁手(実はセンターも当時から守っている)に転向。その後、野球留学でアメリカ合衆国に渡り、サンノゼにある1Aチーム、サンノゼ・ビーズ(現サンノゼ・ジャイアンツ)で数年に渡ってプレーする。走塁や守備、長打力など、多彩な分野において頭抜けた能力を見せる秋山にメジャー関係者も驚き、西武に獲得を打診したため、西武はすぐに連れ戻した。
上記のエピソードや日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、現役時代「大リーグに最も近い男(メジャーに一番近い男)」と呼ばれていた。
1985年レギュラーに定着、主に6番サードに据わる。本塁打40本を記録し、この年三冠王を獲得した落合博満(ロッテ)を向こうに回してオールスターファン投票1位を獲得する(これ以降、2002年までファン投票選出され続ける)。
1986年監督が森祇晶に交代。開幕を5番で迎えるが、ジョージ・ブコビッチの不振により4番の座を任される。この年も本塁打40本以上放ち、初のベストナインに外野手として選出される。その年の日本シリーズでは史上唯一の第8戦で有名な「バック転ホームイン」を披露する。なおシーズン終盤本塁打王を争うため、ルーキー清原和博と4番を交替したことが好結果を生んだことでAK砲の原型が完成している。
1987年 西武打撃陣が軒並み打撃成績を落とす中、3番センターの「定位置」へ定着したこともあってか、秋山1人が成績を維持、3年連続40本塁打以上を記録する。前年オフに落合が中日に移籍したこともあり、ついに本塁打王のタイトルを獲得する。史上初の40本塁打・40盗塁も期待されたが、38盗塁で惜しくも達成ならず。しかし、130試合という試合数を考えれば驚異的な数字である。MLB初の『40-40』は翌1988年にホセ・カンセコによって達成された(158試合での達成記録:42本塁打、40盗塁)。
1989年チームは近鉄バファローズに優勝をさらわれるが、初の3割を記録。パ・リーグ史上4人目のトリプルスリー達成。
1990年 盗塁王を獲得。35本塁打、51盗塁を記録し、プロ野球史上初の30本塁打・50盗塁を達成。2リーグ分立後では史上初の本塁打王受賞経験者による盗塁王となった。また2年連続300刺殺(フライアウト)を達成し外野手としての評価も確立する。
1991年 オールスター第2戦で右目に自打球を当て負傷退場(その後代打に立ったのが野茂英雄、レフトの守備に入ったのが工藤公康である)。日本シリーズではMVPを受賞している。
1993年は低調なシーズンとなり、日本シリーズでは6番に据わっている。そしてシーズンオフに渡辺智男、内山智之とともにダイエーの佐々木誠、村田勝喜、橋本武広との大型トレード。この際のトレード交渉は西武・堤義明、ダイエー・中内功の両オーナーすら知らない水面下で画策されたもので、球界史上に残る世紀のトレードと呼ばれる(このトレードをとりまとめたのが、球界の寝業師と呼ばれた根本陸夫である)。
1994年 9月17日の千葉ロッテマリーンズ戦から10月7日の西武戦まで11試合連続で長打を放ち、プロ野球史上最長記録となった。
1999年 この年からチームの初代主将に就任。この後の西武戦で松坂大輔から死球を受け、頬骨を骨折するが、その後の試合ですぐにベンチに復帰。フェイスガード付きの特製ヘルメットを作ってスタメン復帰も果たし、ダイエーにとって初めての優勝に大きく貢献する。また、中日ドラゴンズとの日本シリーズでは野口茂樹投手、川上憲伸投手から本塁打を放つなどの活躍を見せ再びMVPに輝き、史上最年長および史上初の2球団での日本シリーズMVP受賞を達成した。
2000年 出場2000試合目で2000本安打達成(ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手では史上初)。また、歴代通算三振数が1位(当時)に(現在は清原和博が1位)。
2002年 現役引退。引退試合は西武ドームと福岡ドーム双方で行われ、それぞれ超満員の観客が秋山の最後を見届けた。西武ドームでは秋山が打席に入るとダイエーの応援団からはダイエー時代の応援歌が、西武の応援団からは西武時代の応援歌がそれぞれ交互に演奏された。そして、試合後には西武・ダイエー両チームの選手たちから胴上げされ、大観衆の涙を誘った。現役最終打席はライトライナーだった。ちなみに、引退セレモニーでの「現役選手を卒業します」というコメントは、幼かった長女に現役引退を理解して貰うために考え出されたコメントである。
背番号1は福岡ダイエーホークスの永久欠番となる期待もあったが、後輩の柴原洋が1番を希望し、秋山も了承したため永久欠番とはならなかった。
2003年-2004年 RKB・TBS野球解説者、西日本スポーツ野球評論家を務める。文化放送にゲスト解説として出演することもあった。
2005年 ソフトバンクの二軍監督に就任。
2007年からは一軍の野手総合コーチに就任。また、王監督に代わり初めてコーチとしてオールスターゲームへの出場が決まった。


高校時代から身体能力は抜群。入団当時の監督・根本陸夫に「オリンピックの十種競技に出場できる」と言わしめた。とにかく引っ張るレフトスタンドに叩き込むことしか考えていないバッティングや、日本シリーズでのバック宙ホームイン(1986年・vs広島東洋カープ、1990年・vs巨人、1991年・vs広島)などは、「チームプレーができない」「三振三振また三振」「あんなアウトローに弱い選手は見たこと無い」と酷評されることもあったが、秋山のバッティングは根本や後を継いだ広岡達朗による「大きく育てたい」という考えの結果である。
いわゆる「バック転ホームイン」の初披露は日本シリーズ「第8戦」の序盤の同点本塁打のホームイン時に披露したため、実は当時の広島方面から相当顰蹙を買っていた。また、最後に披露した1991年のシリーズも相手は広島だった。この際には着地時に少しよろけたため、以後封印した。
西武時代の応援歌の原曲は荻野目洋子の「恋してカリビアン」の冒頭部分。但し、8小節で収まるように後半部分を一部変更している。
花粉症持ちであり、シーズン開幕当初はスロースターターであった。だが、花粉症の癒える5月から爆発することからミスターメイの異名をとった。
常勝軍団であった西武から弱小だったダイエーホークスに放出された秋山は、移籍当初ダイエーの選手たちに「勝ちたい」という意識が薄いことに愕然としたという。当時のダイエーの選手たちは怠惰で、藤本博史が試合前の控え室で将棋を指すなど、常勝西武の控え室(西武からダイエーに移籍した工藤公康の著書によると、森西武のころは他の選手には近寄り難い緊張感があったと言われている)を知っている秋山にとって、彼らの態度は信じ難いものだったという。とは言え、実は秋山も元々どちらかと言えばスロー調整のマイペース型だったと言われる。しかし、ホークスでの秋山は誰よりも練習し背中で選手を引っ張ることを自らに課すことになる。ホークスに移籍したことで、一選手としての秋山も生まれ変われたともいえる。
秋山がホークスで打った本塁打は437本中130本であり、またフォアザチームに徹してバッティングスタイルを変えたのでもない。しかし、彼の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口資仁など現在の強いホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む。小久保は現在も「尊敬する野球人は王監督に秋山さん」と語っている。現在のソフトバンクに弱小だった頃の雰囲気はなく、秋山がホークスに与えた影響は極めて大きいと言える。
ダイエーに移籍した年の1994年オフ、FA権を取得していた秋山は在京球団への移籍を望んでいたが、当時監督だった根本に説得される形でFA権を凍結。秋山が引退までホークスに骨を埋める決意を固めたのはこの時からだと言われている。以後、秋山は獲得したFA権を行使せずに引退した。
ダイエー時代、足の打撲で試合を途中退場した際、宿舎で王貞治監督から馬肉の差し入れがあった。王は「馬肉のスライスを患部に貼って腫れを引かせ、翌日元気にプレーする姿を見せてほしい」という気持ちで差し入れたのだが、秋山の出身地である熊本県には馬肉を刺身にして食べる習慣があり、秋山は「監督から馬刺しを差し入れてもらった」と勘違いしてしまい、食べてしまった。ちなみに次の日には腫れも引いており、秋山は試合にも出場したという。
1999年、ダイエー初のキャプテンに指名された秋山は、初優勝が現実味を帯びてきたシーズン終盤からは1番ライトで出場。文字通りチームを牽引した。9月8日の西武戦で松坂から顔面死球を受け、一時試合を欠場するが、9月25日の優勝決定試合では、先制点となる先頭打者本塁打。その後の中日との日本シリーズでも第1戦で先制本塁打、第2戦でも先頭打者本塁打を放った。さらに翌年のシーズン開幕戦でも先頭打者本塁打を放つなど、1番打者としても印象に残る活躍を見せた。
プロ入り7年目に外野手に本格転向すると数々の好プレーを見せた。彼にしかできないプレーはチームメイトや敵チームの選手からも畏怖の対象となる。三角蹴りキャッチ(1999年・vs中日)は、秋山の身体能力の高さを示す好例であり、今なおファンの心に残っている。また、身体能力が衰えだした晩年においてもファンを唸らせる頭脳プレーをたびたび魅せた。特に外野オーバーのあたりを平凡な外野フライと思わせて二塁走者のスタートを遅らせ得点を阻むプレーなどは、全盛期の焼き付けられた守備のイメージを利用した、ベテランのしたたかさを発揮した美技と言える。 
後年は腰を痛め全盛期の派手なプレーは影を潜めたが、経験則から頭脳的なプレーを見せた。また、40歳になってもその守備力は健在で、敵チームを恐れさせた。当時オリックス・ブルーウェーブに在籍していたイチローにも「あの年になっても、単に打つだけの選手ではない。秋山さんのようになりたい」と語ったほか、怪童・中西太はテレビ中継内で晩年の秋山を見て「彼は老いてバッティングが上手くなった」、中西とともに西鉄の黄金時代を築いた豊田泰光も1999年の日本シリーズでのファインプレー(前述の三角蹴りキャッチ)を見て「今まで見た秋山のファインプレーの中で一番凄い。37歳にして肉体が進化している、恐ろしい野球人」と評した。
秋山の持っている「37歳での日本シリーズMVP」は2006年の日本シリーズ終了後現在歴代最高齢記録である。
40歳を過ぎても第一線で現役を張れた理由として、豊富な練習量が挙げられる。腰は「普通の人だと歩けない状態(秋山談)」であったが、医師に見せたところ、秋山は腰の周囲の筋肉が人並み外れたものであるためカバーされていると言われたという(週刊ベースボール・石毛宏典との対談で明かした)。同郷の松中信彦が秋山の自主トレに同行した2000年春、既に秋山は38歳になろうとしていたが、松中がやっとの思いでこなせるほどの練習メニューを秋山は楽々クリアしていた。しかし、対談の中で、腰が悪いために「いつガタが来るか分からないので盗塁はもう怖い」と語った。尚、腰は現役引退直後に手術しており、解説者時代にダイエーの練習を手伝った際「現役に戻ろうかなぁ」と冗談交じりに話すほど、状態は回復している。
西武・ダイエー時代の背番号1の書体は、ゲン担ぎのためか、下の部分が「_」となるようにしてもらっていた(両チームとも「1」の公式の書体には「_」がなかった)。なお、交換で西武に移籍した佐々木誠も移籍当初のキャンプでは「_」があるユニフォームを着用していたが、その後「_」がない公式の書体に修正している。また、秋山もダイエー入団発表時から1998年までは、「_」のないユニフォームを着用していた。
現役時代の1997年のオフにTBSで「夢のひとに会いたい」という感じの題目の特番番組があり、福岡の野球に没頭するある小学生が「秋山に会いたい」という願いを叶えるという企画があり(番組制作当初からの計画通りの運びではあるが)、野球練習の帰り道にたまたま秋山とすれ違うというセッティングで2人が遭遇し、その小学生の家をアポなしで訪問する(レポーター役の片平夏貴もいて実際には3人で訪問)という企画があり、突然の秋山訪問にダイエーファンの家族はビッグサプライズの後に感涙、やがて守備を習ったり食事時に苦手のピーマンを克服するといった約束をする、という番組があった(ちなみにレポーター役の片平は秋山の義妹)。
例えば4打数ノーヒットのことを「4タコ」と表現されることもあり、打者の多くは縁起を担いでタコを食べないというが、秋山はタコが大好物。大久保博元(デーブ大久保)は、秋山に食事に誘われたところ、寿司屋で秋山が「これはデーブの故郷の大洗で捕れたタコなんじゃないんか?」と言って、一人でタコを食べ続け、さらにたこ焼き屋に連れて行かされたことがあると語っていた。
俳優の松村雄基やタレントの長江健次は親友。松村はRKBで放送された秋山引退記念番組のナレーションを務めた。
2003年11月21日、福岡県築上郡椎田町(現・築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演に数学者の秋山仁を呼ぶはずだったが、依頼側の手違いで当日に秋山幸二が訪れるという珍事が起こる。依頼者側も驚きながらも講演会を中止する訳にもいかず、秋山幸二に事情を話し、断られるのを覚悟で「よければ講演していただけませんか」と要請すると(事情を了解した上で)講演を引き受ける。当日の講演内容は『私と野球人生』に急遽変更されるが、ホークスの地元・福岡県に住む生徒にとって中心選手だった秋山幸二の登場はこれ以上ない「嬉しいハプニング」だったに違いない。後日、京都大学で講演を行った秋山仁は、壇上に上がると「こんにちは、秋山幸二です」と言って聴衆を笑わせている。
秋山には兄がいたが、秋山の生まれる1年前に日射病のため、7歳で夭折している。そのため両親は秋山が生まれた時に「この子には兄の分まで、2倍幸せになってほしい」と願い、「幸二」と名付けたという。

本塁打王 1回(1987年)
盗塁王 1回(1990年) ※本塁打王と盗塁王、両方の獲得経験がある、極めて稀な選手である。
最多勝利打点 2回(1985年、1987年)
ベストナイン 8回(1986年〜1993年)
ゴールデングラブ賞 11回(1987年〜1996年、1999年) ※福本豊の12回に次ぐ、歴代2位。
正力松太郎賞 1回(1991年)
日本シリーズMVP 2回(1991年、1999年) ※2球団でシリーズMVP獲得は史上唯一、37歳でのMVP獲得は史上最年長。
日本シリーズ優秀選手賞 2回(1987年、1992年)
月間MVP 2回(1985年5月、1991年5月)
トリプルスリー 1回(1989年)
サイクルヒット 1回(1989年7月13日)
9年連続シーズン30本塁打以上(1985年〜1993年) ※王貞治の19年連続に次ぐ、歴代2位。
5試合連続本塁打(1985年5月19日〜5月26日、1991年5月4日〜5月9日)
9試合連続打点(1985年5月17日〜5月30日)
5試合連続勝利打点(1987年5月16日〜5月22日) ※日本記録。
2試合連続満塁本塁打(1993年8月21日〜8月22日) ※史上3人目。
11試合連続長打(1994年9月17日〜10月7日) ※日本記録。
シーズン30本塁打以上・50盗塁以上(1990年) ※史上初。
通算400本塁打・300盗塁達成(1999年) ※張本勲に次ぐ、史上2人目。
通算833試合連続出場(1985年4月6日〜1991年6月16日) ※歴代12位。
オールスター出場 18回(1985年〜2002年) ※18年連続出場は、史上最長。
オールスターMVP 1回(1994年第1戦)

ちなみに背番号は

71 (1981年、2006年)
24 (1982年〜1986年)
1 (1987年〜2002年)
79 (2005年)
80 (2007年〜)


コメント(1)

秋山さんは3拍子揃った素晴らしい選手でしたね。
西武からダイエーに来た時は、皆大騒ぎして喜んでいました。

大ファンの知人は「秋山さん」と言おうものなら
激怒して「秋山さま!」と叫んでいました。うまい!

改めて見るとやっぱりすごいですね。有難うございました。

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