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シュタイナー的生活を楽しむコミュの「自由の哲学」と「善きサマリア人のたとえ」 22週

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9/6〜9/12

遠い宇宙からの光が
私の内部で力強く生き続ける。

それは魂の光となり
霊の深みに輝く。

そしてその深みに眠る人間自我を
宇宙自我から目覚めさせ
その成熟をうながす。
(R.シュタイナー 高橋 巌訳)
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  「私にとっての『自由の哲学』(2)」(私の個人的解釈です)
〜アガペーとエロース 「善きサマリア人のたとえ」〜


『自由の哲学』第一章では、「人間の意識的行為」ということが書かれていて、

「自由」な行為のための意識的なあり方には、「思考」が大切であることが書かれている。

少し長くなるが、とても感銘を受けた部分なので引用したい。

「どんな行為も、その行為者がなぜそうするのかを自覚していなければ、

自由な行為にはなり得ない。

それはまったく自明のことである。

それでは一体、理由がよく分かっている行為と

分かっていない行為との間にはどんな違いがあるのか。

このことを知ろうと思うなら、思考の根源とその意味について、

あらためて問わねばならない。

なぜならわれわれの魂の働きである思考活動を認識することなしには、

何かについて知るということ、それゆえ行為を自覚するということの意味を、

理解するのは不可能だからである。

思考が一般に何を意味するのかを認識するとき、

人間の行為にとってどんな役割を演じるのかも明らかになるであろう。

『動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである』

とヘーゲルも述べているが、この言葉は正しい。

その意味で、思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えているのである。

われわれの行動のすべてが、冷たい知性の判断から生じるべきだ、

などと主張するつもりは全くない。

抽象的な判断に基づいた行為だけが、最高の意味で人間的な行為になると考えるのは、

私とはまったく無縁の立場である。

とはいえ、われわれの行動が、動物的な欲望充足から一歩でも先へ進めば、

直ちにその動機は思考内容と結びつく。

・・・・・私の意識の中に同情に値する人物の表象が現れたときに、

私の心の中には同情が現れる。

心情へ到る道は頭を通っているのである。

愛もまた例外ではない。

愛が単なる性欲の表れでないとすれば、

われわれの愛は愛する存在についての表象に基づいている。

そして、その表象が理想主義的であればある程、

愛はわれわれの心情を満たしてくれる。

ここでもまた、思考内容こそが感情の父なのである。

愛は、愛の対象の弱点を見えなくする、と人は言うかも知れない。

しかし、この命題は逆転させることもできる。

すなわち愛は、愛の対象の長所に対して目を開かせる、と。

無数の人たちが何も感じることなく、そのような長所の傍らを素通りしていく。

その中のひとりがその長所に眼をとめる。

そしてまさにそれ故にこそ、愛が魂の中で目覚める。

一体そのような場合、その人は何を行ったのだろうか。

多くの人たちが持たなかった表象を、その人だけが持ったのである。

他の人たちには表象が欠けていたので、彼らは愛を持たないのである。

だから問題を、われわれの望む仕方で扱おうと思う。

人間の行動の本質を、思考の根源から問い直すことの必要性が、

ますます明らかにされねばならない。

だからまず、この問いに向かおうと思う。」(『自由の哲学』p36〜38) 


この章からは、意識化された「思考」の大切さが良く理解できる。

「『動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである』

とヘーゲルも述べているが、この言葉は正しい。」(p36)

と書いてある。

この言葉から、エロース(自己愛)とアガペーのことが思い浮かんだ。

「エロース」は、古典ギリシアにおける神聖な神であり、

また「性愛」「肉体の愛」を典型的に意味した。

これは動物にも備わっていると思う。

そして情欲的な愛、自己中心的な愛を意味している。

エロースとは,もともとはギリシア神話の愛の神のことである。

エロースは翼を持つ少年の姿で表され,

ローマ神話ではキューピッドと呼ばれる。

この神は富裕の神と貧乏神の間にできた息子であり,

常に美しいもの,価値あるものを求めてさ迷う。

すなわち,エロースの愛とは

「価値あるものを求める心」のことである。

たとえば,「おいしいものが食べたい」「かわいい彼女が欲しい」

という気持ちがそれに当たる。

前者は食欲,後者は性欲と置き換えることもできるが,

それは結局“自分のための愛”“奪う愛”であり、お返しを期待する。

しかし、食欲がなくなれば、人間は固体を維持できなくなり命を落とし,

性欲がなくなれば、人類という“種”が地球上から消えてしまう。

つまり,人間は,他の生物の命を奪い、それを食しなければ生きてゆけず,

出家僧のように性欲を消し去れば、その遺伝子もともに消滅するのである。
   
また、現代では,エロチックという言葉が「性的」な意味を強調されているがために,

「エロース」という言葉は非常に卑猥(ひわい)な響きを持って語られるが,

本来は決してそういったものではない。

この高きを目指す感情があったからこそ、人類はその文明を発展させてきたのである。

したがって、エロース(自己愛)そのものは、善でも悪でもないと私は考える。

それをどう用いるかが問題なのである。

それをどう用いるかを決定するものこそ、人間の持つ「思考」の働きなのだと思う。

「思考」することにより、高次の愛が生まれる。

人類が今後進化していくには、エロース(自己愛)を越えて、

「思考」の働きによって、アガペーの愛を育成しなければならないのではないだろうか、と考える。

アガペー は、キリスト教における神学概念で、

神の人間に対する「愛」を表している。

神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、

神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので、
「無償の愛」とされる。

新約聖書では、キリストの十字架での死において
顕わされた愛として知られている。

またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように、

人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、

この人間同士の相互愛もまた、広い意味でアガペーの愛である。

『マタイ福音書』にある著名な「山上の垂訓」において、

「神は、善なる者にも、悪なる者にも、変わることなく、

太陽の光の恵みを与えてくださる」というように、

人間をその行為や社会的地位や身分や性別などによって区別せず、

恵みを与えてくれる存在として示されている。

また同じ「山上の垂訓」において、

イエスは、知人や友人、家族などを愛するだけでは十分ではない。

わたしの教えに従う者は、 みずからの「敵」さえも愛さねばならないとして、

単なる「隣人愛」以上の、普遍的な人間愛を語っており、

このような愛こそ本当の愛(アガペー)であるとしている。

アガペーの愛は、相手から感謝されることが期待できない。

それどころか、侮辱され、嫌がらせを受けることもある。

ところで、アガペーの愛である「汝の敵を愛せよ」とは、

「敵を好きになって愛せよ」といったのではない。

  意志をもって、自然の情に反しても、「思考」の訓練によって取り出された、

  直感内容から導きだされる「愛」を持てと、言ったのであると理解している。

それを伝えるために、キリストは地上に降臨したのである。

そして、キリストは本当の「愛」の大切さを語った。

その愛とは「アガペー」の愛であり、「汝の敵」を愛する愛であった。

本当の愛というのが、キリストによって初めて「ことば」にされた。

それまでの愛というのは、すべて自己愛であった。

「私はあなたを愛している」について、考察してみよう。

私達は、これにより相手を愛していると思っている。

しかし、実は、「私はあなたを愛している」と思った時点で、

もう愛ではなくなっているのだ。

そこには、たいていの場合「私」が含まれているために、
結局は自己愛でしかない。

「私」の幸せのために「あなたを愛している」からである。

では、本当の愛(アガペー)に近づくにはどうしたらよいか。

それは、「自分」「私」を含まなければよい。

本当に愛情深く生きるには、自分を捨てる必要がある。

「思考内容こそが感情の父なのである。」(p37)にあるように

「思考内容」によって「感情」を高次へと高めるのである。

例えば、不快な感情が生じても、それに打撃を受けるのでなく、

「思考」によって、高められた直感内容によって、

その不快な出来事が生じた意味を知るのである。

すると、神からの愛(アガペー)が流入してくるのを、私は何度も体験している。

シュタイナーも次のように言っている。

「無数の人たちが何も感じることなく、そのような長所の傍らを素通りしていく。

その中のひとりがその長所に眼をとめる。

そしてまさにそれ故にこそ、愛が魂の中で目覚める。」
(『自由の哲学』p37)


「自己愛」が、過剰になれば、自分の思い通りにならない場合、

相手に攻撃的になり、争いとなり、社会や家庭を崩壊させる。

あらゆる戦争、紛争、社会的事件、家庭内の問題は、

すべて、過剰な「自己愛」から生じているように思う。

そして、自己愛からアガペーへの変容こそが、地球紀の課題である。

地球は愛の発展を課題としている。

エロース(自己愛)をアガペーに変容することで自分を鍛えるのである。

そして、これこそ魂の修行であり「思考」の訓練であろうと理解している。

「思考」の訓練なくして、

「思考」による高次の直感内容は、

自分の中から見出すことはできないだろう。

日常生活の中で相手のすることが、気にくわなかろうが、

相手の立場を認めることができなかろうが、

なお相手を認めるには、
「思考」によって直感内容を取り出してきた

「高められた愛」が必要なのである。

「思考」することが重要なのは、高次の直感内容を自分の内から

取り出すためであると私は理解している。

これにより、この社会での複雑な人間関係の

本当の地道な相互理解が生まれるのではなかろうか。

さらに、シュタイナーは自分の行動の根拠が、

自分の内部の「個体の理念部分」にある時、「自由な行為」であると述べている。

このような「自由な行為」としてのアガペーを実践した例として、

「善きサマリア人のたとえ」を思い出した。

要約すると以下のような話である。

「ある人が エルサレムという大きな都からエリコという町へと下っていく途中、
追いはぎに襲われてしまった。

追いはぎは その人の持っているもの全部と着ていた服を剥ぎ取り、殴りつけ、

半殺しにしたまま行ってしまった。

ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、息も絶え絶えのその人を見ると
道の向こう側を通っていってしまった。

それからしばらくして、レビ人もやってきたが、その人を見ると
やはり道の向こう側を通って行ってしまった。

しかし、そのつぎにそこを通りかかったサマリア人は、倒れているその人を見ると、

気の毒に思い、近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、

包帯をして 自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って、介抱した。」
 (ルカによる福音書 10章 25節〜36節より) 

今から2000年前ユダヤ人とサマリア人との間では
激しい民族・宗教対立をしていた。

追いはぎに襲われた人はユダヤ人だったようで、当時この地の部族間の
対立はかなり厳しく、様々な争い事をしていた。

ユダヤ人はサマリア人をかなり軽蔑していたらしく、
その仲は、もう犬猿の仲であった。

通りかかった最初の2人は、その人が襲われるには、何か狙われる理由があるのだろう。

例えば、過激派集団のエッセネ派かも知れないと考えたのだろう。

祭司やレビ人は、襲われた人を救ってしまうと、今度は自分たちが襲われる標的にされることになる。

自分たちの帰属する集団の論理から、助けたくても助けられないのである。

そして、見知らぬ振りをしてわざと道の向こう側を通った。

善きサマリア人は、半ば死にかけたユダヤ人をみて、

気の毒に思い、近寄って様子を見、傷の手当てをして、

宿に連れて行き、一晩 見も知らぬ敵である死にかけた人の介抱をした。

ユダヤ人に軽蔑される側のサマリア人は、翌朝、自分は行かなければならないのでといって、

宿の主人に、お金を渡し怪我人の介抱を頼んだ。

最初の二人は、へたに介抱すると他人に何と言われるかわからないと、

世間体、社会のルールやしきたりなどを気にして行動した。

善きサマリア人は、思考による直感内容から取り出した

「自分自身の内部」に行動の根拠を持って行動した。

外からのものには、いっさい影響を受けなかった。

これこそ自由な魂による判断だったのではなかろうか。

このアガペーの愛を行動に移した「善きサマリア人」こそ、

「自由の哲学」を実践している人であろうと、この第一章を読んで思った。

コメント(4)

あっちゃんさま

コメントありがとうございます。

私もそう思います。

『自由の哲学』の「1918年の新版のためのまえがき」の中で、

シュタイナーは「本書が試みているのは、霊的経験を持つ以前にも

霊界の認識が可能である、と証明することなのである。

そしてそのことの正当性を示すのに、その後私が提示した

霊的経験を顧慮する必要はまったくない。

本書の論述の仕方そのものに関わっていくことができさえすれば、

ここに述べられている事柄は受け容れられる筈である。」

と書いてありますので、本書を読むことで、

この内容を実感したいと思っています。

ありがとうございました。
リトセアさま
コメントありがとうございます。

私にとって、これまで、難しくて無意識に避けてきた
「自由の哲学」を再度読み直したいという思いが沸々と湧いてきました。

「天使論」を読んでから少し開けたことがあったので、
その視点で読むと「自由の哲学」が自分なりに良く理解できそうで
今、わくわくしながら感動して読み進めています。

「自由の哲学」で言っていることは、頭ではわかっていたつもりでしたが
改めて読み直して、これは細胞の一つ一つを生まれかえさせるようなすごい本だと
今更やっと気づいています。

第一章を読んでいたら、むしょうに、「善きサマリア人のたとえ」が思い起こされて
トピックに書いてみました。
共感してくださり本当に嬉しく思います。
とても勇気づけられました。

イエス・キリストが「善きサマリア人のたとえ」で語った人間のあるべき理想像と
シュタイナーが『自由の哲学』で求めた自由を獲得した理想の人間像が一致する
ことに、自分なりに新たな発見をしました。

>エロースは全ての人間が当然持って生まれるものであり、男女の感情や肉体に化学変
>化を起こさせるものでもあるわけですが、男女間においてさえ「相手を本当に愛すると
>はどういうことなのか」を私が思考し続けて出した結論は、「相手が(私からも)自由
>であること、そしてその自由に基づいた相手のしあわせを願うこと」でした。

コメントの中で、この部分は特に共感しました。

「相手が(私からも)自由であること、
そしてその自由に基づいた相手のしあわせを願うこと」

これは、子育てにおいても強く意識すべきことだなと思いました。
ありがとうございました。

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