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野中広務―弱者に対する眼差し―コミュの毎日新聞:野中広務氏を囲み「闘いとしての政治/信念としての政治」

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シンポジウム:野中広務氏を囲み「闘いとしての政治/信念としての政治」


 元自民党幹事長、野中広務氏を囲むシンポジウム「闘いとしての政治/信念としての政治」(東大情報学環主催、毎日新聞社、NHK出版後援)が、このほど開かれた。「古い自民党」の政治家ながら、特異な位置を占める野中氏の歩みは、揺れる鳩山民主党政権下の今、どんな意味を持つのか。野中氏の基調講演、野中氏と姜尚中・東大教授、映画監督・作家の森達也氏の討論を抄録し、司会の北田暁大・東大准教授に解説を語ってもらった。シンポの全容は、3月末発売予定の『思想地図』第5号(NHK出版)に掲載される。【構成・鈴木英生、写真・梅田麻衣子】

 ◇野中氏の基調講演
 ◇被差別、戦争体験、政治家として52年2カ月、筋を曲げずに歩めた
 私は1925年10月20日、被差別部落で生を受けました。慈愛の深い両親に旧制中学へ入れてもらい、43年4月に大阪鉄道局に就職した。

 45年3月に召集された高知の部隊の近くには、特攻隊がいた。私より若い隊員が、チョコレートやたばこを「もういりませんから」とくれ、男同士で抱き合って泣く。戦争の残酷さを深く体験したわけだ。敗戦後は、捕虜になるか殺されるならと、仲間5人で割腹しようとしたが、上官が「この国が再び戦争をしないよう生き抜くのが、若いお前たちの仕事なんだ」。これで思いとどまった。

 復帰した職場では、私が採用した中学の後輩の衝撃的な言葉を聞いてしまった。「野中さんは大阪では飛ぶ鳥を落とす勢いだけど、部落の人なんだ」。私は、その後輩を自分が行きたくても行けなかった大学の夜間部に通わせていたのだ。ショックで、4日間のたうった。

 結局、自分の出自を知る町で一から出直そうと思い、翌年(51年)4月の園部町議選に立候補した。青年団の仲間に支えられて3期当選。その後、町長、府議も務め、革新府政と対決した。78年に28年ぶりの保守府政で副知事になり、1期4年で辞めた。その後は障害者福祉の仕事を続けようとしたが、竹下登さんに「地方自治のすべてを経験した君が(衆院選に)出なければ、地方を知らない2世、3世議員ばかりの国政になる」と言われ、57歳で国政の道に入った。

 その20年後、私は思った。小泉純一郎氏が、改革という名の下で日本を壊し続けることに抵抗しないのは恥ずかしい。そこで、記者会見で「小泉政治は間違っている。よって、私は議員を引退する」と表明したのだ。

 52年2カ月の政治生活を、筋を曲げずに歩めたことを幸せに思います。

 ◇強さと弱さ継承できなかった自民−−姜尚中氏
 ◇数の論理に対し保った両義的姿勢−−森達也氏
 ◇一つの風に流される怖さある日本−−野中広務氏
 司会(北田暁大さん) 野中さんで思い出すのは、1997年4月、沖縄の米軍用地特措法を扱う土地使用特別委員会委員長の時の「不規則発言」です。「この法律が、沖縄を軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないように、古い、苦しい時代を生きてきた人間として、国会の審議が大政翼賛会のような形にならないように、若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」。法律を可決させる側が、圧倒的多数の賛成の怖さを吐露した。右も左も、一色に束ねられた組織は必ず間違う。野中さんの政治信念は、特定のものの暴走や全体主義的なものとの闘いだったのでは?

 野中広務さん 「不規則発言」の一方、私は国旗国歌法案を強引に通した。不思議に思われるかもしれませんが、私は、私の代でやるべきことをしてきたつもりです。沖縄の特措法が9割を超える賛成で通った際は、62年に沖縄を初めて訪れた時の衝撃を思い出した。ある場所で、タクシー運転手がぱっと車を止め、ウワーッと泣き出す。「沖縄戦の時、あのあぜ道で妹が殺されたんです。アメリカ人に、じゃないんです」と。

 姜尚中さん 例えば、金大中・元韓国大統領は保守政治家だと思います。野中さんにとっての保守とは?

 野中 保守が守るべきものは、平和であり、国民を中産階級化することでしょう。自民党が約半世紀守ってきた道もそう。今の、自衛隊もどんどん海外に出るべき、教科書に不都合な過去は書くなと言う人を保守と呼びたくはない。北東アジアの傷跡の修復と信頼関係の構築こそ、真の保守の課題だろう。

 森達也さん 党幹事長や官房長官といった数の論理に埋没しそうな立場にいながら、その論理への危機感を持つという両義的な姿勢を、野中さんは保ってきました。

 野中 立場があって反対できないことも多かった。テロ特措法の採決では退席をした。古賀誠氏もです。後で亀井静香氏が携帯電話で「棄権するならおれにも言え」と仲間はずれを怒っていたが、古賀氏と示し合わせたわけではない。このように、退席で自分の立場は立場としつつ、事態を乗り切ったことはあります。

 森 前の戦争では新聞が民意を作ったが、戦後60年でメディアはさらに進化した。今後はネット主体で、より大規模なメディアによる民意形成の時代が始まる。つまり、より大きな暴走が始まる可能性がある。

 野中 国民は、事業仕分けをテレビで見て「政治家が見事に公務員をたたいておる」と思うが、私に言わせれば、財務省のシナリオで踊っただけ。こういうものに乗らないようにしないと、民主主義は進歩しません。

 姜 保守について改めて一言。なぜ、自民党はかくも弱体化したのか。自民党結党50年の番組に出た時、冒頭で中曽根康弘氏のVTRが流れた。その時、控室で同席した自民党の議員2人が「こんな年寄りが今さら何を」と話し、がく然とした。自民党は、自らの強さと弱さを継承できなかったと感じました。

 森 殺人事件件数は毎年のように戦後最低を更新するが、扇情的な報道で、多くの人は治安が悪化していると思いこんでいる。きっかけは、95年のオウムサリン事件だろう。関連で野中さんが果たした役割を問いただしたくもありますが、お話を通して、そうした立場の人の苦悩は理解できました。

 野中 日本はかけがえのない国だが、一つの風が吹いたら、サーッと流される怖さがある。過去の戦争がそう。事業仕分けでも本当に怖くなった。みなさんには、家族愛と地域の連帯感がなくなる今の流れの怖さに気づき、この国の良さを守ってほしい。これが遺言です。

 ◇野中氏の「政治思想」は「不正義の除去」と「不幸の減少」
 野中広務氏は、自らの政治家としてのキャリアやかかわった政策について、その全体性を見通す物語を拒絶しているように思われる。もちろん、弱者へのまなざし、平和といった点は、いささかもブレない。だが、たとえばオウム真理教への破防法適用の首相への進言や、国旗国歌法を本人がどう位置づけているのかは、ガードが堅い。

 私の考えでは、野中氏の「政治思想」には、特定の信念の暴走や全体主義的なものの否定と絡んで、二つの大きな軸がある。第一は「不正義の除去」である。戦前日本やイラク戦争のように、数々の歴史的な悲劇は「正義」の名の下に展開されてきた。他方、「不正義の除去」は、「正しくない」ことに対する共感可能性に基づき、その除去・減少を目指す。弱者の立場に立った不正義の除去をめざす発想は、差別と闘ってきた野中氏のライフヒストリーと深くかかわるように思われる。

 第二の軸は「不幸の減少」である。野中氏は、戦後自民党・保守の課題を「平和と中産階級の育成」だったという。と同時に野中氏の発想は、「まずは低所得の人たちが社会参加できるだけの経済的環境を整えていくべきだ」というボトムアップ型である。つまり、幸福の増大よりは、不幸の最小化で社会を活性化していくことを望む。

 これらの方向性は、独特の両義性を持つ。物理的に「悪いこと」ができないよう設計・統制された空間は、私たちの不幸を減少させる。しかしそれは、私たちを常に統制・監視していく技術でもある。その意味で、野中氏が国家公安委員長として、数々のリスク管理にかかわってきたのは理にかなっている。

 「正義の貫徹」と「幸福の増大」を明快に追求した小泉純一郎氏と、「不正義の除去」「不幸の減少」を独特の両義性をはらみつつ追求した野中広務氏。「90年代以降の新自由主義、リスク社会の広がり……」という昨今広く流布している図式では見えなくなる政治哲学的な問題を、ここに見ることができるのではないか。(談)

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 ■人物略歴

 ◇のなか・ひろむ
 1925年生まれ。京都府園部町議、町長、府議、府副知事を経て、衆院議員当選7回。自治相、官房長官などを歴任し、03年の衆院解散と共に引退。著書に『老兵は死なず 野中広務全回顧録』など、共著に『差別と日本人』など。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20100121dde018040027000c.html

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