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いき・粋・iki - 日常の美学コミュの「いき」の領域の位置付け

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芸術・娯楽・日常などにおいて、「いき」が占める領域とはどのようなものでしょうか。

美的価値は、「日常から離れることにより発生する」という考え方があります。ロシア フォルマリスムでは「異化作用」(非日常化)と呼ばれているものです。「観客を驚かすこと」がモダンアートのひとつの機能と見られていることもあります。たとえば、サルバドール・ダリはそのように考えていたようです。なお、モダンアートの立場では、「美的価値が高い」=「美しい」とは限りません。

「美的価値が高いもの」は、何らかの意味で日常を超越しています。しかし、「奇妙なもの」=「美的価値が高い」でもありません。

「いき」とは、奇妙さに走ることなく、日常からわずかに遊離した、「なにかいい感じ」を表す言葉です。
この図では、そのような「いき」の領域の位置付けを示しています。
この図だけで「いき」の様相のすべてを示せるわけではありませんが、基本的な考え方としては重要と思われます。

コメント(23)

■ヨシト さん、こんばんは。
1. 空白は「何かに属しているとは言い難い」もの、ということになります。
2. ここでのデザインとは、kazukoy さんのように工芸、服飾、建築、その他モノの意匠を指します。Art and Designとして英語圏で認知されているものと同じです。
3. モダンアートという美術史的立場をご存じなら(というより、この図を見る方はモダンアートについてご存じだという前提なのですが)、別にここでモダンアートと断ることはないと思います。
4. 並列になっていないからこそ、別の領域として示されているわけです。ご覧のように、「いき」の領域は芸術と重なっていません。またデザインとも重なっていない部分があります。

この図が現時点で完璧なものというつもりはありません。
本来は本1冊かけてご説明すべきことだとは思いますが。
他のみなさんからのご質問もお待ちしています。ただし、最低限以下の2つは読んでください。

■九鬼周造『「いき」の構造』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000065/files/393_1765.html

■拙論 「日常生活の美学 −モダニズムと『いき』−」
http://cosmoshouse.com/works/papers/

■kazukoy さん、
ここでは、キッチュは「美的価値が高く」かつ「非日常的」と定義しています。
あらためて書けば、「いき」は「美的価値が高く」かつ「日常に近い」(ただし日常に埋没していない)ものです。
ゆうじさん、こんにちは。 kazukoyさん、はじめまして。

領域図、とても面白く拝見しました。秋桜舎のブログでは<ただ、キッチュの座標位置が微妙かなー…>とコメントしちゃったのですが、ホントのところ、かなり頭ん中混乱しています。

キッチュの語源は独語のスラング、verkisthen<騙して偽物をつかませる>という意味だそうです。キッチュはそれから派生した言葉で辞書では<まがいもの><いかもの><芸術における価値のないみかけだけのもの><感傷的な魅力を持つ安ピカの、俗悪な、大衆芸術>だなんて訳されるんだそうです。どうです?ひどい扱いでしょー(笑)これ読んじゃうと、キッチュの美的価値をあんな高い位置においといていいもんなんだろーかと思ってしまいません?

でもこの頃(?)は、キッチュって、服飾やデザインはもちろんモダンアートの世界にまでもフツーーーに進出してますよね?で、当の私も、<キッチュな感じ>って好きなんですよ。明るくて、楽しくて権威的なものに支配されない(むしろ、それで遊んでしまう!)自由な感じかな?ただ、それは表面的なことである場合もあるかもしれないですね。例えばウォーホルの作品が、ドライブ感溢れる突き抜けた明るさ故に、リアルな「死」の匂いを漂わせるように。
 今時、ウォーホルの美的価値を、例えば、<感傷的な魅力を持つ安ピカの、俗悪な、大衆芸術>なんてところに置く人なんて誰もいないませんよね?ウォーホルは、スープのカンカンを<芸術>の表舞台にひっぱりあげ、マリリン・モンローやモナリザを大量生産したけれど、それって意識的にキッチュをやってのけたってことだと思うんですね。キッチュそのものを表現対象としたわけで、作品そのものがキッチュなわけではない…というか。

あ”ーーー。ますます混乱してきたっっ。
脳みそがリミットです(涙)。
今日はここまで。
まちこさん、みなさん、こんにちは。
以下のように考えてはどうでしょうか。

■モダンアート以前
美的価値=「美しさ」

■モダンアート以後
「美しさ以外」の美的価値が認識された

モダンアートの出現以前は美的価値=「美しさ」でした。「美しさ」以外のものは「面白い」と思われることがあっても、なかなか議論の対象にはなりませんでした。もちろん美術館には陳列されません。しかし、モダンアートは「美しさ以外」の美的価値を持ち込みました。アートが「なんでもあり」になったわけです。この中にキッチュなどが含まれます。美的価値という語に「美しさ以外」のものが含まれる、という言い方は誤解を招きやすいですが。「美しさの範囲が広がった」という表現もできますが、こちらよりは理解しやすいかも。
現在ではキッチュは芸術・美学の用語として定着しています。キッチュというときは美的価値を認める場合にして、キッチュですらない本当にただ「変」なだけのもの(面白くも何ともない)は「変」といったほうがよいでしょう。もちろん、人によってその判断が分かれることはあります。
ゆうじさん、みなさん、

うーん、なんちゅーか。
この領域図だと、粋と野暮とは対称的な位置づけになってますよね?で、それと平行の位置に<キッチュ>と<変>とが置かれてる。粋と野暮は確かに正反対のものでだと思うんだけど、<キッチュ>と<変>とはそうは言えないと思うんです。

例えば、他のトピックで出されてたダサい時計(笑)。あれも、私には<キッチュ>の一種のように思えるんですね。それとか東京タワーで売られてるような”腰砕けグッズ”の類いなんかは、<キッチュ>の典型だと思うんです。<キッチュ>と<変>とを切り離してしまうのにはどうも違和感があるんですよ。
反面、現代には非常に洗練された<キッチュ>っていう本来の意味とは矛盾する美的価値というのも確かにあって。<キッチュ>の美的価値というのは、もっと幅が広いものなんじゃないかと思うんですわ。どうでしょ?
まちこさん、みなさん、こんばんは。

ここでの「変」は、日常語の「変」よりも意味が狭いと思ってください。ピュアな変、というか (^_^;)
もっといい言葉があればいいんだけど。
確かにキッチュも「変」だけど、そこに価値を認める以上、ただの「変」とは区別する必要があるよね。この図は、それを考えるための手がかりと思ってください。そこで「日常からどれだけ離れているか」という尺度(X軸)を持ち込んでるわけです。
ゆうじさん、みなさん

ははは。ピュアな変っすか(笑)。
しかーし、ピュアなキッチュはかなりピュアに変ですよぉ(笑)
この図でいうところのキッチュは純度の低いキッチュと言えそう。なんたって、美的価値が粋と同等なんですもん(笑)
(話を蒸し返してるみたい?すみませぬ。ゆうじさんの仮定も、頭では分かるんだけど、どーしても違和感が拭えないのです。)
で、思ったんだけど<粋なキッチュ>って在りえないですかね?
そうとう変化球だとは思うんだけど。

それと、キッチュって、粋と同じくとても大衆的なんですね。産業や経済の発展とともに、大衆の日常生活が物質的に豊かになったからこそ生まれた概念ですから。大衆のあま〜い夢や憧れ欲望が(お気軽に)具現化された状態。バブルガムみたいな人工着色料や人口甘味料たっぷりの甘いお菓子のようなも。なので、別の角度から見ると大衆の<日常>と密接しているわけです。けれどなにせ<夢>ですから、<日常=常識>からの逸脱がなければ<キッチュ>とは呼べない。

そういうわけで、今朝の格言。

キッチュは日常より出でて、日常より薔薇色!…なんてね(笑)
まちこさんが考えているものは、マティスやポップアートかな? あるいはレトロ的なもの?
キッチュや「下手物」には、爽やかさはなく、もっとぎとぎとしているように思います。鮮やかな意外性よりも、あぜんとする毒々しさじゃないかな。
同じ原色でも、インドや中国の伝統的な赤、緑、黄、ピンクの使い方は、ポップアートとは違う趣があるようです。ポップアートのような軽い感覚で世界を切り取ったのではなく、作成者は「大まじめ」なわけです。にもかかわらず、その感覚に慣れてない人が見ると、強烈な、ただしむしろ快感といえる違和感がある。

別トピックを立てました。
「いき」とキッチュ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=1416973
ゆうじさん、

バブルガムって食べ物としてはある意味、毒々しいでしょ?口に方張るものがあんなに人工的にリズミカルな色彩をしているってことは。<食べ物>というバブルガム本来の目的と、その形態や、咀嚼してから<膨らまして遊ぶ>という副次的な機能(?)のから生じる、ちょっととぼけた違和感が私にはキッチュに思えるんですね。
<大まじめ>かどうかは、人によると思うけれど、確かにキッチュかどうかの判定は作者の意識のあるなしにかかわるものだと思います。本当のキッチュは多分、物質社会に自然発生的に現われてきた現象のようなもので、とても<匿名的>。だから、ポップ・アートそのものは、<キッチュ>ではないのだと思う。ただ、キッチュが現代の、物質社会の、自然風景の一部である(世の中そのものがキッチュで在りうると)と考えるのなら、それをモチーフとして使っているとも言えなくないのではないのかと思うわけですよ。
インドや中国の民芸品の色彩がキッチュと思えるのは、私達が一部欧米化された外国人の視点から、異文化の<風景>としてそれらを見ているからですよね?そこに<作品>としてそれらを見るという視点が組み込まれると、鑑賞者が受ける<キッチュ>の度合いの印象は薄れるんじゃないかと思います。(その形態から現浮かび上がる)作者の<キッチュ的意図>が薄ければ薄いほど、そして、形態そのものが(鑑賞者からして)グロテスクであればあるほど<キッチュ>は”本来の”<キッチュ>として輝きを増すのだと思います。ボッシュの作品から<キッチュ>がにじみ出るのは、確かに<無心>で<大まじめ>だからだと思う。で、その<無心>は人間の原初的な欲望のようなものなのだと思う。
まちこさん、みなさん、こんばんは。

キッチュについてしばらく考えた結果、「いき」の領域では「変なだけ」に近いものも含まれると思うようになりました。

それと、「ポップ」と「キッチュ」を区別するとよいのかも。「いき」「ポップ」「キッチュ」の順に日常性から離れていく、とね。バブルガムは「いき」ではないけど、「キッチュ」というほど毒々しくないから、ポップじゃないかな。ルパン三世のカラフルなジャケットやネクタイは「ポップ」かつ「レトロ」。ポップは、派手で大胆な色づかい、軽さなどが特徴。でも毒々しくはない。ちなみに「ポップ」は「ポップアート」よりも広いと考えています。ポップアート的なものを含む、ということです。意図の点からいうと、「ポップ」は、「いき」やキッチュよりも、意図的なものを感じます。

「いき」は、さりげないかっこよさだから、時に大胆であるとしても、ポップよりもおとなしいはず。
ゆうじさん
「キッチュ」と「変」の間には「妙」というのもありそうですね
Tango さん、こんばんは。

確かに「キッチュ」と「変」の間にも何かありそうですね。
具体例を思いついたら教えてください。
ゆうじさん、みなさん、

<キッチュ>と<ポップ>とを区別すると、<キッチュ>は野暮に、<ポップ>は粋に近くなるのかもしれないですね。

より活発な野暮というのだろーか?

仮に野暮とキッチュを縦軸にとって、
<美的価値>というのとは別の指標を提示するとすれば、
一体何がくると思います???
まちこさん、

図をもう一度見てほしいんだけど、「野暮」はもともと日常性から大して離れていない。だから「つまらない」「どうでもいい」わけです。「変」ですらない。「いき」も日常性に近いけど、「いき」はその微妙さがむしろよい。

だから野暮→キッチュに至るには、まず「変」になるために日常性から離れる必要があると思います。「過度な野暮」はすでに野暮ではなく、「変」になっているということです。その上でその「変さ」が飛び抜けており、むしろ美的価値が認められるならキッチュになるということ。

「いき」・野暮というのは、芸術にはあまりいわないですよね。非日常かつ美的価値の高いものが芸術であるわけだから。もっと日常に近いものが対象なわけです。

たとえばこれは野暮。
http://flickr.com/photos/yuji/25556421/in/pool-iki/

どうでしょう。
経済学では物の価値の決定要因として、希少性(Scarcity)をあげますが、ここのテーマともある程度関連するかもしれませんね。
Tangoさん、みなさん、こんばんは。

鋭いご指摘ありがとうございます。

この図では、希少性と「日常度」に相関性があると思われます。ただ、ひとつ問題がありまして、実は「いき」なものが予想外に少ないのではないか、ということを考えています。少ないということは「非日常」になってしまう可能性があるわけで。まあ、頻度が少ないというだけで、日常には近い、という解釈もできます。

この図は、今後、日常性・美的価値図、またはEAV (Everydayness-Aesthetic Value)図と呼ぶことにします。
稀少性と日常度との間には負の相関関係がありますね。

野暮は稀少性が低く、「いき」・変・キッチュはこの順で稀少性が高い気がします(この順序については異論があるかもしれません。ただ、図の左下から右上にかけて稀少性の軸を引くと美しいかなと思いました)
ゆうじさん、Tangoさん、みなさん、

何をもって日常性と呼ぶのかでこんがらがってます。

”(希少性が)少ないということは「非日常」になってしまう可能性があるわけで。まあ、頻度が少ないというだけで、日常には近い、という解釈もできます。 ”

それがありなら、<キッチュ>だって日常に近いですよ。例えば<日常性>を<大衆性>というところでとらえるとするならば。
ゆうじさんの「粋が<日常>に近いわけ」をもう一度、簡単に説明して下さい。この図で言うところの<日常性>っていうのは、<常識>に近いのでしょうか?
まちこさん、

キッチュとして具体的にどのようなものをイメージしているのかな?

以下はハウ パー ヴィラの例です。
http://www-us.flickr.com/photos/tags/hawparvilla
これらは日常からは相当離れていると思うのですが。

特にこのCrab Ladyは必見。
http://www-us.flickr.com/photos/39657093@N00/14136819/
この晴れ晴れとした笑顔。どこかの美容院に行ってきたような髪型。

ところで、グロテスクという語があります。本来はキッチュと似た意味だったのが、最近では痛みや残酷さが含まれるようです。人類が刺激に物足りなくなって、表現がエスカレートしていったのでしょう。幽霊屋敷やホラー映画の怖いもの見たさに通じます。
Crab Ladyの笑顔は、「晴れ晴れ」というよりは、よく見るとどこか虚ろな感じがありますね。リンクが切れているようなので以下からどうぞ。
http://tinyurl.com/9fkqm
ゆうじさん、

むむむ。すごいですねー、ハウ パー ヴィラ(笑)。これはアミューズメントパークかなんかですか?1度行ってみたいけど、2度行きたくはないかも(笑)。夢見が悪そう…

おっしゃるとおり、リンクであげられた写真の数々は一見、とてもとても非日常的。でも、安っぽいでしょ?だからこそキッチュなのだとも言えますよね?この「安っぽさ」こそが(非日常ではない)日常とキッチュとを切り離せないものにしているのではないかと思うのです。もちろん、質的には高価なものであったとしても安っぽくキッチュなものというのもあります。

例えばこれ…
http://www.rakuten.co.jp/jewelplus/566752/567177/

子供向けのキャラクターであるはずのキティちゃんが、その役割とは不似合いな品質で形作られ、高価な値段を付けられるという状況におかれると、たちまち<非日常>になる。で、初めてキティちゃんがキッチュな風味を帯びてくる。

だけど、キティちゃんそのものはどうあがいたって<日常>ですよね?それと同じようなことがハウ パー ヴィラにも言えると思うんです。
 例えば自由の女神、キングコング、大黒様は、キティちゃんと同じように<日常的な>大衆文化の中に普通に浸透しているありふれたキャラクターでしょ?オリジナリティという意味において特に創造性が豊かなわけではない。で、これらをありふれた素材で安直に具現化して累積して、オリジナルの意味を希薄化することによって<非日常>ができあがる。
 クラブレディはよくできたキッチュですね、よい仕事だ!(笑)。これは上にあげたような知られたキャラクターではないけれど、「蟹」と「レディ」は上記のキャラクターよりさらに日常的です。日常と日常(陳腐と陳腐)が衝突して、より迫力のある非日常が形成された例だと思います。このように、キッチュを形作るピースのひとつひとつは常に大衆の意識の中にある<極くありふれたもの>なのだと思うのですよ。

結局のところ、いくら非日常的に見えても、キッチュは陳腐の域を超えないんじゃないでしょうか。超えてしまえば、それはもうキッチュではないのだと思います。だからこそ、ハウ パー ヴィラみたいな場所がありえるんじゃないかな?だって、あれが陳腐でなくなったら、非日常どころか一足飛びに<異常>の域まで達してしまそうじゃん。そんな場所、怖すぎるよ…

…むむむむ。しかーーーし。
考えれば考えるほど、わからなくなってきました。

私は、キッチュに表れる毒々しさを「本能むき出しの生っぽさ」だとも捉えていて、それを例えばハイアートと呼ばれるもの(本能を昇華して既に俯瞰している高次の段階)など比較して、非日常というよりも日常に近いんじゃないかとも思っていたのです。でも…粋や野暮という概念と並列にならべると、<本能むきだし>というのは非日常のことのような気もするし…うーん。でも、大人がアニメのキャラクターのストラップが付いた携帯電話を持っててもなんにも違和感感じないこの国でキッチュはまだ非日常と呼べるんだろうか…、揺らぐなぁ。。。 長くなっちゃってごめんなさい。ついつい…(汗)。
みなさん、こんにちは。暑いですね。

ところで、何が日常かは人それぞれですよね。

「どこまでを日常とすべきか」ということについて、とりあえず、週1回以上の頻度でその人の人生に関わるものを日常と呼べないでしょうか。もちろん、毎日見るものは日常です。週1回以下だと、少し非日常になる。年一回の祭りや、人生に数回の通過儀礼は完全に非日常です。

観光用の「名物」は、観光客にとっては非日常、毎日目にしている地元の人にとっては日常となります。

■まちこさん、

> キッチュは陳腐の域を超えないんじゃないでしょうか

うーん。陳腐だったらキッチュじゃないんじゃないかな。その陳腐さが突き抜けていればキッチュだけど。でもそこで突出するということは、やはり陳腐を越えて非日常になっているわけでしょ。
たかだか布地一枚 風呂敷は粋な域だと思う
口説き文句が粋で有ればフラレても格好い域だと思う

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