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天田愚庵コミュのいわき民報 (その3の2)

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いわき民報 昭和40年1月19日号より

「愚庵の家を訪ねて」 (続き)
 青木淳


 最初は清水寺に通ずる産寧坂(通称三年坂)に居を構えていたが、和尚の親友であった京都市下京区の藤原忠二郎氏などの勧めでこの桃山に立命館の創設者中川子十郎 当時京亜同文書院長の根津氏と三軒家を建てたとのことで中川先生の家などは修築して瓦葺となり、現存しているが、愚庵の家は修繕もしないため非常に腐朽している有様で、平に移築することでできるだろうかと、心配される有様である。しかしあの家をこぼち和尚が礼拝していた観音菩薩像を持って行けたら、地下において和尚も喜ばれるのではないかと思う。

 吉村氏は親切に案内してくれたが、庭など荒れているが、手入れすれば小名園になると思う。庭に流るる小川も、今は水一滴も流れていないが、生前和尚が河鹿を飼い、その鳴声を聞き喜んでいたという。河鹿が逃げぬように金網を張っていたと、吉村氏も当時のことを思い出している。吉村氏七歳の時、和尚が死なれた時、町の人々が非常に悲しみ、相談の上、屍を嵯峨の天竜寺まで徒歩で運んでいき、そこに埋められ、町全体総がかりであったという(現在墓は嵯峨の鹿王院にある)とにかく町全体から信頼されていたことは吉村氏の話からも窺い知ることができる。当時、この庵に有名歌人や俳人が訪れ、信誼を深くしたことは誰も知っての通りであるが、同郷の偉人がこうした山城の桃山で数奇な一生を終えられたことを思い感慨無量なものがある。

 家の東北の畑の中に葉も落ち尽くした柿の木によく熟れた実がたくさんなっていたが、印象的であり、和尚と柿とはここにも因縁があるらしい。管理をしている吉村氏に再訪を約して別れてきたが八日の日も斎藤氏が多忙のため連絡が取れられなかったが、斎藤氏も単独でこの家を見てきたと京都を去る前の夜電話で聞きましたが、平に移築するに当たって大変参考になったことと思い、この仕事に対し私も何とかお役に立たして貰いたいものと来年も来年も期待している次第です (京都にて)。 

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