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すべての愛についての考察コミュの愛する人を守りたい 〜無条件の愛についての考察〜

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私が、無条件の愛と聞いて一番先に思い浮かぶ小説は

三浦綾子さんの「塩狩峠」です。

これは、もう説明の必要はないでしょうが。。。

自らの肉体を文字通り、命綱にして、

他者の命を救ったという小説です

主人公は実在の人物だそうです

http://www.zusi.net/meisaku/siokari/miura.htm

人には、我が身を顧みないほど純粋で激しい愛が内包しています

いじめ自殺、親子間殺人など

まるで、愛するという意味を忘れてしまったかのような、

こんな殺伐とした世の中だからこそ

もう一度、思い出したい

人を愛するということの重みと、人の命の尊厳を

無条件の愛について考察していただきたいと思います

コメント(24)

○ささき、に投稿していただきました
ありがとうございました。m(__)m


古事記からです。

日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃・弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の和歌



さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 
         炎なかに立ちて 問ひし君はも 


第12代景行天皇の皇子、日本武尊は上総(かずさ)の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(今の横須賀市)から船で渡ろうした。しばらく進むと、海の神が波を立て、風を吹かせ、船は今にも沈みそうになってしまう。そのとき弟橘媛命が日本武尊にこう言った。

「私が海に飛び込み、神の怒りをなだめます。あなたは、どうか立派に役目を果たし終え、大和の地にお帰り下さいますように。」

そして詠んだ歌が上の歌。意味は、


(相模の国の野原で、迫りくる火から私をかばい、助けようとして下さったあなたの気持ちが忘れられません)

日本武尊が東征され相模に入った時のこと、賊軍が欺いて日本武尊一行を野に誘ひ火を放った。日本武尊は火に取り囲まれながらも剣で草を刈り払い、愛する妃の名を呼び安否を気遣った。弟橘媛命は、日本武尊の思いに今度は自らの命を捧げようとしたのである。

 そうして、波の上に、菅畳、革畳、絹畳を八重に敷くと、忽ち身を躍らせて海中に飛び込まれたという。大波が姫を飲み込むと荒波も風も嘘のように静まり、船は、無事海を渡り終えることができた。

 それから七日後、姫の身につけていた櫛が浜に流れ着き、日本武尊は姫の墓を作り、そこに櫛を納めた。 

 日本武尊の一行は、さらに陸奥の国、常陸の国、甲斐の国へ向かい、乱暴な神々をことむけ、やはらげ、沈めて、与えられた使命を見事完遂して 帰る途中、関東を見渡す峠に登ると、はるか海を見渡し自分の身代わりになって海に身を投げた弟橘媛命のことを思い「ああ、吾が妻よ。」と叫んだ。
↑
愛コミュの宣伝、ありがとです。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=375252663&owner_id=3840313&comment_count=3
こんにちわ^^。
美しい愛の形に、水を差すつもりはアリマセンが、考察ということなので、私の考えを書かせていただきます。

私は、、、犠牲愛という呼び方は、好きではありません。

無条件の愛、もしくは、奉仕の愛、の方が好きです。

豪州にある、日本人相手の結婚式を行う教会で、日本語を話す牧師さん(日本人タレントの結婚式をやったこともある人とか、・・・)が、日本人のカップルに向かって、結婚する夫婦は、相手へ「犠牲愛」がなくてはならない、という話をしたのを聞いたことがあります。
私は、正直言って、吐き気がしました。
犠牲愛、つまり、自分を犠牲にしてでも、相手を愛しなさい、ということでしたが、これは、誤解を生じると思ったからです。
英語で言う所の、Unconditional Love を 牧師さんは、話されたのだと思いますが、、、。
(sacrifice vs unconditional )
「自分を犠牲にする覚悟」それでは、時には、歪みが生じ、自分に無理を強いれば、関係は破綻します。関係を良好に保つためには、たとえ自分の望むところでなくても、相手のために犠牲になる、という視線の考え方ではなく、あくまでそれは、
自らの望むところであるべきだと、私は思うのです。
それであってこそ、シコリが残らない、相手に対する愛です。
結局、「喜んで犠牲になる」と言う人たちの犠牲愛は、自らが”望んで”のことです。望まずして無理して犠牲になるということは、無念を残します。もしくは、犠牲になるから、何かを代わりに期待する・・・そういうことを含みます。
これらの場合、一見、犠牲=愛に見えるかもしれないけれど、そうとも限らないと思うのです。
犠牲になる、というと、対価を払う、そんな感じがしますし、私は、それよりも、自らの愛で・・という、全てのしがらみ抜きで、無条件と言う方が、好きなのです。
ですので、見返りを期待しない、無償の愛・無条件の愛という方が、私は好きです。
「塩狩峠」にしても、これは、ご自身が望んで身を尽くしたこと・・・。嫌々、犠牲になったわけではない、それが肝心なのではないかと、思います。
ここでは、犠牲=命という対価が払われた、ことによって、他の人が救われた、とも言えますが、身を投げ出した人は、対価を払ったとは、思っていないでしょう・・・。
みんな、神様にお願いするときに、「○○を止めますから、変わりに△△を叶えてください」とかって、拝みますが、、、これは、愛というよりトレードなのではないですしょうか・・・。
ユダヤ教の昔から、いえ、日本でも昔から、人柱など、何かを生け贄にして、犠牲を出して神に願いをかなえてもらう、という考えがあるため、みんなそれがあたりまえと思っているかもしれません(これは、まさに sacrifice ですよね。unconditional ではないです。)
が、神の愛は、そんな交換条件で決まるような愛ではないと、私は思うのです。
(*こんな宗教的考えがあるから、命をもって償う、なんていう考えが残ってしまうんでしょうね・・・。)
たとえ、犠牲を払っても、願いが、叶うこともあれば、叶わないときもある・・・。それは、相手(神?)次第というより、自らの姿勢・信念へ戻ってくるだけのこと・・・。
私はそう思います。

日本武尊と、弟橘媛命のお話も、犠牲を惜しまなかった愛ではあるのでしょうけれど、これから(21世紀)は、(自爆テロを非難する人たちがいるならば、特に、)そういうタイプの犠牲を払わなくても、愛が広がる世の中であって欲しいと思います。
*自爆テロを起こす人たちの中には、政治的戦略でプライドを誇示したいタイプの人と、祖国や自分の民族、愛する家族を守るため、”身を犠牲”にするというタイプがありますが、表面だけみたら、後者は、上記と同じ犠牲愛になりますよね。
(「塩狩峠」とは違う、と思いたいですけど、ね。)

※「無条件の愛」と「犠牲愛」は、そもそも違うものなのかもしれませんね、そうだとしたら、ごめんなさい。
「紹介返し」ありがとうございます。

書いているうちに少し内容を付け加えました。弟橘媛命の歌に対する、日本武尊の歌も入れてみました。
そういえば、先日の自殺を図ろうとした女性を助けようとして急行電車にひかれ死亡した宮本邦彦巡査部長をおもいだしました。私はその日、電車が止まり、足止めを食らった一人。

翌日、その事故の真相を知りました。地元小学生にも大変慕われていたらしく、子どもの総意で回復を祈って千羽鶴を折ったといいます。残念ながら帰らぬ人になりましたが、地元では宮本邦彦巡査部長の石碑を建てる声が上がっているとか。

人の死は、悲しく、その家族の思いを思うといたたまれませんが、自分の身の危険の顧みず、人を救った行動には敬服。事件の多い世の中に何か大切なことを教えてくれた気がします。
4:○ささき、さん

以下の部分が付け加えですね。


↓        ↓         ↓

そして弟橘媛命を偲び詠んだ歌。

 君去らず 袖しが海に 立つ浪の 
         その面影を 見るぞ悲しき

その地(群馬県碓氷峠、千葉県木更津市太田山と足柄坂、神奈川・静岡県境と幾つかの説有あり)は、後に「吾が妻」、吾妻(吾妻・東)といわれるようになった。多分、群馬ではないだろうか。



<参考>http://srg.gateau.jp/ogiwara/photo/h_hasirimizu.htm
弟橘媛命を祭る走水神社(京浜急行馬堀海岸駅から観音崎行きバスに乗り、「走水神社前」下車)写真右
そうです。自己犠牲というには、身をささげる究極の愛。特攻隊なども思い出してしまいますが、やはり悲しみが付き物ですね。しかし、残された者は、その思いを胸に生きる事になるわけですが、仮に命をささげる究極なことでなくても、恥じない生き方をしなければと思います。

「自己犠牲」というより、確かに「無償の愛」、「無条件の愛」という言い方がいいのかもしれませんね。
うーーー、
ジャカランダ♪さんへの書き込み、
すごく長く書いたのに、誤作動で全部消えてしまった。
がっかり。

結論だけ、述べますと、わたしも無条件の愛が適当かと思います。
ご指摘に感謝!!
気を取り直して、もう一度、書きます。爆
犠牲愛というと、これは第三者の視点、とくに残された肉親への配慮を込めた意味合いですね。
そういう感覚が私の中に自然に染み付いていることを今回、発見しました。

そして

こうも思ったんです。

愛とは

いかなる状況であろうとも
無償であり
見返りを求めず
与えきりであるという原則 

一切の言い訳なしで
いかなる特殊事情さえも清々しく拒否しうるもの
強さ、純真さゆえに、人々の心を打つ
宮本さんも決して名誉心から起こした行動ではないと思います
助けたい
その一心だったと思います
自分が犠牲になって助けなくてはならない
ではなかった。
ですので、ここは愛を与える(←この表現さえも、力が入りすぎかも…)側の視点に立って、
無償でもいいですが、対価やいかなる条件をも含まない「無条件」を採用したいと思いました。
感謝 m(__)m
>ビラーゴさん、 ○ささきさん、
どうも〜^^〜。
あ〜いつの間にか、トピ、タイトル変わってました・・・。
無条件の愛、、、
ありそうで、なさそうで、、、でも、きっとみんな出会ってると思います。
朝陽が昇る、、、夕陽が沈む、、、荘厳な景色に胸打たれているとき、きっと私達は、愛を感じてるのだと思います^^。
自分がどうであれ、なんであれ、包み込まれるその偉大さに・・・。
地球は回って明日も朝が来る、今日、何が起ころうとも−−、・・・無条件の愛って、そういうものなのかもしれませんね。
本当に大切なものって単純なことなのかもしれません。
それを取り戻すために、言葉を尽くしているだけなのかもね。
うーん、素晴らしい展開でした、読んでて・・・。

わたし、ジャカランダ♪さんのおっかけやってんじゃございませんが、不思議とカラムことになってしまいます(^^)。

sacrifice →  これって旧約的 砂漠的 アミニズム的
unconditional→ これって新約的 世界的 普遍的

やっぱり、犠牲より、無条件ですね、、。

素晴らしい展開でした。
ずぅーと 読ましてもらってましたが、さすが、愛コミの巨匠達! さすが!です。 愛 愛 愛    愛がみんなを1つにするんだぁー☆☆
犠牲愛、無条件の愛についての考察を読んでるうちに、好きなバンドXTC(ハンドルネームにしてます)の『The ballad of Peater pumpkin head』という曲を思い出しました。
これ殉教者の唄で、人々に愛を説いて回りますが、最期は権力者によって磔にされて燃やされちゃいます。

こういうのって、ピーターが燃やされる様を見てた人々には「無条件の愛」よりも「犠牲愛」の方がしっくりするんじゃないかな?と思いました。


決してジャカランダ♪様の意見にケチつけてる訳じゃありません。気に障ったらご容赦して下さい。
「塩狩峠」大好きな本です。
主人公が結納を前に死んでしまうという結末の話が、
実話に基づいて書かれたということにショックを受けました。

そして、宗教というものが死をも恐れないほどの
自己犠牲を可能にするものなのかな、と
一種の恐れと共に、崇高なものへの憧れのようなものも
感じました。

いま思うには、主人公のこのときの心境は
どのようなものだったのかな、ということです。

婚約者への愛よりも、
より公的な愛を 迷うことなく選び取ったその心は、
執着のない自由な心であったのではないかと思うのです。

だからこそ、その行為自体で、
多くの人々に愛への目覚めを与えることができたのではないかと思います。

私自身は、理想としては、このような心境に
一歩でも近づきたいな〜〜と思っていますです。
コヴァXTCさん
まず、あなたさまの勇気に敬意を表します。
このタイミングにこの書き込みは、とても、やりにくいはず。
大縄とびの縄をひっかけてしまう恐れも、顧みず、いや〜さすがです。
そうなんです。
全員一致なんて、かえって胡散臭いです。はい。そう思います。

『The ballad of Peater pumpkin head』という曲を知らないので、気が向かれてお暇なときにでも、歌詞アップしていただくと、より理解できるかなと。m(__)m

最期は権力者によって磔にされる。

それで連想するのは、愛のご本家、イエス=キリストですね。
では、あれは犠牲愛だったのか。

すごい例を引いて、ちょっとプレッシャーかかりますが、

やはり、あの迫害を目の当たりにした聖母マリアさまは、お辛い思いをされたと思うし
弟子たちにとっても、やはり犠牲だろうと思いますね。

しかし

イエスはどうだったのか。

犠牲と思っていたか否か。

これは、本人に聞いたことがないから、あれですが、

やはり、宮本さんではないけれど、
自分が犠牲になってとは思ってないのではないかと。

ときの権力はしばしば、宗教のカリスマ性を利用する。そして、都合が悪くなると捨てる。命さえも葬るというパターンは、結構、多いと聞きます。

先日、墨攻という映画をみてきましたが、あれなんかも、兼愛を説く墨家を利用するだけして、命を狙いましたものね。

http://mixi.jp/view_item.pl?id=704813

ですので、

客観視すると犠牲の面もやはり否定できない。

ご本人は、犠牲とは思ってないかもしれない。

その問いはベールの向こう側の世界のこと、永遠の謎なのかもしれません。

いかがでしょうか。
もりっちさん

「塩狩峠」
たしか、キリスト教でしたか。

あの壮絶な描写は、未だに心の奥に引っかかってます。

死をも恐れないほどの自己犠牲に
一種の恐れと共に、崇高なものへの憧れ

わたしもまた、同じ感想を持ちました。

たしか、あの状況では、だれかが、「あの」決断をしない限りは、全滅だったんですよね。
婚約者への愛よりも、公的な愛を 迷うことなく選び取ったその心は、 突然に降って沸いたのではなく、そのような生き方をされていたということなのでしょうね。

死にざま 生きざまを表す

といいますから。


多くの人々に愛への目覚めを与えることができた。
そういう意味では、愛の永遠性を証明した事件だったのだと思いますね
確か、20数年前、私が学生時代に、アメリカで飛行機が湖に墜落、冬の冷たい海に乗客が投げ出された事故が報道されたことがあります。

救助ヘリコプターがロープを湖に投げるとそのロープは、壮年の男性の近くに落ちました。そのロープを掴み、引っ張り上げてもらえれば助かるものを、その男性は近くの女性に譲り、またロープが降りてくると、また別の方にロープを譲り、それが何回か繰り返された後、次にロープが降りた時には、その男性の姿は湖面にはありませんでした。


突然の事故、その日朝起きたときは、事故が起きるなんて予想も付かない。突然の事故に遭遇して、その場で自分より人に命綱を渡す。にわかにできる行為ではありません。創造するに、きっと常日頃から生活の中でも愛あふれる生き方をされていた方だったのでしょう。

「もっちり」さんがいう「より公的な愛を 迷うことなく選び取る」なかなかできることではありません。まさに、ビラーゴさんが言う「死にざま 生きざまを表す 」ですね。
冷たい海と遭難といえば、映画「タイタニック」を思い出しました。
わたしが印象的だった場面は、まさにあの豪華客船が真っ二つに割れ、ガタっと音を立て、斜めになった。乗客はパニックに。そのとき、バイオリンだったか、バンドだったか、音楽を奏でる場面です。これが俺たちの仕事なんだ、最後の仕事だといわんばかりに。
死のギリギリまで、人々の心を癒すことに徹することができる潔さ。

そして、また、こういうお話もありますね。
ある棋士が、対戦中に地震や災害が起きても、対戦を続けると。なぜか。そこに使命があるからと。自分の人生のすべてがあるからというんですよ。
これも、すごいなと思ったのでした。
虹オーロラさん
そう思います。瞬間に決まると。ほぼ、反射的にそうしたのだと思いますよ。
なので、また、犠牲か無条件かを考察すると、
個と個の場合は、確かにその方に近しい方は悲しいけれど、まだ、納得がしやすい。ある意味で悲劇性よりも永遠性を有する、だから無条件かな。
そして、権力者がからむと、個人の愛が無残に踏みにじられる、確かに物語性を有するけれど犠牲的要素が強くなるかな。
ちょっと、判断に苦しみます

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