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シュタイナー的生活を楽しむコミュの3月31日の復活祭を前に

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第1週 

3/31〜4/6

宇宙の彼方から
日が感覚に語りかけると
喜びが魂の根底からわき上がり
視ることの中で光とひとつになる。

その時、自我の殻をやぶって
思考が遠く宇宙の果てにまで流れ
暗く不確かに人間本性を
霊の存在に結びつける
      (Rudolf Steiner 高橋 巌訳)
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復活祭の気分

先日、前ローマ法王ベネディクト16世の引退宣言に伴い

バチカンの枢機卿たちは、新たにフランシスコ新法王を

選出した。

法王という立場は、

死んで初めて苦渋に満ちた現世の十字架から降りられるのであって、

自ら退位するのは違法だという枢機卿の意見もあったようだが、

シュタイナーの言う公教的キリスト教に働いている

「時の霊」は今回のことをどのように、

ご覧になっているのかと気になるところである。

新ローマ法王に選ばれたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、

法王名として 「フランシスコ1世」を名乗った。

この名前は、13世紀にイタリアで活躍し、

修道会「フランシスコ会」を創設した

アッシジのフランチェスコ(1182年頃〜1226年)

にあやかったものと見られている。

フランチェスコはイタリア中部アッシジの裕福な

商人の家庭に生まれた。

騎士になろうと戦いに参加して捕虜になったり、

重い病にかかったりという経験を経て、

信仰に目覚め、着ていたものも捨て、

聖書に書かれたイエス・キリストの生き方を実践した。

私も若き頃『ブラザー・サン シスター・ムーン』という

彼の生涯を描いた映画を見て感動し、

彼のような生き方をしたいとあこがれた。

フランチェスコが活動を始めたのは、

ローマ法王インノチェンチオ3世(在位1198〜1216年)の時代で、

法王は、神聖ローマ帝国を意のままに操り

ヨーロッパの国王に命令を下すなど、

世俗の領域でも絶対的な権力を握っていた。

これに対してフランチェスコの活動は、

清貧を追求しキリスト教の原点に戻ろうという改革運動だった。

新法王が「フランシスコ」の名を選んだのは、

神父による児童への性的虐待や

ローマ法王庁内の権力闘争などの

スキャンダルに揺れるカトリック教会に、

「基本へ戻ろう」と呼びかける狙いがあるものと見られている。

 新法王はアルゼンチンのイタリア系の移民の家庭に生まれ、

後にイエズス会に入会した。

そして、今回、新法王は、栄耀栄華を捨てて清貧な生活に

徹したフランシスコ的生き方を希求し、

「貧しい人々のための教会」を提唱した。

まさに「時の霊」が求めていることであろう。


さて、復活祭を決めるカレンダーからみると

昨日(3/28)は、イエス・キリストが

十字架にかけられる前日に弟子たちと

「最後の晩餐」を持ったことを記念する日である。

キリストは、自ら弟子たちの足を洗い、

弟子たちに足を洗うことで、生き方の模範を示した。
(ヨハネによる福音書第13章)

植物が大地から進化したように

キリストは12弟子から進化してきた。

彼は弟子の前に身をかがめて言う。

「あなたのおかげで私は生きていける」と。

そして、喜んで弟子の足を洗った。

私たちも大地に身をかがめて言おう。

「あなたのおかげで私はいきていける」と。

植物の前に身をかがめて叫ぼう。

「あなたのおかげで私はいきていける」と。

家族、知人、出会う全ての人に身をかがめてつぶやこう。

「あなたのおかげで私はいきてゆける」と。

さて、今日(3/29)がキリストが十字架にかかった日である。

そして、31日が復活祭である。

この期間は特別な思いをして過ごしたい。

魂のこよみ(人智学)では、1年は復活祭(イースター)から始まる。

今年は3月31日(日)の朝、太陽が昇るとき、

人智学でいう新しい年の幕が開けるのである。

復活祭はキリスト教の典礼暦における

最も重要な祝い日である。

十字架にかけられて死んだイエス・キリストが

三日目によみがえったことを記念する日である。

そして、今日3月29日(金)は聖なる金曜日(Venerdi Santo)と呼ばれ、

ローマ人に逮捕されたキリストが

十字架につけられ死んだ日となっており、

3月29日から三日間様々な宗教行事が行われる。

復活祭は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるが、

なぜ、日曜日かというと、イエス・キリストが

復活したのが日曜日であったからである。

記録によると少なくとも500人以上の人が復活後の

イエス・キリストに会っている。

「ゴルゴタの秘蹟」とは、キリスト・イエスの死と復活である。

キリスト・イエスが復活したことが記されている

『ルカによる福音書』の24章の1節〜8節を引用してみよう。

「週の初めの日の明け方早く、

女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

見ると、石が墓からわきにころがしてあった。

はいって見ると、主イエスのからだはなかった。

そのため女たちが途方にくれていると、

見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。

恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。

『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。

まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、

十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、

と言われたでしょう。』

女たちはイエスのみことばを思い出した。」
 (『ルカによる福音書』24章1節〜8節より)

シュタイナーは、『天使と人間』(松浦賢訳 イザラ書房)で次のように語っている。

「復活祭の時期は天界の事象によって決定されます。

復活祭の日曜日は、春分の日の後の最初の満月に続く

日曜日に定められることになっています。

クリスマスの時期が地球の状況によって決められるのに対して、

復活祭の日は天界によって決定されるのです。

というのも『地球のクリスマスの変化を経験することによって、

私達が地球の状況と、

つまり大いなる宇宙的かつ霊的状況結びついている』

ということも真実だからです。

実際の一年の経過の中に位置づけてみると、

復活祭は、クリスマスの時期にキリストとの出会いによって

私たちの中に呼び起こされたものが、

再び私たちの中の物質的な地球上の人間と

正しく結びつく時期であることがわかります。

そして、更に復活祭の時期には、聖金曜日の大いなる秘儀が、

ゴルゴタの秘儀を人間の前にありありと甦らせてくれます。

聖金曜日の秘儀はとりわけ次のような意味を持っています。

即ち、私たちの傍らへとやってくるキリストは、

聖金曜日の頃、最も私たちに近づくのです。

大まかに言えば、キリストは私たちの中に溶け込み、浸透し、

ゴルゴタの秘儀以後の今の時代では、

夏としてやってくる時期に私たちのもとに留まることができます。」
(『天使と人間』より)

この部分を読むと、今週がいかに大切な週かがわかる。

そして、人智学では、1年は復活祭(イースター)

から始まることの深い意味が理解できるような気がする。

「私たちの中に溶け込み.浸透し、夏としてやってくる時期に

私たちのもとに留まるキリスト」とは、

エーテル界に再臨しているキリスト、

エーテル化したキリストのことであろう。

『シュタイナー用語辞典』にあるように

「イエスの死後イエスの身体は塵となり、地震によって地中に落ち、

キリストの神霊は肉眼に見えるまでに凝固したエーテル体をまとったのである。

人体を溶解する原罪を通して失われた力が、地球進化の終末に再び得られ、

人体は本当の物質的形態で現れるのである。」

では、キリストの復活とキリストの使命についてシュタイナーの言葉を

考察してみたい。

「ヨハネ福音書によれば、キリストとは、人間が個別的な自我の中で、

みずからを永遠に感じることができるように、

そのために必要な衝動を人間に与えようとする偉大な教師のことなのだ。

古代の秘儀を通して霊界を知っていたのは、個々の人々だけであったが、

その人びとの中には、何が生きていたのか。

『人間における永遠なるもの』が生きていた。

永遠なる存在が、全く意識的な仕方で、その人びとの中に生きていた。

その人々は偉大な言葉『私と父は一つである』をすでに感じ取っていた。

つまり自我と偉大な宇宙根拠がひとつだと感じていた。

その人々は父母の意志からでもなく『神から』つまり霊界から得ていた。

光をうけとった人だけは神の子になることができた。

全ての人が地上の感覚で、そこにいます神を認めることができるためには、

肉眼でその姿を見ることができるように、

神が地上に出現しなければならなかった。

『言葉は肉になった』のだ。

人々はまだ個別者であるとは感じていなかったので、

内部に愛をまだ十分生かすことができなかった。

血の結びつきがあったからこそ、相手を愛した。

血の結びつきが全ての愛の基礎だった。

この集合魂の愛から、今、人々は自由にならねばならない。

・・・中略・・・・

そして、愛を自我の自由な贈り物として捧げなければならない。

地球記の進化の終わりには、独立した自我が心のそこから、

帰依の衝動に突き動かされて、正しいこと、善きことを行おうとする。

愛が霊化されて、誰もが正しいことだけを行おうと欲するようになるとき、

イエス・キリストがこの世にもたらそうとしたことが成就される。

なぜなら、キリスト教の秘密の一つは、次の教えにあるからです。

−『キリストを見よ。その姿からあふれる力で、自らを満たせ。

彼のようになろうとせよ。彼の後に従おうとせよ。

そうすれば、もはや掟を必要とはしないで、

心の底から自由となった自我が善きこと、正しいことを行うであろう』。

キリストは自由の衝動の贈り主なのである。

ですから、善きことが、掟の故にではなく、

心の内に生きる愛の衝動となって、

行われるようになる。

独立した自我を持つまでに成熟していなかった時の人間は、

集団の一分肢として存在していた。

そして公の掟によって、社会的に規制されていた。

今日でも人々は、まだあらゆる点で、集合自我から抜け出せないでいる。

今日の人間はなんと多くの点で、個的人間ではなく、

集合的存在で在り続けていることでしょう。

秘儀の学堂において、『故郷喪失者』と呼ばれる、自由なる存在になることは、

今日ではまだ理想でしかない。

『なぜなら、掟はモーセによって与えられた。

しかし恩寵はキリストによって与えられる』

キリスト教での恩寵とは、内面から善を行う魂の能力のことである。

純粋な血の愛から霊的な愛への移行を、目に見える形で表したのが、

パレスチナにおける出来事の意味なのだ。

『私の時代がくるであろう。そこでは、もはや血の結びつきによらず、

独立した一人ひとりによって、最も重要な諸行為がなされる。

その時代が今こなければならない』

・・・中略・・・

キリストの使命は、自我のまったき力、

その内的な独立性を人間の魂の中にもたらすことであった。

一人ひとりの自我が独立して、完全な自己存在の中でみずからを感じながら、

自由なる愛の力を通して、人間が人間と結ばれ合うのでなければならない。」
( 『ヨハネ福音書講義』(高橋 巌訳)春秋社より)

「あなた方の誰でも、個別自我なのだ。

そしてこの個別自我は宇宙を貫いて流れる霊的な父と直接一つに結ばれている。

このことを感じなければならない。」

このように感じられる感性を獲得しなければならない。

そしてこのように実感できる意識魂を成長させるのが現代の時代的使命なのである。

「楽しみの多くをおまえは人生に感謝できよう。

しかしおまえが霊的認識を獲得できたのは、おまえの苦悩のおかげである。

おまえが苦悩のあまり破滅することなく、

そこから自分を引き上げる力が持てたおかげである。」

とあるように

「私たちの中に溶け込み.浸透し、夏としてやってくる時期に

私たちのもとに留まるキリスト」を見出すには、

苦悩のあまり破滅することなく、

苦悩を通して自分を引き上げる力を身につけなければならない。

それによりキリストに近づけるのである。

そして、これこそが永遠に私が所有できる宝物なのである。

その宝物こそ『私である』と言えるものである。

「その時イエスは弟子に向かい、次のように言われた。

『私である』と自らに対して言うことのできるものこそが、世の光の力なのだ。」

3月29日(金)の聖金曜日(キリスト受難日)、

3月31日(日)の復活祭が「魂のこよみ」にあるように

「その時、自我の殻をやぶって
思考が遠く宇宙の果てにまで流れ
暗く不確かに人間本性を
霊の存在に結びつける」

ような、皆様にとって素晴らしい日となりますように・・・

コメント(2)

あめじすとさん

復活祭おめでとうございます。

復活されたキリスト・イエスの光に照らされ、

限りない恵みがありますように心よりお祈りいたします。




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