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シュタイナー的生活を楽しむコミュの 第40週 「反感」と「共感」 の世界

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1/22〜1/28
  
こうして私が
霊の深みにいるとき
   
私の魂の根底では
自己愛から生じた幻想の空しさが
宇宙の言葉の焔に貫かれる。
       (Rudolf Steiner  高橋 巌訳)
   
----------

先回は固体に対応している魂界の第一領域である

「燃える欲望の領域」を中心に考察した。

ここは、肉体的欲望を増幅させた魂の領域である。

では、なぜ肉体的欲望が増幅した状態へと魂が変容したのか。

魂は物質にも霊にも向かうことができるからである。

いわばその触手を物質の方にも、

霊の方にも、伸ばすことができるのである。

地上生活において、

魂が物質的欲望ばかりに手を伸ばした魂は、

肉体的欲望の影響を強く受けるからである。

この世の生活の中で、燃える欲望と同化する度合が大きければ大きい程、

それ故浄化される必要が大きければ大きい程、

魂は、長期に亘って

この第一領域に引き留められるのである。

逆に地上生活において人間の魂の働きが

霊の方向により多く手を伸ばしたなら

高次の霊の影響を受け、

第四領域から第七領域へと引き上げられるのである。

人間は自分のすべての働きに霊の方向をとらせるのでなければ、

自分の使命を達成することができない。

即ち、地上生活の目的とは、

日々の思考内容の中に魂の力を結集させて、

魂が霊的本性の中に生きるようにしていくことである。

霊学を学び実践することによって思考内容の中に魂の力を結集させ

次第に魂が霊的本性の中に生きるようになっていくのである。

読書の行や瞑想、その他シュタイナーの提唱したことの

実践はそのためのものである。

即ち、自分を霊の方向に従わせるものなのである。

「精神科学」の高次の思考、感情に触れることによって、

高次の直感を自らの中に汲み取れるようになるのである。

さて、今回は、もう少し詳しく

第一領域から第三領域までを考察してみたい。

この領域の種類の構成体は、

反感が共感にまさっている状態である。 

この構成体は魂の空間の中で自己中心的な役割を演じている。

自分の周りにいる多くのものを押しのけ、

わずかなものだけを好ましいものとして自分の方へ引き寄せる。

即ち、自己愛に満ちている魂の状態である。

魂界の低次の第一領域から第三領域は反感の力が強く、

共感の力が対抗する反感によって妨げられる領域である。

第一領域から第三領域までは、まだ反感の作用が問題となっている。

「反感が問題になる間は、

まだその魂的構成体は自分だけのために、

自分を他のものによって強め豊かにすることのためにのみ、

他のものと係わろうとしている。」(『神智学』p110)のである。

この部分での領域における反感は義憤でも公憤でもなく

自分が誰かに認められ、

自分を他のものによって豊かにしようとするために

即ち自己愛の方向に魂が働いている。

だから、自分を愛し認めてくれるもの以外に対しては「反感」の作用が生じる。

自分が批判されると

非常に立腹する。

まさに固体のように硬い状態である。

自分が認められないが故の「反感」が魂の中に充ち満ちてくるのである。

日常生活の中で自分の中に、

さらには、係わりのある他者の中に、

容易に自己愛へ退行している魂の状態を

あらゆる形態でみることができる。

この人間を退行の段階へ志向させようとする

自己愛の情念をいかにして「隣人と異邦人への愛」(アガペーの愛)

へと高め前進していくか、

そして 、人間一人ひとりが真に独立と自由を獲得するかが、

地上生活の一つの目的であり魂の成長であろう。

さて、シュタイナーは死後の魂界の第二領域、

第三領域をどのように説明しているのか。

「共感と反感が均衡を保っているのが、魂界の第二領域である。

死後、これと同じ状態にある人間の魂は、この第二領域の作用を受ける。

人生の外的事情に心を奪われたり、感覚の一次的な印象に

喜びを求めたりすることがこの状態を作り出す。

このような状態にある魂の要求から自由になれない人は、

この領域の中に留まり続ける。

このような人は日常の瑣事(さじ)にいちいちこだわる。

しかしその際共感が特にひとつの事物に向けられることがないから、

どんな印象も、特別の影響を与えることなく、急速に通り過ぎる。

しかも些細な、無価値なもの以外はすべて、

このような人の反感を呼び起す。

さて魂が死後このような状態に留まり続けようとするのに、

魂のこの要求を満足させるのに必要な感覚的物質的事物が存在しない場合、

この状態もまた完全に消滅せざるを得ない。

完全に消滅するまで、

魂を占めている欠乏感は勿論苦痛に満ちているが、

このような苦しい状態こそ、

人間が地上生活を送っていたときにとらわれていた

幻想を打ち破るための道場なのである。

第三に、魂界の中には、

共感と願望の支配する状況が観察される。

魂は死後、願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、

この第三の領域の作用を受ける。

この願望もまた成就させることが不可能なので、次第に消滅する。」
(『神智学』p120〜121)

この部分を読むとアーリマンのことが思い出された。

アーリマンは人間の悟性魂に今も働き続けている。

そして、魂を硬化させ、まるで固体のようにする方向に働く。

さらに、魂界の第2領域に書かれているように

どうでもよい細事にこだわらせる。

周囲の世界を物質的に受け取り、

霊的なものを 洞察しないよう作用し続けるようになる。

その結果人間は、人間にとって一番大切なものが見えなくなり、

どうでもよい細事にこだわり、俗物的になり、

果ては唯物論に覆われた世界を築いてしまった。

こうして人間の「霊性」が目覚めないように働き続けているのだ。

そして、人類はアーリマン的な力の「とりこ」になってしまったのである。

シュタイナーが語るように「現在、精神科学の存在しないところでは、

人々はアーリマン的に教育されている」(『悪の秘儀』p27)からである。

子供の頃から唯物論的な思考になじんでいる者は、

いとも簡単にアーリマンの手中に陥るのである。

アーリマンは人間に世界の霊的土台を隠し、

外界を単なる物質と考察させ、霊的なものに対する恐れを引き起こす。

そして、アーリマンは「反感」の中に作用し、

人間の神経の中に入り込んでいる。

地上生活において、世界の本質である霊的なものが

わからない人間は、

日常のどうでもよい細事にいちいちこだわる。

日常のどんな印象も、特別の影響を与えることなく、

何の宇宙の叡智を理解することもなく、急速に通り過ぎる。

魂界の第二領域と第三領域では

魂がアーリマンの影響をうけて、

唯物的になり、地上生活での本質ではない

どうでもよい些細なことにこだわる。

このような魂の要素が浄化されるまで、

その領域に留まるのである。

霊的本性にとって本質ではないものとは、

例えばこの世の世間体等にこだわる魂の要素などもそうであろう。

とりわけ第三領域においては、

死後、物質的願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、

この領域での浄化の作用を受ける。

この物質的願望もまた成就させることが不可能なので、

次第に消滅するまでこの領域に留まる。

このように魂界の第一領域から第三領域は、

共感の力が反感によって妨げられてしまう。

このことによって魂界の第四領域以降と区別される。

第四領域以降は高次の種類の魂の素材によって

はじめて多様な魂的構成体が

ひとつの共同の魂的世界としてまとまるのである。

魂界の第三領域までの反感が問題になる間は、

まだその魂的構成体は自分だけのために、

自分を他のものによって強め豊かにすることのためにのみ、

他のものと係わろうとしているのである。

いつも相手の上に立とうとし

他者を、自分の自我の強制下に置きたがる。

自分が他者より優越する力を求め

それ以外のものには反感が生じるのである。

私にとって、今日のこの反感の感情に

潜む不快はこの事態のうちに

何か反感、不快を引き起こす特性が潜んでいるのであるが、

反感と不快にとらわれ、心を奪われ、

せっかくの魂の浄化の機会を失っている。

第四領域以降は高次の種類の魂の素材によって

はじめて多様な魂的構成体が

ひとつの共同の魂的世界としてまとまるのである。

即ち、第四領域以降において、反感が沈黙するとき、

私の周りに生じるあらゆるものが

伝達し啓示してくれる存在として

他のものを迎え入れるようになるのである。

コメント(2)

いつもありがとうございます。
正に、ずっと第三領域に留まってアーリマン的な力に虜になっている相手と
重要な協議の結果を出さなくてはならなくて、
自分のエゴと向き合っていました。
反発して反応して嫌悪感を抱いている自分と
悟性的に成長の機会と捉えようとして背伸びしている自分との葛藤でした。

最初は反感(怒りと反発)から
思わずマインドの中で相手を完膚なきまでに叩き潰す算段を考えちゃう自分を黙って観つめ、
とことん(想像の中ですが)やっつけてみたあと、
満足しないというか、やっぱり自分のスタイルじゃないなと、
そのやり方に興味が薄れ、
理屈で理解できるところまでは行くのですが、
「共感」して「愛」を分かち合うのはなかなか難しかったです。

今日、改めて魂の領域を読んで、
改めて、相手にしている人はアーリマン的に狭い利己主義的な視野しかなく、
そもそも「話し合い」っというコンセプト自体が成り立たっていなくて、
反感にとらわれている相手こそ、光が見えずに藻掻いているんだなぁと共感しました。
明日、その人とまた協議するので、共感(彼の意見にではなく、捕われている心の状況の苦しさに)と愛をキーワードに接してみます。
私が受け取れることは、私がしたこと、だから。
私は、叩き潰されるより、共感と愛を受け取りたい。

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