ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュの斎藤佑樹(野球)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
斎藤 佑樹(さいとう ゆうき、1988年6月6日 - )は、早稲田大学野球部に所属するアマチュア野球選手である。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に在学中。群馬県新田郡新田町(現・太田市)出身。

2006年、早稲田実業学校3年生の時に夏の甲子園大会で優勝投手となり、それ以降「ハンカチ王子」、「佑ちゃん」の愛称でその活躍が注目されている。

家族は父・母・兄・祖母。父は富士重工業硬式野球部に所属していた。
満田拓也の漫画『MAJOR』を兄とともに愛読し、小学校1年生から野球を始める。
新田町立生品小学校在籍中は地元リトルリーグ『生品チャンピオンズ』に在籍し主将を務める。
同町立生品中学校では軟式野球部に所属。県大会では準優勝、関東大会では準々決勝にまで進み、このころ地元紙『上毛新聞』に取り上げられる。
2004年4月、スポーツ推薦で早稲田実業学校に進学後は野球部に所属し、実家を離れ東京で兄と二人暮しをしていた。1年からベンチ入りし、2年夏では先発投手として起用されるも、西東京大会の準決勝で3本の本塁打を浴びるなど、日大三に1-8の7回コールド負けで敗退。その秋の都大会では同じく準決勝で日大三と対戦し2-0で完封勝利を挙げている。そのまま決勝も制し春の選抜のキップを手にした。11月の神宮大会では準決勝戦で夏の覇者の駒大苫小牧と戦い、3-5で敗れる。2年夏からエース番号「1」となり、秋からはチームの副キャプテンとなる。
2006年、春の選抜に出場し2回戦で関西高校と引き分け再試合の死闘の末4-3で勝利、準々決勝に進出するも横浜高校に打ち込まれて途中降板し、チームも敗退した。その夏の西東京大会では決勝で三たび日大三高と対戦し、延長戦の末サヨナラ勝ちを収め夏の甲子園大会出場を決めた。甲子園では決勝戦で引き分け再試合を投げ抜き4-3で優勝投手となる。それ以降、その活躍と魅力によってマスコミに大きく取り上げられるようになる。同年の日米親善高校野球やのじぎく兵庫国体に出場。国体でも再び優勝投手となった。
2007年4月、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学。同大学体育会野球部に入部在籍。
2007年4月14日、東京六大学野球春季リーグの開幕戦(東大戦)で1年生ながら開幕投手を務め勝利投手となった。1年生が開幕投手で勝利をおさめたのは1927年の慶大の宮武三郎以来80年ぶり。
2007年6月3日、「中学生の時から憧れていた」という早慶戦の第2戦で勝利投手となる。この試合で早稲田大学は2季連続リーグ優勝を達成。2007年春季リーグ戦での成績は4勝(リーグ1位タイ)0敗、防御率1.65(同3位)。他にプロ野球ならセーブが付く場面での交代完了が2試合あり、チームの10勝中6勝に関与、秋春連続優勝に貢献した。1年生投手としては史上初めて、春季リーグ戦のベストナインに選出された。また東京六大学野球連盟がインターネット上で実施したファン投票によるMVPにも2位を大きく引き離す2,463票を集めて選出された。
さらに6月に開催された第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦・準決勝・決勝の3試合に登板。準決勝・決勝では2日連続して先発を務め各1失点で後続につないで2勝を記録、大会最高殊勲選手に選ばれた。
2007年7月に米国で開催される第36回日米大学野球選手権大会の日本代表に選出された。代表監督を務める河原井正雄青山学院大監督は「(不敗神話に賭けるというより)勝ってもらわないと困る」「空振りを取れる球を持っている選手を選んだ。順番的にはトップクラスでの当選。(斎藤を)先発で行こうという気はある」などと語り、期待を寄せた。代表チームでの背番号は「20」。第3戦で先発し勝利投手となったが、リリーフで登板した第5戦では一転して制球を乱し、敗戦投手となった。
2007年の日米大学野球選手権では米メディアに対し「日本のプロ野球を経験してから、メジャーに行きたい気持ちはある」と、将来的なメジャーリーグ行きの意向を示した。


2006年の夏の甲子園大会で早稲田実業が勝ち進むにつれて、斎藤が試合中にマウンド上でポケットに入れた青いハンカチで上品に顔の汗を拭く姿が、端正な顔立ちも相まって徐々にマスコミに取り上げられ、その頃から「ハンカチ王子」という愛称で呼ばれるようになる。


決勝再試合のスコアボード駒大苫小牧との決勝戦では延長15回1-1で37年ぶり引き分け再試合となり、延長になっても衰えない球速や落ち着いた様子などでさらに注目を浴び、翌日の決勝再試合でも前日の疲れを全く見せない投球で早稲田実業の初優勝に大きく貢献した。決勝戦はNHKで視聴率29.1%、決勝再試合も23.8%と高視聴率を記録。優勝時のインタビューでは家族や野球部員への感謝の気持ちを素直に表し大きな共感を得、誠実さや精神的な強さが彼の魅力としてさらにマスコミに取り上げられるようになる。

また「斎藤が使っているハンカチはどこのものか」といった問い合わせが百貨店や早稲田実業に殺到してるとマスコミで報道された他、実際にYahoo! オークションで同じ種類のハンカチが1万円を超える値がついたり、「輝け甲子園の星」など斎藤を扱った雑誌の売り上げが急激に伸び、写真集も発売されるなどフィーバーの様相を呈してくる。

青いハンカチについて初めのうちはブランドさえも分からなかったのだが、その後ニシオ株式会社(本社・大阪市)が製造・販売していた「GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)」のハンカチだと判明。しかし2005年に製造が中止されていたためレアハンカチになった。その後ニシオ株式会社はサンリオ社をタイアップに「幸せの青いハンカチ」と銘打ち、2006年10月29日から「HELLO KITTY」のロゴとともに、キティちゃんの顔をあしらった青いハンカチを販売。

2006年8月31日から行われた日米親善高校野球の選抜メンバーに選ばれ渡米。それまで報じられることはほとんど無かったが、連日試合の模様が報道され生中継も行われた。メンバーには駒大苫小牧の田中将大投手もおり、インタビューで田中が斎藤をどう呼んでいるかと言う質問に対し「佑ちゃんです」と答え、(これは選抜チームの監督を務めた早実の和泉実監督が交流を図るため、名字で呼ぶことを禁止したためである)それ以降マスコミではこの愛称も使用されるようになった。帰国の際には関西国際空港に500人以上のファンが集まる。

2006年9月11日に自身の進路について記者会見にて大学進学を表明した際、会場には150人以上の報道陣が集まり、テレビで生中継された。

2006年9月30日に開幕したのじぎく兵庫国体夏季・秋季大会では、試合前から斎藤の出場に関する問い合わせが野球会場がある高砂市に殺到。早稲田実業の試合には連日観戦客の徹夜組も登場するなど試合前日から長蛇の列ができた。試合当日も観客が殺到し多くの警備員による厳戒態勢のもと、異例の入場整理券が発行され入場制限が行われるなど国体史上稀にみる盛り上がりを見せた。さらに決勝戦はこの年の甲子園大会決勝戦の再現となる早稲田実業対駒大苫小牧の試合となり、盛り上がりに拍車をかけた。

「ハンカチ王子」は2006年の流行語大賞有力候補となり、結果的に大賞は逃したが流行語大賞のトップテンに入った。しかし候補となった際に高野連から「アマチュアである高校野球が受賞するのは不適切」とのコメントが出された。[1]また、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁へ商標登録が出願されている[2]。

斎藤が登板する試合には、それまでの野球ファンに加え幅広い年齢層の女性ファンが球場に足を運んだり、週刊女性などの女性週刊誌で記事になるなどしている。

人気が低迷していると言われていた東京六大学野球も、斎藤が早稲田大学野球部に入部した2007年から日本テレビが試合中継に乗り出し、2007年5月20日に行われた明治大学との試合では観客3万人を超えた。

2007年6月3日、東京六大学野球春季リーグで早稲田大学の優勝が決定し、勝利投手となった日には神宮球場に約3万6000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の早慶戦第2戦以来10年ぶり。また2007年の春季リーグの早大戦には、観客数が11試合に22万8000人、1試合平均2万727人集まり、2006年春の13試合に9万9000人、1試合平均7615人と比べ3倍近くになった。

なお公認野球規則には「(8.02b)投手が如何なる異物でも、身体につけたり、所持すること。本項に違反した投手はただちに試合から除かれる」とあり、甲子園で彼がハンカチを使用したことはルール違反の行為であるとする声もある(ただしそのような指摘はほとんどが優勝決定後になされたものである)。このルールは本来はナイフでボールに傷を付けるなどの不正投球を防ぐための規則であるが、ハンカチも液体を浸透させるなどして不正投球に利用することも可能であるため、禁止対象となる。ただしルールの判断は審判の専権事項であり((8.02a)(e) 投手が各項に違反したかどうかについては、審判員が唯一の決定者である)、斎藤の場合不正投球の意図なしとして黙認されたか、あるいは主審がこのルールを失念していたものと思われる。

「ハンカチ王子」と呼ばれることに対し斎藤本人はスポーツ報知のインタビューで「『ハンカチ王子』は、もう終わりです」と語り、今後ハンカチは使用しないことを示唆している。

2002年夏の甲子園で群馬県代表だった桐生市立商業高等学校の応援で斎藤は甲子園へ足を運び、これが甲子園への憧れのきっかけになったという。
青いハンカチを使う以前は、ロッテの黒木知宏投手の背番号54入りのタオルを愛用。高校に入ってから母親が近所の商店街で購入した青いハンカチを使うようになった。
大学進学を表明した記者会見で、大学進学の理由として「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい」と語った。しかしアメリカ遠征の間に気持ちが揺れたことも明かした。会見終了後に自分の椅子だけでなく、校長・監督ら同席者全員の椅子も直したところが礼儀正しいと評価された。
早慶戦で優勝投手となった際、1年生ながら胴上げをされ「中学生の頃からあこがれていた早慶戦で投げて優勝を決めるということはとても嬉しい」と語った。また優勝パレード後の優勝報告会では「自分がいる4年間で再び早稲田の黄金時代を切り開きたいと思っています。わが早稲田大学野球部は一生勝ち続けます」と声も高らかに宣言した。(ただし、この報告会はインタビューのような公的な場ではなくあくまで学生相手の内輪の場である。周囲の雰囲気に圧された上での多分にリップサービスの入った発言であり、特別な意図を持った発言ではないと思われる。)
高校3年の春季東京都大会で敗れて以降、日米大学野球選手権大会第3戦まで、登板した公式戦29試合全てに、所属するチームが敗れていなかったため、マスコミはこれを“不敗神話”と呼んでいた。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング