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備後の歴史を歩くコミュの安国寺恵瓊と国泰寺 (広島市西区己斐)

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安国寺恵瓊と国泰寺 (広島市西区己斐)

 文禄3年(1594)、恵瓊は安芸安国寺(現不動院)がありながら、築城中である広島城の南に新しい安国寺を建立した。後に広島城に入封した福島正則によって寺名は国泰寺に、また臨済宗から曹洞宗への改宗も行われた。山号は鳳来山といい本尊は聖観音菩薩である。安芸安国寺(現不動院)に建てられていた方丈は、慶長4年(1599)恵瓊が京都建仁寺へ移築した。その方丈は文化庁データベースに、建立年は室町後期、文明19年(1487)と記される大建築物で、明治32年(1899)4月5日、国重要文化財に指定されている。現在国宝に指定されている不動院金堂(安芸安国寺仏殿)も、ひょっとすると、当時荒れ果てていた建仁寺に方丈と共に移築するつもりだったのかとも思えてしまう。その理由は、新たに築城が進む広島城に近い場所に、恵瓊自身が居住する新安国寺を建立したと見てとることが出来るからだ。当時はここらが海岸線で、広島城に入城する入川も造られており、最も重要な場所だったとも思える。広島城は毛利輝元が天正17年(1589)から築城を開始し、慶長4年(1599)に落成した。広島城築城と新安国寺の建立は計画的につながっているように思えるし、京都五山に、より強い力を発揮するために旧安国寺(現不動院)の建物を移築させることで建仁寺の修造を完成させようと考えていたのではないだろうか。ただ、方丈が移築された文禄3年というと、恵瓊による安芸安国寺(現不動院)三門の建立年と同じで、かたや方丈を取り払い、一方で新たに三門を建立する事実はどのように解釈すればいいのか見当も付かないが、新安国寺建立の事実は、広島城築城にともない、こちらを新たな拠点にするつもりだったことは違いないと思う。

 新安国寺(国泰寺)の創建当初の規模はどうだったんだろうか。現在の地図で見てみると、旧市民球場南の東西を結ぶ道路は、原爆ドーム前駅から紙屋町−八丁堀にかけては広島城の外堀で、南進する本通もかつては西堂川という入川であった。そして現在「白神社」のあるANAクラウンプラザホテル一帯が新安国寺の寺領であった。南御門を正面に見据えるまさに玄関とも言える地に恵瓊は新安国寺を建立したのだ。

旧寺地
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E132.27.33.647N34.23.13.681&ZM=10

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は防長二カ国へ減封され、首謀者と見なされた恵瓊は斬首された。輝元に替わって安芸・備後50万石に入封した福島正則は、広島城の整備を進めるとともに、自分の弟である普照(ふしょう)を新安国寺に入れ国泰寺とした。旧安国寺は正則の祈祷僧である宥珍を入れ、臨済宗から真言宗に改め、不動明王を本尊として不動院と改称させた。関ヶ原では徳川家康に大貢献したはずの福島正則であったが、家康没後元和5年(1619)、幕府に無断で広島城の石垣を修復したことが武家諸法度に触れて改易となり、信濃・川中島4万石あまりに大減封させられてしまう。安芸・備後の社寺領をことごとく没収し、これが原因で社寺を荒廃させ悪名をはせた福島正則であったが、なおも豊臣家を重んじる正則に対して、徳川家は天下普請と称し、江戸城の他、名古屋城普請などにも参加させ、それが目的だったように広島藩の財政は急激に悪化する。社寺領の没収は幕府の無理難題な要求に応えるために仕方がなかったのであろう。酒豪だった正則が川中島に移封後、正則を慕って三原の蔵元が毎年新酒を送り続けたというのは「旭菊水」だった。

 福島正則の後、安芸国には紀伊和歌山城主・浅野長晟(ながあきら)が、また備後には水野勝成が入封。国泰寺は浅野氏の菩提寺となり、さらに曹洞宗大寺へと発展した。恵瓊が建立した伽藍は幾度かの火災で焼失したが、その都度浅野氏によって復興された。昭和20年の原爆で壊滅するも同地に再建されたが、昭和53年(1978)、平和大通り「100m道路」の拡幅により、慶長から続いた寺領を後にして現在地である己斐に移転した。境内には恵瓊と秀吉の遺髪塚や浅野長晟、また赤穂浪士縁の墓も移されている。

現在地
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E132.24.47.322N34.24.40.339&ZM=8

 大正12年に編纂された「広島県史 第二編社寺志」には「号鳳来山洞雲禅院 興雲寺(正しくは雲興寺)末」「本堂十一間、八間」と記される。これは桁行十一間、梁間八間ということで、一間とは寸法ではなく、あくまで柱間の数を数えるが、とてつもなくでかかったことがうかがえる。雲興寺は福島正則のお膝元尾州尾張にある寺で、弟普照が住持を務めていた。国泰寺略記によると、「この地(旧国泰寺)にはすでに霊仙寺という寺があり、文禄元年(1592)4月、豊臣秀吉が朝鮮出征の途中、広島に立ち寄り、この寺で恵瓊らと清遊した。文禄3年(1594)豊臣秀吉公が朝鮮から帰国、霊仙寺を大改築して大伽藍を創建し、臨済宗安国寺とした。・・・慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉公が薨去、恵瓊はその遺髪を分けて、五輪塔を築き安置した・・・」とある。広島城総号案内に記載された毛利時代の城下町割之図には、そこには「安国寺」と書き込まれており、寛永時代広島城下図はそれが「国泰寺」と改称されていることが確認できる。

 備後安国寺から始まり、恵瓊の足取りを追って、また禅宗様仏殿の魅力に取り付かれたように九州から京都まで足を伸ばしてきた。時の権力者に庇護され禅林京都五山の最高位にまで出世。また僧侶でありながら伊予6万石の大名として関ヶ原の戦いにも出陣。卓越した禅宗様の新築・移築技術を持ち合わせた恵瓊という人物に興味は尽きない。何か恵瓊に関する情報があればぜひ紹介していただきたい。恵瓊が移築した京都建仁寺方丈裏に建つ恵瓊の墓を見忘れて、ここで紹介出来なかったことが残念でならないが、次回は必ず訪れたいと思っている。

 最後に、かげとらさんからいただいた安国寺恵瓊の遺髪塚について「僧侶の遺髪って?」という疑問をこの話のオチにしたい。


写真

左:国泰寺山門
右:本堂

コメント(6)

国泰寺

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左:中央は秀吉、向かって右が恵瓊の遺髪塚 左は福島正則の弟普照の墓
中:赤穂義士追遠塔
右:右は大石内蔵助の妻「りく」、左は三男大三郎の墓
国泰寺

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左:恵瓊遺髪塚の裏側 中央に「瑤甫(ようほ)恵瓊」と読める
中:旧国泰寺愛宕池跡 広島市中区中町
右:   〃      
国泰寺

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左:旧国泰寺跡 白神社
右:昭和17年当時の国泰寺境内図
国泰寺

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左:毛利時代芸州広島城町割之図 「安国寺」とある。
右:寛永年間(浅野時代)広島城下図 「国泰寺」と改称されている。

広島城総号案内より引用した絵図に「○」を付けた。
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左:不動院にある福島正則の墓。国泰寺には見あたらなかった。
右:広島城天守からみた武田山。かつてここに安芸武田氏の居城銀山城があった。

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