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ゴスペルハウスコミュの「あきらめない愛」2026.06.27

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ゴスペルハウスメッセージ 2026.06.27
「あきらめない愛」イザヤ65:1-10

1 「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。
2 わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。
3 この民はいつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こす。園の中でいけにえを献げ、れんがの上で犠牲を供え、
4 墓地に座り、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れ、
5 『そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたにはあまりにも聖なるものだ』と言う。これらは、わたしの怒りの煙、終日、燃え続ける火である。
6 見よ、これはわたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報いる。わたしは彼らの懐に報いる。
7 おまえたちの咎とおまえたちの先祖の咎をともどもに。──主は言われる──彼らは山の上で犠牲を供え、丘の上でわたしをそしった。わたしは、彼らのかつての行いを量って、彼らの懐に報いる。」
8 主はこう言われる。「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。
9 わたしは、ヤコブから子孫をユダから、わたしの山々を所有する者を生まれさせる。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。
10 わたしを求めた、わたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏すところとなる。

今日はイザヤ書65章から、「あきらめない愛」というテーマで御言葉を開いてまいりましょう。
まず、全体の流れを見てみます。

「わたしを尋ねなかった者たちに」(1節)とあります。
これは異邦人、つまりユダヤ人以外の人々のことです。
それに続いて、次のようにあります。
「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(1節)
つまり、神様が異邦人をどのように扱うかという内容を示しているのです。

旧約聖書だけを読むと、異邦人は敵であり、汚れており、神の民ではないから滅ぼせ、と扱われているような印象を受けるかもしれません。
そして新約聖書になって初めて、イエスさまの十字架や、パウロの異邦人伝道、ペテロの体験などを通して、異邦人も救われ、神様の愛が示されて広がったと考えがちです。

しかし、イエスさまの降誕よりも700年前のイザヤを通して、神様は、異邦人に対して「わたしはここだ」と繰り返しているのです。
パウロはローマ人への手紙でこの箇所を引用し、異邦人への救いの根拠にしています。
「また、イザヤは大胆にもこう言っています。『わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。』」(ローマ10:20)

これは民族という大きな単位だけではなく、一人の人の生涯でも同じです。
「わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(1節)は、すべての人に対しての真理なのです。
私たちが神様を探し求めて救われるのではなく、神様があなたを探し求めて救われる。
これこそが救いの真実です。
ルカの福音書にはこうあります。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
今、不安になっているあなたも、神様を疑いたいあなたも、まったく信じていないあなたも、神様は探し、見つけ、愛してくださるのです。

2節以降はイスラエルの民への言葉です。
パウロは、先ほどの箇所に続いて、こう言っています。
「そして、イスラエルのことをこう言っています。『わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。』」(ローマ10:21)

彼らは「頑なな民」(2節)であり、自分の考えのままに良くない道を歩んでいました。
「園の中でいけにえを献げ」(3節)、「れんがの上で犠牲を供え」(3節)、「墓地に座り」(4節)、「見張り小屋に宿り」(4節)、「豚の肉を食べ」(4節)、「汚れた肉の汁を器に入れ」(4節)るのです。
これらは異邦人の習慣です。
イスラエルの民は、本当の神様を知っていながら、あたかも神様を知らない異邦人のように振る舞っているのです。

さらにこの頑なな民は、次のように言います。
「そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたにはあまりにも聖なるものだ」(5節)
自分たちのしていることが、あたかも素晴らしい知恵や特権であるかのように振る舞い、高ぶり、偉そうにして、他の人を見下しているのです。
自分勝手な判断を、聖なるもののように誇っているのです。

目新しいものや流行に流されて、古き良きものにとどまっている人を見下すという行為が、ここにあります。
これはイザヤの時代である今から約2700年前も、今も、変わらない人間の愚かな姿です。
ちょっとした目新しさをあたかも正義や真理と勘違いして、本来の姿を見失ってしまうのです。
インターネットやSNSの発達で、それは一層加速しています。
「今はこれが当たり前だから」とか、「あなたの考え方は古い」とか、流行り廃りに振り回されながら、私たちはどんな人間に成長していくのでしょうか。
定かでもない正しさで人を批判するなかで、どんな人間になるのでしょうか。
これは、他の人を見下しているだけでなく、自分の中にある大切な良さまでも捨ててしまっているのです。
その行く末は、目先の利益や一時的な流行だけを追い求める、虚しい人生になってしまいます。

神様はそんな人々に対して、「必ず報いる」(6節)、「彼らの懐に報いる」(6,7節)と繰り返し怒ります。
なぜなら、神様は、そんな「頑なな民」に、ずっと手を差し伸べ続けてきたからです。
「わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた」(2節)とあります。
「終日」は、他の翻訳では「日ねもす」、「一日中」、「絶えることなく」、「日夜」とも記されています。
また、英語では“all day long”“always”“all the day”などと訳されています。
つまり、本当に神様は、繰り返し、繰り返し、あきらめることなく手を差し伸べ続けたのです。
それなのに、イスラエルの民は、裏切り続けました。
神様が怒るのも、もっともな話です。

けれども、8節にこうあります。
「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。」(8節)
「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば」の「甘い汁」の部分は、英語の聖書の多くで“new wine(新しいぶどう酒)”と訳されています。
これは、よく育ち、よく整えられたもの、発酵したもの、という意味です。
よい部分が少しでもあるなら、滅ぼし尽くすことはないと、神様は言うのです。
神様がソドムとゴモラを滅ぼそうとしたとき、そこに10人の正しい人がいたなら滅ぼさないとアブラハムに約束された(創世記18章)ことと同じです。

滅ぼし尽くされずに残った者、ヤコブ(イスラエル)の子、ユダの子孫、その家系にイエスさまは生まれました。
あなたのための救い主は、神様の愛のゆえに残された者から、誕生したのです。

定まらない今の世界の中で、私たちの心はかき乱されてしまいます。
不安になったり、新しいものに目移りしたり、見下したり、見下されたり。
それでも、あなたというぶどうの房の中に、一粒の良いぶどうがあれば、よく育ち、よく整えられた部分があるなら、神様はそれを受け入れてくれるのです。

頑なで、不安で、定まらないあなたに、一日中手を差し伸べ続け、あなたの中のほんのちょっぴりの良いところを認め、受け入れ、愛そうとしてくださる神様の愛。
そう、「あきらめない愛」は、今、あなたに注がれているのです。

「でも、私なんて良いところは1つもない。何もない、1粒もない。」
「私なんて生きている価値がない。死ぬしかない、消えるしかない」
そのように思う人がいるかもしれません。
確かに、「死ぬしかない」というのはある意味で真実です。
でもそれは、「あなたが死ぬしかない」のではなく、「イエスさまが十字架上で死ぬしかなかった」ということなのです。
イエスさまは十字架上で、あなたのために死んで、あなたの身代わりとなり、あなたの救いを完成させてくださいました。

あなたを愛する神様の「あきらめない愛」は、大きく、粘り強く、深く、私たちの理解を超えて注がれています。
この「あきらめない愛」を受け取って、本当のあなたを取り戻しましょう。
空っぽの自分を脱ぎ捨て、愛された者として生きるのです。

さあ、新しい一歩を、イエスさまと共に歩み出しましょう。

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