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我が愛しのアスリート図鑑コミュのM・シュ−マッハ(F1)

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ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher, 1969年1月3日 - )は、ドイツ生まれの元F1ドライバーである。
F1界の主な記録をことごとく更新した彼は、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュワート、ニキ・ラウダ、アラン・プロスト、アイルトン・セナらとともにF1史上に残るドライバーと言われている。ドイツ人初のF1チャンピオンであり、2006年現在までのところドイツ人ドライバー唯一のF1チャンピオンでもある。

6歳年下の弟ラルフもF1ドライバーである。既婚で、妻コリーナとの間に2子をもうけている。

日本では、主にフジテレビの地上波F1中継で「赤い皇帝」や「ターミネーター」と呼ばれていたが、海外では長い綴りの姓を省略した「シューミ(Schumi)」と呼ばれる。

F1デビュー前( - 1991年)
幼少時からカートを始めるが、彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったという。煉瓦職人だった父がカート場の雇われ管理人となり、母がその食堂に勤めるようになって、カート場の使用料だけは払わずに済むようになった。劣った機材ながら速さを見せるうちに後援者を得て、頭角を現すようになる。1984年、1985年にドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツ・ヨーロッパ・カートチャンピオンとなった。メルセデス・ベンツに才能を見出され、スポーツカーシリーズ(プロトタイプ)、F3に参戦。

1990年にはドイツF3王者となり、同年のマカオGPでもイギリスF3王者ミカ・ハッキネンらを下し優勝。このレースでは、F1参戦後もライバルとなるミカ・ハッキネンに最終ラップで接触、ハッキネンがリタイヤした結果勝利を手にしており、この頃から勝利のためには手段を選ばない傾向を見せていた。2レグ制で行われたレース(当時はタイム合算により順位を決定していた)で、ハッキネンは第1レグを2位シューマッハに対して約5秒引き離し圧勝していた。シューマッハが優勝するためには第2レグで約5秒以上の差をハッキネンにつける必要があった。第2レグがスタート。序盤シューマッハが1位をキープするものの1秒弱差にハッキネンがピタリとつける展開。この差ではハッキネンの総合優勝だと誰しも疑わずに迎えたファイナルラップ。文句のない勝利を得たいために、1位でメインストレート走行中のシューマッハをスリップストリームからオーバーテイクを試みる(ハッキネンのチームのスタッフはハッキネンがオーバーテイクを仕掛けた事に驚き「当時F3で無線が普及していれば絶対に現状維持を指示出来たのに…」とコメントしている)。なんとしても絶対に意地でも抜かせたくなかったシューマッハは、スリップストリームから出たハッキネンのほうへ急激にレーシングラインを変更。その結果、両者は接触、ハッキネンは接触が原因でコントロールを失い、コース右側のガードレールにクラッシュしリタイヤ。ブロックしようとしたシューマッハはリヤウイングが脱落したものの、そのまま残り1周をなんとか走りきり第2レグ優勝を飾る。この結果、第1、第2レグタイム合計でシューマッハが90年マカオグランプリ総合優勝を決めている。

この頃よりカール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルト・フレンツェンとともにメルセデスの若手育成プロジェクトで、ヨッヘン・マスらのベテランドライバーと同じチームで走る英才教育を受け、グループCに参戦する。この当時はF3ではハッキネン、グループCではフレンツェンの評価の方が高かった。

1991年7月全日本F3000第6戦に、F1参戦と重なったジョニー・ハーバートの代役としてスポット参戦。初参戦・初めてのサーキット(SUGO)・性能の低いラルトシャーシ、といった悪条件をものともせず決勝で2位を獲得し、日本のレース関係者・ファンに衝撃を与える。この当時、ブリヂストン・ヨコハマ・ダンロップの三社が鎬を削った全日本F3000のタイヤはF1のそれよりも高性能であったといい、その特殊な使い方を習得するのに外国人ドライバーは多大な苦労を強いられるのが常だった。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストンの浜島裕英は、わずかな練習走行でその使い方をマスターするべく、タイヤの特性を根掘り葉掘り質問攻めにしてくる他のドライバーには見られない姿勢に強い印象を受けたという。なおF3からF1へステップアップする間に参戦したF3000のレース(チーム・ルマン、チームメイトはロス・チーバー)はこの1戦のみである。


ジョーダン→ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)
1991年8月、ベルギーGPにおいてジョーダンからF1にスポット参戦し、いきなり予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの、この活躍により、次戦からロベルト・モレノを追い出す形(結果的には「交換」でモレノはジョーダンへ)でベネトンのレギュラーシートを獲得する(この一連の移籍劇にはメルセデス・ベンツが絡んでいると言われている)。

翌1992年、雨のベルギーGPで当時最強のウィリアムズ勢を見事な戦略で破りF1初勝利。しかし、フランスGPのオープニングラップでアイルトン・セナに追突してリタイアへ追い込み、そのレースが赤旗中断中にセナに叱責される一幕や、その後のホッケンハイムリンクでのテスト走行中でのセナとのトラブルから両者乱闘寸前になるなど、荒っぽさがまだまだ抜け切れていないとの批判を浴びる事もしばしであった。

1993年は、開幕戦の南アフリカGPでレース序盤にアラン・プロストやアイルトン・セナを追い回すなど世代交代を予感させた。第14戦ポルトガルGPで優勝(このレースでプロストは年間タイトルを決める)。

1994年には、チャンピオン候補筆頭と目されたセナが、第3戦サンマリノGPにおいて事故死したこともあって、シリーズを独走する。しかし、黒旗失格、出場停止など(セナがいなくなった後のF1人気の低下を危惧したFIAの陰謀という説もある)が響きデイモン・ヒルの追い上げを許してしまう。結果として最終戦までもつれるが、ヒルとの接触で両者ともリタイアとなり、レースをフィニッシュすることなく初のドライバーズタイトル(ドイツ人としても初)を獲得したが、この件は故意であったか否かといった点で物議を醸すこととなった。

1995年は、序盤こそ出遅れたものの第5戦スペインGPの完勝からペースを掴み、17戦中9勝を上げてナイジェル・マンセルが92年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並び、2度目のドライバーズチャンピオンを獲得した。この年も、ベルギーGPでのヒルとの接触で執行猶予付き出場停止処分を受けるなど、スポーツマンシップに欠けるとみなされる行動が見られた。


フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)

2004年アメリカGP1996年には、名門フェラーリに移籍。フェラーリでは、社長ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロの下、長く低迷していたチームの再建が始まっていたものの、当時最強のウィリアムズ勢に対しては劣勢と見られていた。しかし大雨のスペインGPでの優勝など、早くも3勝をマークして見せた。

1997年は、最終戦ヨーロッパGPでタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと接触しリタイア、故意の接触と見なされシーズン終了後、ランキング剥奪の裁定を受けた(ただし、獲得ポイントなどの剥奪はなし)。また、この件に関する制裁の一環として、FIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。

1999年はシリーズをリードするも、第8戦イギリスGPでオープニングラップに、ブレーキトラブルでコースアウトし、そのままタイヤバリアにクラッシュ。足を骨折して7レースの欠場を余儀なくされ、ドライバーズタイトルを逃す。しかし、チームとしては1983年以来となるコンストラクターズタイトル獲得を果たした。

2000年は、ハッキネンとの激しい戦いを制し、ついに自身3度目、フェラーリ在籍ドライバーでは1979年のジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。また、イタリアGPでアイルトン・セナの持つ勝利数(41勝)と並んだが、このレース前が3連続リタイアなどで5戦勝利から遠ざかり、ハッキネンにポイントリーダーの座を譲るなどのプレッシャーから解放されたこともあってか、珍しくインタビュー中に涙ぐむシーンが見られた。ただ、このレースでは多重クラッシュで弾け飛んだパーツがオフィシャルの命を奪っており、記録達成で嬉し泣きをしている場合ではない、自己中心的だ、との強い批判も起こった。 このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続のポール・トゥ・ウィンを記録している。

2001年には、アラン・プロストの持つF1最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。

2002年には、ファン・マヌエル・ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身とマンセルのもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台獲得と圧倒的な強さを見せた。

2003年はシーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、キミ・ライコネンやファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。結果的には最終戦の日本GPで、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。

2004年は前年の苦境とはうってかわり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはリタイアを喫するもののその後は7連勝と、2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ついに5年連続で計7度のチャンピオンに輝いた。

2005年は、第8戦カナダGPまでなかなか勝てなかったが、第9戦アメリカGPでミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にリタイアし、わずか6台でのレースとなったこともあって、ようやくシーズン初勝利をあげることができた。しかし、その後も苦戦が続き、結果的にはその1勝に終わる。ついに21世紀になってから初めてチャンピオンの座を、フェルナンド・アロンソに明け渡すこととなってしまった。

2006年は、第4戦サンマリノGPでアイルトン・セナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。シーズン序盤はアロンソにポイントでリードを許すが、シーズンが進むにつれて差を縮め第16戦中国GPでアロンソと同点になる。しかし残り2戦でアロンソを上回ることが出来ず、アロンソに2年連続でチャンピオンの座を奪われた。イタリアGP後の公式記者会見で引退を表明し、この年をもってF1を引退した。


主な記録
チャンピオン獲得回数 歴代1位 - ファン・マヌエル・ファンジオが持っていた通算5回の記録を上回る6回目のタイトルを2003年に獲得(通算7回)
チャンピオン連続獲得回数 歴代1位 - ファン・マヌエル・ファンジオが持っていた連続4回の記録を上回る連続5回のタイトルを2000-2004年に獲得
優勝回数 歴代1位 - アラン・プロストが持っていた通算51勝の記録を上回る52勝目を2001年第14戦ベルギーGPで記録(通算91勝)
ファステストラップ回数 歴代1位 - アラン・プロストが持っていた通算41回の記録を上回る42回目を2001年開幕戦オーストラリアGPで記録(通算75回)
ポールポジション回数 歴代1位 - アイルトン・セナが持っていた通算65回の記録を上回る66回目を2006年第4戦サンマリノGPで記録(通算69回)

そのキャリアにおいてあらゆるF1の歴代記録を塗り替えてきたが、チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも有名。スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年のオーストリアGPでは、チームメイトのルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に2位と優勝を譲らせたことで物議を醸し、FIAがそれまで黙認状態だったチームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すにいたっている。No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、コンビを組んでいた当時のバリチェロ、フェリペ・マッサらはその存在を否定しているが、一方で、元チームメイトのジョニー・ハーバートやエディ・アーバインは引退後にその存在を匂わせる発言をしている。

こうした待遇の是非については、ミハエル・シューマッハに限って言えば、1996年以降のフェラーリの復活劇は当時屈指の実力者で同時にリーダーシップを持ち合わせていた彼を中心としたものでなければ困難であった、とする見解にはチームオーダー自体に否定的な立場をとる者の中でも異論を唱える者は少ない。そのため、No.1体制については必然の在り方だった、という見方もできなくはない。また、歴史的には、チームオーダーを廃してチームメイト間に競わせる方針を取っているがためにタイトルの幾つかを失っているウィリアムズのような例もあり、チームメイト間の立場の在り方については、シューマッハの例に限らず一般論としても議論が多い部分ではある。

他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。上記のマカオGPに端を発し、F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否かが判断しがたくシューマッハの行動に理解を示す声もあるが、1997年にジャック・ヴィルヌーヴと接触したケースについては故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンにふさわしくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残すこととなった。

こうした行為に見られるように、チャンピオンのかかった土壇場で意外なほどの精神的な脆さを見せることが過去にはあった。1998年と2000年の日本GPにおいては、ポールポジションを獲得して、ライバルのミカ・ハッキネンに対し優位な立場にいながらも、レーススタートではそれぞれストール・先行を許してしまった。また、2003年の日本GPでも雨による混乱で中団グリッドからのスタートとなり、焦りから接触などのミスを連発して、キミ・ライコネンにあわや逆転タイトルを許すのではないかというレースになったこともあった。ただ、この様な事例や、2000年のイタリアGPにおいてアイルトン・セナに並ぶ41勝目を記録した際の記者会見での涙などは、「ターミネーター」と呼ばれたシューマッハも人間であるということを周囲が確認するエピソードとして語られている。

レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りやピット戦略で前に出ることが多く、コース上でライバルを追い越したことは意外なほど少ない(むしろライバルに追い抜かれたことは多い)。そのため、圧倒的な記録の割に、アイルトン・セナやミカ・ハッキネンらと比べると走りの印象は薄い。実際、ピットイン前後の周回で驚異的な速さを見せてマージンを築いたり、相手より多いピットストップ戦略を行うなど、パッシングよりも作戦を精密かつ柔軟に実行することによって勝利を得るところに特徴がある。こうした走りを支えたのは、現役ドライバーの中でも徹底したトレーニングで作り上げた「サイボーグ」と称されるほどの抜きん出た体力と、優れた洞察力であり、ピットストップ作戦に偏重した現在F1において、これらの秀でた能力は大きな武器となっていた。

勝利を挙げたグランプリの表彰台上において常に「心の底から喜んでいる」ことも、彼を常に観察しているジャーナリストや関係者を中心によく言われる。7度のワールドチャンピオンと90もの勝利を挙げながら、新たな1勝を貪欲に欲するモチベーションの高さは驚嘆に値する。彼が起こしてきた様々な事件も、その手段は擁護できずとも、勝利への強烈な志向の極端な現出であることは周囲が証言するとおりである。

総体的にみれば、No.1待遇の是非など種々の批判もある一方で、史上屈指のレース巧者であることに異論を挟む者はいない。また、チームのメインスタッフのみならず、末端に至るまでのチームクルーと深い関係を保ち、チームを一丸としてミッションに臨む姿勢はF1の歴史の中でも最も際立ったものと言える。シューマッハは、チームに対して批判的な発言をしたことがまったくといっていいほどない。プロストやセナがしばしば、チームを批判していたこととは対照的である。これは、プロストやセナが現役だった当時は、「速い車を用意するのがチームの仕事、それを速く走らせるのがドライバーの仕事」という意識が強かったからである。その点シューマッハは、現代のF1においては、テストなどを通じて速い車を作り上げるのもドライバーの重要な仕事だという意識が強かったのである(全盛期のセナはほとんどテストには参加していなかった)。この意識こそが、長年低迷を続けていたフェラーリを常勝チームへと引き戻した大きな要因であろう。シューマッハの王座は速い車のおかげである、という主張は間違ってはいない(特にフェラーリ時代)が、その速い車を作り上げるのにも、シューマッハは大きく貢献しているのである。


以下に、目覚しい内容によりしばしば特筆されるレースを挙げる。

1992年・第12戦ベルギーGP - 自身初優勝したレース。序盤の雨の展開の中、チームメイトでレース中に先行していたマーティン・ブランドルのタイヤの状況を見て取り、混乱する他のドライバーらを尻目に冷静なタイヤ選択を行い、見事に優勝を遂げた。「若手らしからぬ」という形容詞が常に付されていた彼らしい冷静な洞察力に裏打ちされた、デビューからちょうど1年後の初優勝となった。
1993年・第14戦ポルトガルGP - 予選は6番手とふるわないが、決勝レースでは一回目のタイヤ交換を利用して先行する3台を交わしてトップに立つと、終盤はアラン・プロストの猛攻を凌いでキャリア2勝目を上げる。タイヤ交換の前後でペースが落ちない彼のレースの特性が発揮されたレース。
1994年・第5戦スペインGP - レース半ばでギアが5速以外に入らなくなるというトラブルを抱えた。トップの座こそヒルに讓ったものの、大きくラップタイムを落とすことなしに残り30周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞、レース終了後も涼しい顔をしてコックピットから出てきた。通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行い、低・中速コーナーをも攻略するドライビングテクニックと、途切れない集中力、体力が改めて評価された。
1995年・第14戦ヨーロッパGP - この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面となったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたデイモン・ヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、レースにおいても勝つことをあきらめず、残り3周というところでジャン・アレジを抜き去り優勝をもぎとった。トラック上での劇的なオーバーテイクを伴って優勝した数少ないレースの一つである。
1996年・第7戦スペインGP - 豪雨の中、唯一人、他のドライバーを大きく上回る速いラップタイムを刻みつづけ、レースを完全に支配し、フェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズのパトリック・ヘッドはシーズン後に、「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で、「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。
1998年・第13戦ハンガリーGP - ミハエル・シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレース。レース中、マクラーレンがフェラーリに対してレースペースで優位に立ったことを見てとったロス・ブラウンの発案により、本来2回が常道のピットストップ戦略が突如3回に切り替えられた。シューマッハは、この指示に見事応え、軽い車で毎周自己ベスト付近のタイムペースを維持し、先行するマクラーレンを逆転することを鮮やかに成功させた。
1999年・第15戦マレーシアGP - 第8戦イギリスGPで負傷し欠場していたため、7戦ぶりの復帰戦として臨んだレース。怪我の回復具合や長期欠場によるレース勘の鈍りなどが不安視された中、予選から決勝レースまで完全に支配する独走劇を見せた上に、当時タイトルを争っていた同僚エディ・アーバインに順位を譲った後は、アーバインとタイトル争いをしていたミカ・ハッキネンを完全に押さえ込み、2位におさまるという完璧な仕事を遂げた。
1994年第8戦イギリスGP - フォーメーション・ラップでポールシッターのデイモン・ヒルを2度に渡りオーバーテイクし、「ポールシッターへの敬意に欠ける」行為として10秒ピットストップペナルティーを提示されるがチーム側の勘違いでこれを無視して走行し続けたため、レース失格、2戦出場停止のペナルティとなる。相手の母国GPでのこの行為は、ファンへの配慮を著しく欠いたことは否めなず、「紳士のスポーツF1」に相応しくないドライバーとして少なからず非難を受けることになる。しかし、この時点でシューマッハはチャンピオンシップを独走しておりFIAによるチャンピオンシップ操作ではないかという噂も堪えなかった。(尚、このペナルティへの抗議中にベネトンのレギュレーション違反が指摘され、自身の初優勝した地でもあるベルギーGPで優勝するも失格処分となり、結果的に相手側であるヒルをチャンピオンシップ争いに引き上げることとなった。)
1994年第16戦オーストラリアGP - 1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルと激しいデッドヒートを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは、次のコーナーでインを刺すが、シューマッハのベネトンB194がコーナーのアウト側からそれにかぶさる形となったことで両者は激しく衝突し、この時点でシューマッハはリタイアとなり、ヒルもピットまでは戻ったもののリタイアを余儀なくされた。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から批判も強く、後味の悪さを残す形となった。
1995年・第11戦ベルギーGP -雨の中唯一スリックタイヤを履き、ピットの入れ替わりで1位になるも、レインタイヤを履いた2位のデーモン・ヒルの圧倒的レースペースによりすぐさまテールトゥノーズ状態になる。ヒルはシューマッハを抜きに掛かるも、シューマッハは何度もラインを変えるなどヒルを執拗以上に激しくブロック。結果両者は接触し、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。シューマッハは、優勝こそしたもののヒルに対するあまりに危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。またレギュレーションに後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみという新たな規定がなされる。


同時代のあらゆるスポーツ選手の中でも屈指の高給取りで、最盛期には年間8000万ドルの収入があると言われていた。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表するスポーツ選手長者番付では毎年タイガー・ウッズと1位を争う。しかし、多くのF1レーサーの居住地である所得税ゼロのモナコではなく、政府と免税契約をした上で「静かな生活が送れる」スイスに住居を構え、移動に使うプライベート・ジェットは弟ラルフ所有機の豪華さに対し、スピードに勝る質実剛健の仕様であることでも知られる通り、生活はいたって質素であるとされ、実際、スキャンダルめいた話は一切聞かれない。子供のお小遣いも数百円程度であるという。

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