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シュタイナー的生活を楽しむコミュの第30週 思考にひそむ力

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10/27〜11/3

 魂の陽光の中で
 思考の熟した果実が実る。

 すべての感情が
 自己意識の確かさを受けとる。

 喜びにみちて、私は秋の霊性の
 目覚めを感知する。

 冬は私の中に
 魂の夏をよびさますであろう。
    (Rudolf Steiner  高橋 巌訳)

……………………………

今『黙示録の秘密』と並行して

『悪について』(高橋巌訳 春秋社)を読んでいる。

並行して読むと関連性があって、

より理解が深まっていくように思う。

『悪について』であるが、

最近読んだところでとても心に響いた部分を、

まず引用しておきたい。

「では一体、人間の内面の鏡の奥には何が見えるのでしょうか。

そこでは、思考内容がエーテル体の中で

働いている姿が見えるのですが、

そのエーテル体は、

途方もないエネルギーをもって働いてます。

例えば、私たちが明るい日差しを受けた部屋に入ると、

明るさが私たちの内面に光を投げかけ、

そこで記憶となって残ります。

けれどもそれだけではなく、

記憶の鏡を通り抜けて、

養分を摂取したり、

成長を促したりするエーテル体に働きかけ、

さらに肉体にも働きかけるのです。

記憶内容、思考内容の力が、

エーテル体にまで浸透しますと、

この力に浸透されたエーテル体は、

特別のやり方で肉体に働きかけ、

肉体の中の物質成分に大きな変化を生じさせているのです。

物質は、外界では決して完全に破壊されることがありません。

ですから近代の哲学も自然科学も、

質量保存の法則について語るのです。

しかし質量保存の法則は、

外界においてしか有効ではありません。

物質は、人間の内面においては、

完全に無の中に戻されてしまい、

物質の本質が完全に破壊されてしまうのです。

人間のエーテル体は、

記憶が映し出されるところよりも内面のもっと深いところで、

物質をカオスに帰し、

物質を完全に破壊することができるのです。

内面の、記憶の鏡の奥のところに、

私たちはエーテル体の途方もない破壊力を

担っています。

もしもこの力を担っていなかったなら、

私たちは思考力を発達させることができなかったでしょう。

思考力は、エーテル体のこの破壊力と結びつかなければ、

発達できないのです。

そして、思考の力と結びついたエーテル体は、

肉体に作用を及ぼし、

肉体の物質素材をカオス化し、破壊するのです。

何かを思い出そうとするときと同じ態度で、

内面に深く沈潜していくと、

存在するものを破壊し、

消し去ろうとする力の働いている領分に到ります。

私たちは誰でも、

まさに思考する自我を発達させるために

物質を破壊し、融解しようとする猛火を

記憶の鏡の奥に担っているのです。

そして、この人間の内なる事実を

真剣に顧慮しないような自己認識など

存在しないのです。

人間の内面のこの「破壊のかまど」に出会ったとき、

私たちは精神の発達とは何なのか、

あらためて考えざるをえません。

精神があるべきように存在するためには、

私たちの内面において、

物質を破壊する行為が並行して行われなければならないのです。

・・・中略・・・

西洋文明の中で生きている人は、

自分の内部に破壊のかまどを担っているのです。

そして私たちが破壊のかまどであることを自覚できたとき

はじめて、西洋文明の下降する力を、

上昇する力に変えることができるのです。」(『悪について』p58~61)

西洋文明史を見てもわかるように、

「破壊のかまど」によって

思考力が発達し「個の確立」が成されてきたのである。

思考が独自に働くようになるには、

内面の鏡の奥にある破壊力が必要なのである。

その破壊力にはアーリマンも関わっているように思う。

こうしたことにより人々は、

霊的なものが暗くなり見霊能力を失って、

物質的なものに重きを持つようになった。

それゆえに現在こそ西洋文明の下降する力を

上昇する力に変えるべき時代なのである。

この内容を理解した上で

ポスト・アトランティス時代の時代の流れを読むと

良く理解できるように思う。

私たちは現在、第五文化期の中の物質文明、

西洋文明の中で生きている。

そしてイエス・キリストは、第四文化期に出現した。

では、なぜ第四文化期でなければならなかったのか考察してみたい。

ポスト・アトランティス時代の第四文化期である

ギリシア・ラテン文化期(B.C747 ~A.D1413 )が始まる以前、

第三文化期であるバビロニア・カルデア・エジプト文化期(B.C2907~747 )

の中から秘密に包まれた支流であるかのように、

キリスト教の地盤を用意する民族とその伝統とが現れた。

すでに述べたように、第四文化期において、

人間はみずからの霊性、自らの自我を客観化して、

世界の中に定立するところまで来た。

次第に物質の中にみずからの精神、

みずからの自我を浸透させていくのである。

古代ギリシアの彫刻家、戯曲作者たちは、

みずからの魂を具象化して、人々の魂の前に提示した。

さらにローマ期になると、

たとえ面倒な法律学がその本質を覆い隠しているとしても、

人間の尊厳を外なる世界の前に「法」として具体化してみせた。

人間を法の主体であるとする、

本来の「法」が、第四文化期になって初めて可能となった。

人間はみずからを本来の市民(公民)であると感じるまでに到った。

そのようにして、みずからの人格を意識化するようになった。

まだ古代ギリシアにおける個人は、

自分のことを都市国家全体の一分肢であると感じていた。

一個人の人間であることよりも、

アテネ人であることの方が重要であった。

〈私はアテネ人だ〉というのと「私はローマ人だ」というのとでは、

意味が全く違う。

「私はローマ人だ」というときには、

個人として一個の公民としての存在価値を持ち、

独自の意志を持っていることを示唆している。

イエス・キリストが出現するにはこのような、

「一個の独自の意志」をもった人間が必要であった。

「個の確立」がなければ、

真の自由を人間は獲得できないからである。

このようにして、

人間はますます物質にみずからの霊を浸透させた。

時代が下るにしたがって、

その傾向はますます顕著になった。

第四文化期の人々は、

自分の精神を残りなく物質の中に具現しようとした。

霊学の意味での後アトランティス第四期は、

人間と周囲の環境世界とが完全に一致していた時代のことなのである。

人間が外的現実と完全に調和していたこの時代でなければ、

神的存在がひとりの個人の中に現れることは理解できなかったであろう。

神的存在が人間の形姿をとって現れるとはとても思えず、

神とはもっとはるかに崇高な存在であるはずだ、

と思ったであろう。

だからむしろ、神的存在に物質形姿をとらせまいとしたのである。

だから、「あなたは」、いかなる像も造ってはならない」(出エジプト記)のである。

神の理念を、霊的な形姿の中で理解すべき民族には、

そのように命じなければならなかった。

この民族は、この言葉の意味する立場に従って、進化を遂げた。

そしてキリストの理念、

つまり霊的存在が肉となって現れる、という理念を育てた。

ここにこの民族の使命があった。

この意味で、キリストの出来事は、

後アトランティス第四期に生じなければならなかった。

当時の意識に直接対応した語り方をしている。

キリスト教は、物質の中に陥った人々の下でのみ生じることができた。

ここで、ゲーテの『西東詩集』の一節について、

シュタイナーが語っている部分を引用したい。

「しかし、大切なのは、才気ばしった解釈をすることではなく、

宗教聖典のなかに書かれている真実を認識することです。

『文字は殺し、霊は生かす』

という言葉は、つぎのようなゲ−テの『西東詩集』の

一節とおなじような神秘的な意味を持っています。


−『死して、成れ』を体験しないかぎり

おまえは暗い地上の陰鬱な客にすぎない。(ゲーテ)−


この言葉は、『だれかを高次の認識に導こうとするなら、

その人を殺さねばならない』という

意味ではありません。

『人間は物質界の文化をとおって、

霊的なものに高まらねばならない』

という意味です。

そのように、文字も霊の体なのです。

まず、その文字を読んで、理解しなければなりません。

そのあとで、文字から霊を見出すことができるのです。

そのとき、概念的な文字は死に、

その文字から霊が復活するのです。

この言葉は、宗教聖典に書かれていることがらに対して、

任意に空想的な解釈をほどこすのを

勧めているのではありません。」(「黙示録の秘密」p112)

このようにして、

人智学的世界観をとおして

はじめて宗教聖典等を真に正しく感じ、

理解できるようになるとシュタイナーは語っている。

人間は物質界の文化をとおって、

霊的なものに高まらねばならないというのである。

以下これらの内容に関連する部分を

『黙示録の秘密』から引用しておきたい。

「アトランティス時代を通じて、

人間は徐々に今日のような状況へと移ってきました。

エーテル体が肉体のなかに入っていくにつれて、

意識は物質界へと下ってきました。

アトランティス時代の三分の二が過ぎ去った時点で、

エーテル体が肉体のなかに入ってきました。

それ以前は、人間は霊的な世界にあって

地上を監視していると感じていました。

しかし、そのような状態では、

人間はみずからを「私」ということはできませんでした。

人間はまだ自己意識を持っていなかったのです。

肉体とエーテル体から抜け出て、

明るい夜のなかに入っていくと、

人間は自分を彼方の霊性の一員と感じ、

かつての集合魂のなかに入っていくと感じました。

夜になると自分の周囲が明るくなるのを感じましたが、

自分を独立した存在とは感じませんでした。

私の指は私の自我に属しています。

おなじように、その当時の人間は、

集合魂に属していると感じていました。

その集合魂は、霊視的に見れば、

ヨハネ黙示録に書かれた、獅子、牛、鷲、人間の、四つ

の頭のなかにも見られます。

これらの集合魂のどれかに属している、

と当時の人間は感じていました。

体という殻のなかに入ったときにはじめて、

何か自分自身のものを有していると感じました。

人間が独立した人間になったということは、

人間が自分の体のなかに入り込むことが

できたということです。

もちろん、自分の体のなかに入り込んだことによって、

霊的世界が徐々に暗くなり、

まったく遠ざかってしまったという代償を払わねばなりませんでした。

そのかわり、肉体のなかに入ったとき、

下方に見た世界は明るく、

明瞭なものになりました。

それとともに、自分は一個の自我であり、

自分はみずからのなかに

一個の自己意識を担っているということが、

徐々に明らかになってきました。

自分のことを「私」ということを学んだのです。

当時起こっていたことを叙述しようとするなら、

体という殻から出て、

霊的世界に入っていく人間を考えねばなりません。

霊的世界で、

人間は霊的・神的諸存在のもとにいるのです。

そこで、自分が何者であるかを教える名前が、外から響いてきます。

ある集団には、

その集団にとって原言語であった言葉が響いてきます。

ほかの集団には、その集団の原言語が響いてきます。

人間は内面から自分の名前を付けることはできませんでした。

人間は外から響いてくる自分の名前を受け取らねばなりませんでした。

人間は体という殻から出たとき、

自分が何であるかを知ったのです。

いまや、人間は自分の体のなかにあって、

物質的周囲を知覚することを学び、

自分を自我と感じることを学び、

かつては外から響いてきた神的な力をみずからのなかに

感じることを学びました。

人間は神を自分のなかに感じることを学んだのです。

この神は人間にもっとも近い存在であり、

同時に、みずからの自我を示唆する存在でした。

この、ヤハウェと名づけられた神は自我の導き手でした。

人間はまず、

この神のカが自分の自我のなかに現われるのを感じました。

こうして、外部のさまざまな出来事は結びつけられました。

・・・中略・・・

その当時、人間は霊的に暗くなることを代償として、

自己意識を獲得したのです。

こうして人間は集合魂の明るさから抜け出たのです。

しかし、それは個体性の最初の曙にすぎません。

人間が真に個体性を獲得するには、

非常に長い時間が必要でした。

アトランティス時代の終わりに洪水が起こり、

アトランティス時代は終わりを告げました。

ポスト・アトランティス時代が始まり、

古インド文化期が去っていきました。

自己意識は、まだ花開いてはいませんでした。

ペルシア文化期になり、そして、エジプト・カルデア文化期になりました。

人間はだんだん自己意識を自分のなかで発展させていきました。

そして、第四文化期になりました。

第四文化期に非常に重要なことが起こりました。

それ以前の時代に起こったことは、

準備にすぎなかったのです。

地球を遠く離れた星にいて、

そこから地球を霊眼で見たと考えてみましょう。

そうすると、

地球は人間とおなじく、物質体、

エーテル体、アストラル体を持っているのが見えます。

地球はオ−ラを持っています。

遠い星から、地球のオ−ラの発展を見ていたとしてみましょう。

球がさまざまな色彩に包まれているのが見えます。

中心に物質的な核があり、その周囲に、

さまざまな色と形でオ−ラが漂っています。

地球の霊的な大気のなかに、さまざまな形姿が見られます。

何千年という時の流れのなかで、

その色と形はさまざまに変化していきました。

そして、ある重要な時期がやってきて、

地球のオ−ラはいままでとはまったく違った形態と色彩を

とるようになりました。

外から見ると、地球は新しい光のなかに現われました。

その変化は非常な速さで遂行されました。

「この瞬間、根本的な変化が地球に起こった。

地球のオ−ラは完全に変化した」と、いうべきものでした。

その瞬間とは、いつのことだったのでしょうか。

ゴルゴタの丘に救世主の傷口から血が流されたときです。

この瞬間は、地球進化全体にとって、もっとも重要な瞬間でした。

救世主の傷口から血が流れた瞬間、

地球のオ−ラは一新したのです。

それまで準備されてきたことすべてに、

地球進化にとってもっとも重要な衝動である、

新しい力が入ってきたのです。

化学者にとっては、ゴルゴタの丘で流されたキリストの血は、

ほかの血と異なるものではありません。

しかし、この血は本当はほかの血とは、

まったくべつのものなのです。

血が地表に流れ、

血に相当する霊(精神)が地球のオ−ラを、

未来の人類進化に意味のある新しい力で満たしたのです。

そこから、地球を変化させる力が人間を貫いて輝いたのです。

その瞬間に流れ込んだもののごく一部だけが、

今日までに実現されました。

その瞬間に地球がどのようなものになったのかを、人間は徐々に学び、

いま述べたような仕方でアトランティス時代以来獲得してきた意識のなかで、

人間はどのようなものになりうるかを理解するようになります。

アトランティス時代以後、

人間は何を獲得したのでしょうか。

自我意識と、外界を見る能力です。

かつては人間に開かれていた霊的世界は、閉じられました。

・・・中略・・・

この霊的世界への門は閉じられました。

そのかわりに、人間は今日の周囲の世界を得たのです。

霊的存在たちは人間から去っていきました。

かつて見ることができたものすべてが消え去ったのです。

かつては、肉体という殻から抜け出たとき、

神的なものを目にしました。

いまや、人間は体のなかに神的な

ものが現われるのを見なければなりません。

人間の意識が物質的な観照に規定されたために、

神的なものを体的・可視的な形姿で

受け入れねばならなくなったのです。

そのために、

神的なものが体的・物質的形姿を取らねばならなくなりました。

神的なものが、時代の進化のなかで、

肉体をまとった姿で現われたのです。

人間の知覚がこのような段階にまで進んだので、

神的なものはそのように出現しなければならなかったのです。

物質的に知覚することによって、

人間は神的なものを理解したのです。

かつてさまざまな進化の段階で生じた現象のすべてが、

地球進化の最大の出来事のなかに集約されねばなりませんでした。

その出来事が、黙示録のなかで

明らかにされる未来に光を投げかけるのです。

物質的に見れば、血の滴が地球に流れたという

出来事、霊視的に見れば、

地球のオ−ラが変化したという出来事です。

そのときに流れ込んだ力は、

地球とともにずっと未来にまで作用します。

このように、地球の魂、

地球の霊は新たなものを植え付けられたのです。

キリスト原則が地球に結びつき、

地球はキリスト原則の体になったのです。

ですから、「私のパンを食べる者が、私を足で踏む」という言葉は、

その言葉のとおりに、本当なのです。

地の糧を食べるということは、

地球の体を食べるということです。

地球の体とは、ゴルゴタの秘跡以来キリストの霊として地球に結びついた、

地球の霊の体です。

そして、人間はこの地球の体の上を歩み、

この体を足で踏むのです。

「私のパンを食べる者が、 私を足で踏む」ということを

本当に理解するためには、すべてをその言葉のとおりに

理解しなければなりません。

自分が霊視して知っていることすべてが、

地球進化の最大の出来事を理解するように

ヨハネ福音書の筆者を促したのです。

「私が霊視的に学びえたことを、

キリストの形姿と働きを理解するために用いなければならない」と、彼は思います。

黙示録の筆者は、神秘学のすべてを

ゴルゴタの秘跡を解き明かすために役立てようとしました。

神秘学から学んだことのなかに、

ゴルゴタの秘跡を理解するのに

役立つ叡智を見る以外のことを彼は望みませんでした。

ゴルゴタの秘跡を、

黙示録の筆者は壮大なイメージで

私たちの魂のまえに据えたのです。」(『黙示録の秘密』(p115~121)

コメント(15)

お久しぶりです!
夏にバンクーバーに引っ越して以来、新しい環境の中でめまぐるしい日々を送っています。今就活中ですが、その就活セミナーで隣り合わせた人がバンクーバーの人智学を学んでいるグループの方でした。落ち着いたら、そのグループにも顔を出してみようかと考えています。世間は狭い。

naoさんのお話はとても刺激的で
日常に埋もれている一コマに人智学の光を当てるきっかけを作ってくれます。
先日、13歳の息子が何気なく、
「ちょっと前まではマウンテンバイクで危なそうな急カーブの坂道も怖さ知らずで走り抜けられたのに、最近は「ここで転んだらどうなちゃうんだろう?」っていう考えが、
一瞬頭にに過りスピードを殺してしまう。」と、
「あら、とうとう知恵のリンゴをかじってしまったのね♪」と
得意げにその先を続けようとしたのを遮られてしまいましたが、
正に、これから14歳の第三/七年期に入る準備として、

「いまや、人間は自分の体のなかにあって、物質的周囲を知覚することを学び、
自分を自我と感じることを学び、かつては外から響いてきた神的な力をみずからのなかに
感じることを学びました。人間は神を自分のなかに感じることを学んだのです。」
ということを彼は魂レベルで体験している最中のだろうと思いました。

まだ感情ベースの思考の段階の13歳ですが、
「この霊的世界への門は閉じられました。そのかわりに、
人間は今日の周囲の世界を得たのです。
霊的存在たちは人間から去っていきました。
かつて見ることができたものすべてが消え去ったのです。
かつては、肉体という殻から抜け出たとき、神的なものを目にしました。
いまや、人間は体のなかに神的なものが現われるのを見なければなりません。 」

というのが、
14歳以降の思春期の子供たちの内面で本当に起こっている内的現実の真実なんだろうと気づきます。その結果が、様々な見える形での行動に現れ出るのでしょう。
心も、体も、地球の重力の歓迎を受けるんですね。重そうに歩くはずです。

思春期突入の子供たちを通して新たな学びを得て、小さかった時とは別な面白さを楽しませてもらっています。ただ、世間では彼らの行動を一括りに「ティーンエイジャー」というレッテルを貼り、彼らの主張に聞く耳を貸さない大人が多い事が残念に思います。自我意識が育ちません。

彼らはやっと、アトランティス時代以降の現代に追いついただけだというのに。
子供たちと一緒に「自我意識と、外界を見る能力」を磨いていきたいですね。

いつも、本当にありがとうございます。
あやわさん

まさに14歳の息子をもつ母としては、とても気になるコメントを読ませていただきました。
ほとんど口をきかない息子の
中では何が起こっているのやら。

最近はあまり怒らないのですが、
以前は感情をぶつけていたなぁと
反省したりしています。

もうちょっと彼のことをわかってあげたいな…
あめじすとさん
いつもコメントありがとうございます。
あやわさん
コメントをとても嬉しく思います。

本当にお久しぶりです!!
バンクーバーに引っ越しをされたのですね。

この秋『黙示録の秘密』を読みながら

「壮大な宇宙の歴史」と「子どもの教育」

の相互関連性について思いをめぐらしていた時だけに

とっても興味深く読ませていただきました。

今後もコメントを楽しみにしています。
ありがとうございました。
なでさん
コメントありがとうございます。

14歳というのは、
本当に難しい年頃ですね。
暖かい愛情で見守ってあげたいですね。
ありがとうございました。
>>[3]
難しい年頃ですよね。
それだけ、彼ら自身も様々な事を難しく感じているんだと思います。

御節介ながら、ちょっとシェアさせてください。もし、参考になれば幸いです。
naoさん、脱線しますが許してください。人智学的アプローチにも近いと思いっています。
結構こちらのシュタイナー学校でそこはかとなく流行っています。

最近、非暴力コミュニケーション(NVC)というのを実践し始めたのですが、
結構役立ちます。
(詳しくは、ネットで検索してくださいね。本も出ていますよ!)

簡単に言うと、
「子供に対して」どうしてあげたらいいか、ではなく、
 「まず自分へ」何が起こっているのか、自分の感情へ意識を向けるんです。

例えば、子供と向き合って難しさを感じている時とか、
 今自分はどんな感情を抱いているのか? ー怒り、悲しさ、歯痒さ、無力感、不安、イライラ、停滞感、いろいろ上がって来ると思います。自分の感情を分析せず、ただ観察して意識します。
こうだから、こう!と分析ではなく、こんな風に感じているんだなーって。
 そして、その感情を満たす為に必要なことは何か? ー(どうしたらいいか判らないから)サポート、(相手が見えないから)明晰さ、(相手を遠く感じているから)親密さ、信頼、暖かさ、(自分の方向性とか、子育てが迷路の中を空回りしているみたいだから)自信、自分への信頼、自分へのケアと愛情、(いろいろがんばっているのにー)つながり、感謝の態度を示してもらいたい、
といった具合に、自分でも自分が何を欲しているのか以外と意識しないものでありながら、
実は、この無意識の要求を満たす為に、これまた無意識に行動しているものです。でも、ターゲットがブレていますから、中々的を得るのは難しい。

そこを伝えずに、相手から自分でも判っていない何かを満たしてもらうのは難しい。
 故に、文句ではなく、満たしてもらいたい事の方を伝えるんです。慣れが必要ですが、面白い体験が得られますよ。

そして、自分の要求を満たす為のリクエスト自体を相手に伝えるんです。でも、リクエストですから、相手は断る権利があります。断られたら別のリクエストをします。でも、自分が何を満たしたいか判っていると、以外と、相手を攻める文句や小言から「伝えたい」という態度に変わるんです。互いの理解が発生したりして交渉モードになって、コミュニケーションが生まれたりするんです。

うまく行かない時は、どこか相手の罪悪感を利用しようとしてる時だったりとか、相手の断る権利を尊重していなかったりするので注意です。
そして、2次効果としては、実は相手も自分と同じ事を必要としている事に気づいたりして、相手を近く感じたり、つながりが生まれたりします。

いかがですか!?
相手を変えるのは難しいけど、自分の変化は相手にも伝染しますから。私たちはお互いの鏡ですし、子供たちは長年親の模倣を無意識にしてきただけあって、良い意味でも悪い意味でも感染力も強いですよ。(笑)
あやわさん、こんにちは。花と申します。うちにも14歳の子がいます。うちはそんなにコミュミケーションには困っていないのですが、

上記、具体的に言うともっとどんな感じなのでしょうか。

アサーティブトレーニングみたいな感じなのでしょうか。

日本に暮らしていると、あいての受信力が大きいのに甘んじて、
相手にはっきりモノを伝える努力というのがどうしても甘くなる感じがしています。
あやわさん
ありがとうございます。早速NVCをぐぐったら、いろんなところでツボにはまってしまって、ネットサーフィンをしてしまいました。
朗読や教育や癒し…そしてレイキまでも
今日、従姉妹と話していた
まさにそのテーマでした。(従姉妹は新朗読というのを発案した、私から見ればサイキックな魅力的で素敵な女性です)

naoさんには申し訳ないくらい脱線してしまうので、コメントはここまでに致します。
私も「第5福音書」を一生をかけて読むように
というご縁をいただいて、シュタイナーを勉強実践中ですが、
今回のあやわさんのコメントは
とても役に立ちそうなわくわく感を感じました。
ちょっとどきどきしています。

ありがとうございます。
あやわさん、詳しくは自分で、とのことでしたね。脱線すみませんでした。

naoさん、失礼したしました。
>あやわさん
>なでさん

あやわさん,とっても興味深い内容ですね。
私も、シュタイナーに出会う前、
「親業」や「ステップ」など様々な
勉強会にでかけて、
子どもとのコミュニケーションについて学びましたが
さらに奥の深い
人智学に近い内容のようにコメントを読んで感じました。

私が学んだ「ステップ」では、「Iメッセージ」に近い内容に思いましたが、
それより深めて
親や家庭環境、地域社会から子ども達は強く
伝染していくということを強く意識するということでしょうか。

私の思いである「霊の世界」は
個人や集団の雰囲気全体の中で伝染して
いくことを改めて感じました。


皆様のコメントは、
今、それぞれの立場で
ひらめいたり感じたことだと思いますので、

トピックの内容から「脱線」しても全く気になさらず、

ぜひ、感じたことをシェアしていただけると、とても嬉しく思います。

特に子育てに関する具体的な内容には、

とても共感を感じるとともに

触発されています。

ありがとうございました。
なでさん、花さん、naoさん、
コメントありがとうございました。

本「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法」のレビューを載せました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=2539089&id=1879237663
超おすすめです。ぜひ、読んでみてください。

人智学では、やはり自分からという視点を大事にしていると思います。
そして、自分や人との「共感」を通して、自分や相手の自由を尊重しつつ意識魂を育てる。そこには、貢献し合う喜びが流れているんだと思います。
NVCは、「人間は自由である。」という自由の哲学にうたわれていることを、
コミュニケーションの立場で「意識して」実践する方法を提供していると思います。
魂の世界に戻った時、全ての暴力が清算されなければなりません。
NVC的コミュニケーションを心がける事が、魂の成長やカルマも助ける可能性を秘めていると感じています。

人智学は、頭の中の学問ではなく、人生を通して実践されるべき指針であると思っているので、
NVCを実際に自分が体験してどんな感じなのか楽しんでみると面白いと思います。
ありがとうございます。NVC読んでみようと思います。

あやわさん、ありがとうございます。

自分でコメントを書いたあとすぐ本を注文しまして、昨日来ました。

わたくし、最近、Aさんはあるものを天国のようだといい、Bさんは同じものを地獄のようだという間にたって、傾聴を実践する機会を得ました。

その結果、よく言われていることではありますが、やはり秘技参入の修行というのはどこかへリトリートなどしてするものではなく、日常の中に転がっているのだという実感を得ました。

また違う見方から経験を深めていけることに感謝します。ありがとうございます。

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