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日本再生倶楽部コミュの【盧溝橋事件】

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 今日、7月7日は日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった、「盧溝橋事件」(中国では七七事変ともいう)が起こった日である。1937年(昭和12年)のこの事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。

 昨日のYOMIURI ONLINEに下記のニュースがあった。
<「国の恥忘れず未来に目を」盧溝橋事件70年を前に新華社>
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070706i111.htm

 このなかで、『「中国人民は狭隘な復讐主義者ではない」との表現もある。』 とあるが、中国の狡猾なプロパガンダには怒りを通り越し、ある意味で日本の外交も見習うべき点があるような気さえする。

 さて、この「盧溝橋事件」であるが、盧溝橋事件の一発(実際は十数発)を誰が撃ったのかは当初から疑問がもたれている。日本軍謀略説・国民党謀略説・中国共産党謀略説・その他・・・など、様々な方々が研究されている。詳細は他の文献に委ねるが、日本軍謀略説は国民党政府が一貫して唱えているもので、内容は事件勃発当時から現在に至るまで変化がない。

 ところが日本軍が最初に銃撃を受けた際、日本軍は演習の為に実弾を携行していなかった。橋本群陸軍中将(駐屯軍参謀長)も当時の状況を、『実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた』と証言している。

 国民党謀略説であるが、事件当時に当の国民党軍も、日本軍同様に銃撃を受けている。盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は、国民党軍によるものと思い込み、反対に国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んだ。この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したが、双方共に腑に落ちない点があり、現地解決・事件不拡大方針で交渉し事件発生後4日目の7月11日に、日支両軍は停戦協定を結んだ。

 それでは、日本軍・国民党軍双方に「銃撃」を加え、双方を戦わせる様にし向けたのは、一体「何者」だったのか。だれが一番利益を得るのかを考えれば、その答えは自ずとあぶり出されてくるのではないだろうか。

 中国共産党は7月8日、つまり「盧溝橋事件」発生の翌日、「対日全面抗戦」を呼び掛けている。これは、まるで「盧溝橋事件」が起きる事を知っていたかの様な手際の良さではないか。さらに、共産党軍の兵士向けのパンフレットには、『盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志の指示によって行われたものである』とはっきりと記述されている。

 この 「盧溝橋事件」について、戦後になって重大な事実が明らかになってきている。1949年(昭和24年)10月1日、「中華人民共和国」成立のその日に周恩来首相も、『あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ』と発言している。

 また、日本軍側では「盧溝橋事件」直後、中共軍司令部に向け「成功せり」との緊急電報が打たれたのを傍受したという証言が出ている。(産経新聞、平成6年9月8日付け夕刊)

 こうして考えてみれば、日本はまんまと罠にはまり、泥沼の戦争へと突き進まざるをえなかったと見ることができるのではないだろうか。

 たんなる謝罪・自虐外交や歴史認識ではなく、きちんと裏付けを検証し、当時の状況や価値観などを考慮した「日本の歴史観・認識」を築き上げ、世界に胸を張って発信すべきである。過去の捏造史が外交カードにならないことを、政府・外務省はもとよりマスコミや国民も一体となって知らしめるべきだと考える。それが私たちが行うべき、日本の未来への責任ではないかと思う。「美しい日本」を孫子に残すためにも、継承していくためにも。

コメント(3)

>たっちゃん様

 コメントありがとう御座います。
本日に配信された「台湾の声」に、この事に関する記事がありました。興味深い記事ですので、全文転記致します。

 なお、字数制限のため、二部に分けて転記致します。「台湾の声」編集長 林建良(りんけんりょう)氏には、以前記事の使用を許可されているので転記は問題ないことを述べておきます。

<「台湾の声」記事全文転記>(その1)

《中台軍事バランス変化より70年前の盧溝橋事件で日本批判する朝日、東京の社説》
2007.7.10【メディアウォッチ−新聞】より

防衛白書の中台軍事バランス変化より70年前の盧溝橋事件で日本批判する朝日、東京の社説

盧溝橋に絞った朝日

 二〇〇七年七月七日は中国では日中戦争の発端となった盧溝橋事件(中国では七・七事変)から七十年に当たる“歴史的”な日であった。

  北京郊外の盧溝橋付近にある中国人民抗日戦争記念館では例年、記念式典が行われており、今年はよほど盛大に記念式典が行われるのかと思いきや、出席した主催者代表の全人代常務副委員長のあいさつもなく、式典はわずか二十分で終了してしまったという。

 本紙が「抗日煽る『愛国』よりも日中関係『安定』を優先/胡錦濤指導部の方針鮮明に」と伝えるように(八日付)、中国政府は日中摩擦の再燃を懸念し、中国メディアでも「反日」は影を潜めたようだ。

 だが、朝日と東京の論説室は手ぐすね引いてこの日を待っていたようで、七日付にそろって「盧溝橋事件70年」と題する社説を掲げた。

 他紙の同日付社説を見ると、読売、毎日、産経の三紙は中台の軍事バランスが中国有利に変化していると初めて言及した防衛白書を取り上げている。その防衛白書を吹き飛ばして朝・東は「盧溝橋事件」を扱ったわけで、とりわけ通常二本を一本に絞って論じた朝日の姿勢は際立っている(ちなみに日経は八日付、本紙は九日付で防衛白書を扱っているが、両紙は扱わず)。

 朝日社説は「もう一歩、踏み出す勇気を」、東京社説は「『歴史』のとげ克服を」と題し、「日本軍が北京郊外の同橋近くで演習中に銃撃されたとして中国軍を攻撃。戦火は北京や天津から上海に及び日中の全面戦争に拡大した」(東京)とし、「(戦後、中国は賠償放棄し)『ゆるした』のに、日本はその重みを受け止めていないのではないか。中国は軽んじられている。そんな屈辱感も重なっているのを見逃してはならない」(朝日)と日本側の「記憶のずれ」を批判している。

 要するに両紙は「歴史を直視し」(東京)、日本はもっと謝罪すべきだと言いたいらしい。だが、両紙こそ歴史を直視しているのか、甚だ疑わしい。
<「台湾の声」記事全文転記>(その2)

承前

コミンテルンの戦略

 盧溝橋事件は東京裁判でさえ、日本側が引き起こしたものではないと判定を下し、事件関係者は一人も訴追されていない。それは日本側が提出した海軍受信所長、和智大佐の傍受した中国側の暗号電報が証拠として採用されたからで、中国共産党の劉少奇に率いられた「青年学生的便衣隊」が仕掛けたものとみられている(田中正明『盧溝橋事件と国際謀略』=本紙一九九四年七月六日付)。

 実際、中国側の文献にもそうした記述があり、例えば中共軍政治部発行『戦士政治課本』は「七・七事変は胡服こと劉少奇同志の指揮する救国学生の一隊が決死的行動をもって党中央の指令を実行したもので、これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった」(葛西純一編・訳『新資料盧溝橋事件』)と明記している。

 当時、コミンテルン(国際共産党)は、資本主義国同士を戦わせる“かみ合わせ戦略”を模索し当面の敵を日独に絞り中国共産党に国共合作による抗日戦を促し、西安事件(三六年)で蒋介石を取り込んだものの、蒋介石の心変わりを警戒して盧溝橋事件を工作、日中全面戦争へと誘導した。

 同事件の直後、幼児十二人を含む二百二十三人の在留邦人が虐殺される通州事件(七月二十九日)が起き、日本の世論が沸き立ち、中国へとのめり込んで“かみ合わせ戦略”にはまった。

歴史的事実を公平に

 盧溝橋事件については倉林和男氏(元空将補)が中国共産党の文献にも当たり、その真相を詳しく検証されている(『英霊にこたえる会だより』平成十七年三月十九日号)。それによると、日本社会党の佐々木更三委員長を団長とする訪中団と会見した毛沢東は六四年七月十日、「(皇軍がいなければ)中国共産党は権力を奪取しきれなかったでしょう。…(皇軍に)感謝しなくてよいと思いますか」(『毛沢東万歳』下、東京大学近代史研究会訳=三一書房)と述べている。

 こういう歴史的事実を朝日と東京はなぜか直視しない。前述の朝日社説は盧溝橋事件に続き十二月には「南京大虐殺からも七十年」を迎えるとしており、この種の「歴史キャンペーン」を張るつもりらしい。中国共産党すら“自粛”する歴史歪曲(わいきょく)がまかり通らないか、よく見ておこう。

(増 記代司)

『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html

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