ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

中国「残留日本人孤児」問題コミュの中国「残留日本人孤児」についてのTVドキュメンタリーが放映されます

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
中国「残留日本人孤児」を支援する兵庫の会からお知らせです。

関西TVで以下のドキュメンタリー番組が放映されます。
ぜひご覧ください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★4月29日(水・昭和の日)午後3時58分〜午後4時53分★

ディレクターの柴谷さんは、取材の過程で、残留孤児問題についての一般市民の無理解(知識のなさ)、そのために生じる誤解や偏見、残留孤児の皆さんの地域での孤立した状況がいまも厳然としてあることを痛感し、ぜひ、「地域の方々」に、おひとりでも多くみてもらいたい、と願っておられます。
番組紹介は以下のとおりです。
ぜひ、ひとりでも多くの方にごらん頂きたいと思っています。皆さんも、周囲の方への告知をよろしくお願いします。

*****
http://ktv.jp/document/
父の国 母の国 ―ある残留孤児の66年―

FNSドキュメンタリー大賞参加作品
語り:優香

企画意図

終戦前後、中国東北部に残され、肉親とも生き別れながら、かろうじて生きながらえた「中国残留孤児」。孤児らが「国の支援策が不十分」として訴えた集団訴訟を経て、去年4月からようやく「改正中国残留邦人支援法」に基づく支援策がスタートした。
しかし、この支援策で本当の幸せを見出せるようになったのだろうか。
支援策後の生活を取材し、社会がどう帰国者たちに向き合うべきか、考え直したい。

番組内容


中国残留孤児の兵庫訴訟で原告団長を務めた初田三雄(はつたみつお)さん、66歳。初田さんの人生は、「生命の危機」と「貧困」の連続だった。終戦時は2歳。もちろん当時の記憶はない。旧満州の奉天、現在の瀋陽で中国人に育てられたが、1960年代後半から始まった「文化大革命」では、日本人だという理由で迫害を受け、1972年の日中国交回復後も農村などを転々と移転した。祖国・日本への思いは強まった。
しかし、残留孤児が本格的に帰国できるようになったのは、9年後の1981年。多くの孤児が、中年になってからだった。政府は日本語の不自由な人々に十分な支援をせず、7割もの孤児が生活保護のもと、厳しい制約をうけながらその後生活している。
初田さんは、44歳になって日本に帰国。その後、肉体労働を続けたが60歳でその仕事も定年となり、定年直後の収入は厚生年金の月五万円のみだった。「働けるうちは自立したい」と、アルミ缶を拾って兵庫県伊丹市の県営住宅で妻と生活している。孤児たちはこうした帰国後の苦しみを、裁判に訴えた。
全国15か所で裁判が行われたが、神戸地裁だけは「明確な国の責任」を認め、国による新しい政策をスタートさせる原動力になった。
新しい支援策は、全国の原告・弁護団が裁判の取り下げと引き換えに受け入れたもので、明るいニュースのはずだったが、初田さんは納得がいかない。それは、この制度が「社会保障」という位置づけのため、「生活保護」をベースにしていて、全員が平等に受けられるものではなく、制約も多かったからだ。


多くの残留孤児は、国の責任が認められないままであることには不満を抱きながらも、支援策を受けて生きることを選択したが、初田さんは「給付金」の申請を拒否して、まだアルミ缶を拾い続けている。
なぜ、初田さんはそこまでこだわるのか…。
初田さんの人生を知るため、今年3月、中国・瀋陽に同行した。そこで取材班が目にしたのは、養母の墓参りすら出来なかった初田さんの深い心の傷だった。墓に向かって初田さんは語りかける。
「お母さん、あなたは私に怒るでしょう、愚かものだと。しかし息子は今になってわかった。一番大事なのは誇りを持って生きること。恥ずかしくない生き方をすること…」
そして小さなお墓にしがみつき「小さい墓を見て申し訳なく思う」と号泣した…。
政治的には「解決した」残留孤児問題ではあるが、改めて私たちがこの問題をどう考えて、どのように帰国者に向き合うべきかを考えたい。

*****
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

中国「残留日本人孤児」問題 更新情報

中国「残留日本人孤児」問題のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング