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シュタイナー的生活を楽しむコミュの善きサマリア人を求めて

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12/15〜12/21
38週

 魔法がとれたように
   私は魂の胎内に
    子なる霊を感じる。

  明るくなった心の中に
    聖なる宇宙の言葉が
     希望に満ちた天の果実を実らせる。

   その果実は私の存在神的根底から
     宇宙の果てにまで
       歓びの声をひびかせる。

(Rudolf Steiner  高橋 巌訳)
……………………………

38週の「魂のこよみ」はまさに,

クリスマスをお祝いする

そのものの内容である。

この内容を魂の奥底に響かせたい。

聖夜が近づいてきたこともあり、

イエス・キリストの使命について思いをはせたい。

地球が進化するということは、

「善きサマリア人」のたとえのように

もはや掟を必要とはしないで、

心の底から自由となった自我が善きこと、

正しいことを行う人間へと成長することである。

シュタイナーは、キリストこそが、

このような自由の衝動の贈り主なのであると

語っている。

善きことを、「しなければならない」でなく、

心の内に生きる「愛の衝動」となって、

行うようになるのである。

愛が霊化されて、

誰もが正しいことだけを行おうと欲するようになるとき、

イエス・キリストがこの世にもたらそうとした事柄が成就されると

以下のように語っている。

「さて、ここで個人がみずからを集合魂と感じていた

『集合魂の時代』に身を置いて、

集団における社会秩序に眼を向けてみましょう。

もちろん眼に見える存在としての人聞は、

一人ひとり別々に存在しています。

その人びとは自分の中に集合自我の働きを感じていましたが、

見たところは一人ひとり別々でした。

人びとはまだ個別者であるとは感じていませんでしたので、

内部に愛をまだ十分に生かすことができませんでした。

血の結びつきがあったからこそ、

相手を愛したのです。

血の結びつきがすべての愛の基礎だったのです。

血で結びついていたものたちだけが、

互いに愛し合っていました。

そして血の結びつきから、

性愛でない限りでの愛もまた生じたのです。

この集合魂の愛から、

今、人びとは自由にならなければなりません。

そして愛を自我の自由な贈りものとして捧げなげればなりません。

地球紀の進化の終わりには、

独立した自我が心の底から、

帰依の衝動に突き動かされて、

正しいこと、善きことを行おうとするようになるでしょう。

自我の中にこの衝動が生きているからこそ、

自我は正しいこと、善きことを行おうとするのです。

愛が霊化されて、

誰もが正しいことだけを行おうと欲するようになるとき、

イエス・キリストがこの世にもたらそうとした事柄が成就されるのです。

なぜなら、キリスト教の秘密のひとつは、

次の教えにあるからです。

−『キリストを見よ。

その姿からあふれる力で、

みずからを満たせ。

彼のようになろうとせよ。

彼の後に従おうとせよ。

そうすれば、もはや掟を必要とはしないで、

心の底から自由となった自我が善きこと、

正しいことを行うであろう』。−

キリストは自由の衝動の贈り主なのです。

ですから、善きことが、掟の故にではなく、

心の内に生きる愛の衝動となって、

行われるようになるのです。

しかしこの衝動を十分に発展させるためには、

地球紀の残り全体が必要なのです。

それはイエス・キリストから始まりました。

そしてキリストの形姿は、常に、

それへ向けて人間を教育する力となるでしょう。

独立した自我を持つまでに成熟していなかった時の人間は

集団の一分肢として存在していました。

そして公の旋によって、社会的に規制されていました。

今日でも人びとは、まだあらゆる点で、

集合自我から抜け出せないでいます。

今日の人間はなんと多くの点で

個的人間ではなく、

集合的存在であり続けていることでしょう。

秘儀の学堂において『故郷喪失者』と呼ばれる、

自由なる存在になることは、

今日ではまだ理想でしかないのです

自由意志で世界のいとなみに関わる人は、

個的な人です。

その人は掟に従わされていません。

キリスト原則の中には、

『掟の克服』ということがあります。

『なぜなら、掟はモーセによって与えられた。

しかし恩寵はキリストによって与えられる』(1章17節)。

キリスト教の意味での恩寵とは、

内面から善を行う魂の能力のことです。

恩寵と内面で認識された真理とは

キリストによって生じました。

この考え方が全人類の進化にとって、

どれほど深く働きかけているかがお分かりになるでしょう。」(p93〜94)

イエス・キリスト以前に秘儀に参入した人は、

高次の霊的知覚器官を与えられた。

それまでは、どんな人も、

肉眼では神を見なかった。

イエス・キリストは、

人びとが肉眼で地上の諸事物を

見るのと同じ仕方で神を見ることを、

私たちに可能にした最初の神であった。

それまでの神は、眼には見えなかった。

神は超感覚的存在として、秘儀の場で、夢を通して、

あるいは他の何らかの手段を通して、開示されたのである。

今、神は歴史的、感覚的な事実となり、

肉体を持った形姿となったのである。

イエス・キリストは地上の感覚で

神を見ることができるようにしてくれたのである。

ヨハネ福音書の言葉は、

キリストが集合魂に従う人びとの導き手であるだけでなく、

一人ひとりの人間の中に入っていって、

まさに個的な自我にキリスト衝動を与えよう

としているとシュタイナーは以下のように語っている。

「血の結びつきは、その後も存在し続けますが、

しかし愛の霊性がそれにつけ加わるのです。

自由な自我から自由な自我へ働きかけるこの愛に、

キリストはみずからの衝動を与えるのです。

秘儀においては、

参入する人に毎日真実が明かされていくのですが、

重要な真実は常に三日目に明かされるのです。

ひとつの重要な真理は、

進化の過程の中で血と結びついた肉身の愛が、

ますます霊化されていく地点に今人類が立っている、

ということです。

このことを人びとは、今完全に理解すべきなのです。

純粋な血の愛から霊的な愛への移行を、

眼に見える形で表したのが、

パレスチナにおける出来事の意味なのです。

そのことを、イエス・キリストの次の言葉が意義深く語っています。

−『私の時代が来るであろう。

そこでは、もはや血の結びつきによらず、

独立した一人ひとりによって、

もっとも重要な諸行為がなされるのだ。

その時代が、今来なければならない』。

最初の衝動を与えるキリスト自身が、

或る重要な機会に、

この理想がいつかは実現されるだろうが、

しかしそのときはまだ来ていない、

と語っています。

イエスの母が人びとのために或る重要な行為を

するようにと彼を促したときに、

キリストは預言的にこの言葉を語っているのです。

彼は母に次のように答えます。

自分たちが今日やれることは、

まだ血の結びつきに関わることだ。

まだ『私とあなた』の関係に関わることである。

『なぜなら私のときはまだ来ていないのだから』(2章4節)。

個人がひとりで立たなければならない時代が来るということが、

カナの饗宴の物語の中で語られているのです。

『彼らにはぶどう酒がありません』(2章3節) という要求に対して、

イエスは次のように答えます。

『これはまだ、私とあなたとに関係のあることです。

私のときはまだ来ていません』。

『私とあなた』という一言葉と

『私のときはまだ来ていません』という言葉に注意して下さい。

この二つの言葉で、

今言いました秘密が示唆されているのです。

多くの他の場合と同じように、

この言葉もまたかなり大雑把に訳されてきました。

ここは、『女よ、私とあなたとどんな関係があるのか』ではなく、

『これは私とあなたの血縁との間の関係です』という意味なのです。

原典はこのように繊細であり、微妙なので、

それを理解しようと欲する人にしか理解できないのです。
・・・・
今日、キリスト教を名乗り、

福音書を引き合いに出す多くの人に、

次のように問わざるをえません。

−あなた方は本当に福音を持っているのか。

大切なことはまず福音を持つことです。

ヨハネ福音書のような深い宗教文献の場合、

大切なこと一つひとつの言葉を、

その正しい価値を知るために、

黄金用の秤にかけることなのです。」(96〜97)

シュタイナーが後半に語っているのは

ヨハネ福音書第2章の「カナの婚礼」での場面のことである。

聖書のこの場面をまずみておきたい。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、

イエスの母がそこにいた。

イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

ぶどう酒が足りなくなったので、

母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。

イエスは母に言われた。

『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。

わたしの時はまだ来ていません。』

しかし、母は召し使いたちに、

『この人が何か言いつけたら、

そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ福音書2章1〜5節)

イエスがマリアに語った「わたしの時はまだ来ていません。」

という言葉に深い意味が込められているのである。

キリストの使命は、自我のまったき力、

その内的な独立性を人間の魂の中にもたらすことであった。

一人ひとりの自我が独立して、

完全な自己存在の中でみずからを感じながら、

自由なる愛の力を通して、

人間が人間と結ばれ合うという関係であった。

しかし、イエス・キリストは

『私のときはまだ来ていません』と母マリアに語り、

まだ、そういう時代が到来していないことを示唆したのである。

「今日、キリスト教を名乗り、福音書を引き合いに出す多くの人に、

次のように問わざるをえません。

−あなた方は本当に福音を持っているのか。」

というシュタイナーの問いかけが、深く心に迫ってくる。

コメント(4)

あめじすとさん
コメントありがとうございます。
「善きサマリア人」は、
シュタイナーが求めた究極の人間像であり、
『自由の哲学』が求めている境地であると
理解しています。
一年一年『ヨハネ福音書講義』の内容が
心にしみてきます。
エーテル界のキリストを感じる週ですね。
おたかさん
コメントありがとうございます。
良きクリスマスをお過ごしくださいますように・・・。

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