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城下町コミュの茂木

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 下野国茂木城は、建久3(1192)年に常陸守護八田知家が奥州藤原氏討伐の功により、源頼朝から茂木郷地頭職を賜わまり、奥州への備えとして三男知基を派遣して築城したのが始まりとされる。知基は茂木氏を名乗り、その子孫が代々この地を統治した。
 5代目の茂木知貞は南北朝の騒乱時、足利方に属したため、建武3年11月、茂木城は南朝の北畠顕家軍に攻略されている。
 知貞はその後城を奪回して防御力を高めた本格的な城砦とした。
 古河公方足利成氏と関東管領上杉房顕との間で享徳の乱が勃発した際には、茂木氏は分裂し、12代目の知行は上杉方に、嫡子の持知は古河公方に服属して対立した。そして、康正2(1466)年、知行の拠る茂木城が公方方の那須持資や宇都宮明綱によって攻撃され、知行は四ヶ月に亙って籠城戦を続けたが降伏を余儀なくされ、以後、茂木氏は古河公方に服属した。
 その後、常陸の佐竹義舜(ヨシキヨ)が下野に進出すると、茂木持知は義舜に組し、以後、茂木氏は佐竹氏の属将となって、小田原北条氏に対抗した。天正13(1585)年には北条勢によって茂木城は落とされたが、すぐさま佐竹義重の援軍によって奪回されている。
 天正18(1590)年、豊臣秀吉が関東を制圧した際に、17代目の治良は正式に佐竹義宣(ヨシノブ)の家臣として位置付けられ、文禄3(1594)年に義重の命で常陸国小川城に移され、代わって茂木城には須田盛秀が入った。
 佐竹義宣は関が原の合戦で西軍に同調したため、慶長7(1602)年に出羽国秋田へ転封され、須田氏・茂木氏も共に秋田に移った。
 その後暫くの間、茂木は幕府直轄領とされたが、慶長15(1610)年に至り、豊前小倉藩主細川忠興の弟である興元が10054石で茂木城に入り、茂木藩が成立した。この際、城の麓に御殿等が築かれたようである。
 元和2(1616)年、興元は大坂夏の陣における軍功により常陸国筑波郡谷田部6200石を加増され、藩庁を谷田部(ヤタベ)に移したため茂木城は廃城となった。但し、領地の約6割が茂木にあったため、茂木には陣屋が設けられた。
 明治3(1870)年12月、第9代谷田部藩主細川興貫(オキツラ)は藩庁を茂木に移したため茂木藩が16300石で復活したが、翌年7月に廃藩置県を迎えた。
 現在、茂木城跡は公園となり、城主茂木家・藩主細川家の墓所は曹洞宗塩田山能持院にある。

・茂木城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49148576&comm_id=398257
+能持院細川家墓所
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49202118&comm_id=398257

コメント(8)

19日に行って来ました。

真岡鉄道茂木駅には土日祝日だけ下館から〔SLもおか号〕が運行されています。

左;SLもおか号
中;茂木駅
右;茂木駅の機関車転車台
左;城の外堀の役割を果たした逆川
中;外郭土塁
右;外郭土塁下の石積
左;出丸空堀
中;出丸復元物見櫓「姫の望楼」
右;「姫の望楼」からの眺望
左;本丸下水濠
中;本丸虎口
右;城跡碑
 曹洞宗塩田山能持院です。

左;総門〔栃木県指定文化財〕
中;石柱
右;本堂〔茂木町指定文化財〕
左;逆川
中;道の駅もてぎ
右;旧古田土雅堂(コダトガドウ)邸〔茂木町指定文化財〕
 古田土雅堂(1880〜1954)は明治末期から大正時代にアメリカで活躍した日本画家で、帰国後、宇都宮市内にアメリカから輸入したバルーンフレーム工法の住宅を建てて居住しました。道の駅の敷地内に移築されています。
 茂木町内の名所である城山公園・能持院山門・安楽寺のけやき・大瀬大橋の絵が焼き込まれた茂木名所煎餅です。

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