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備後の歴史を歩くコミュの茅の輪神事について

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茅の輪神事について

ひと月の終わりの日を晦日といい、一年の最終日となる12月の晦日を大晦日という。大晦日には年越しの祓を行い、一年の汚れを清算して新年を迎える。清く新年を迎え、半年が経過した6月の晦日は「夏越祓(なごしのはらえ)」を行う。半年分の汚れを祓うお祭りが、特にスサノオを祭神とする神社で祭祀される。この日にあわせて茅の輪を作り、その中を潜ることで人は祓い清められ、夏バテせず暑い夏が無事に越せるのだ。

元明天皇は和銅5年(712)に古事記を完成させ、翌年には風土記の編纂を各国に命じた。風土記編纂の命を受けた各国は完成させ撰上したと思われるが、原本はどれも残ってなく、写本では『出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が現存するのみである。

備後国はというと、残念ながら写本すら目にすることはできない。しかし、鎌倉時代に卜部兼方が記した日本書紀の参考書『釈日本紀』に、「備後国風土記逸文」として「蘇民将来」の物語が記載されている。少なくともこの時代までは『備後国風土記』が存在し、卜部兼方はそれを読んで『釈日本紀』に引用したのである。

釈日本紀巻第七 素戔嗚尊宿ヲ於衆神ニ乞
備後国ノ風土記ニ曰、疫隈国社ハ昔シ、北海に坐シ武塔神、南海神ノ女子ヲ輿波比(よばい)ニ坐シニ、日暮レヌ。彼ノ所ニ蘇民将来二人在キ。兄ノ蘇民将来ハ甚ダ貧窮、弟ノ将来ハ富饒ミテ、屋倉一百在キ。ココニ、武塔神宿処ヲ借、惜シミテ貸サズ、兄ノ蘇民将来借奉ル。即、粟柄ヲモチテ座トナシ、粟飯等ヲモチテ饗ヘ奉ル。既ニ畢テ出坐。後ニ、年ヲ経テ八柱ノ子ヲ率テ還来テ詔ク。我、将ニ之ヲ奉ル。為スニ報答シト曰、汝ガ子孫、其ノ家ニ在リヤト問給。蘇民将来答テ申スニ、己ニ女子ト斯ノ婦ト侍ト申ス。即チ詔ク、茅ノ輪ヲ以テ腰ノ上ニ着ト詔。詔令ノ隨ニ着ク。即夜ニ蘇民ト女子一人ヲ置キテ、皆悉クコロシホロボシテキ、即チ詔ク吾ハ速須佐雄ノ神也、後ノ世ニ疫気在ラバ汝蘇民将来カ之子孫ト云ヒテ茅ノ輪ヲ以腰ノ上ニ着ケヨトノタマウ。詔令ニ随着ク、即、家ニ在人ハ将ニ免レシト詔

さらに卜部兼方は「先師申して云うに此則ち祇園社の本縁也」則ち、疫隈国社が祇園社の本社だといっている。祇園社とはいうまでもなく京都の祇園、八坂神社である。その本社が『備後国風土記』で紹介された疫隈国社だといっているのである。では、疫隈国社はどこを指すのであろうか。備後国にスサノオを祀った神社は数多くあるが、鞆の祇園さん(沼名前神社)、新市町戸手の天王さん(素盞鳴神社)、三次市甲奴町小童(ひち)の祇園さん(須佐神社)を備後の三大祇園という。今となっては特定できないが、疫隈国社の茅の輪神事を京都に運んだのは吉備真備である。吉備出身の吉備真備は『備後国風土記』を読んだだろうし、その前からこの話を知っていたのだろう。茅の輪を腰に着けて「我は蘇民将来の子孫」と唱えれば疫病から逃れられるということを吉備真備は知っていたのだ。京都で疫病が流行った時、一も二もなく備後から疫隈国社(スサノオ)の御分霊を京都に運んだのだ。備後から京都に行く途中兵庫県の広峰に寄り道し、その地にも御分霊を鎮座させた。これが今の広峰神社である。京都では八坂の地に鎮座させた。効果があったのかどうかは知るよしもないが、多分絶大な効力を発揮したのだろう。蘇民将来の茅の輪神事は全国に広まっていったのがその証である。

6月晦日はすでに過ぎたけど、しばらくは各神社の境内に茅の輪は置かれているだろう。見つけたら備後が発祥の茅の輪を潜ってみたらよい。夏バテせず秋を迎えられること間違いなし。吉備真備もきっとそういっている。

コメント(3)

『茅の輪の神事の実態に迫る!1』

茅の輪の神事は、牛頭天王=素戔嗚の『血の輪』から来ているそうです。

「牛頭天王の血の輪は、天然痘の防疫技術として確立された」と、皇祖母神・天照大神の神託を下す神事を世襲する、神功皇后ゆかりの日の巫女の神道を母系継承する、息長氏の姬姓斎皇家に伝わっているそうです。

息長氏は、神功皇后=息長大姬、応神天皇の神話で知られ、継体天皇、舒明天皇=息長天皇、天智天皇、天武天皇、などがその血脈を受け継ぐため、天武天皇は皇統にとって最も尊い母方の家として、公家の最高位=真人の筆頭に据えたものの、母系の斎皇家を唐の侵略から守るために、父系の家に見せ掛けて、息長氏を仕立てたのだそうです。

先代の日の巫女の王=斎皇・耀姬(あかるひめ)様のお話では、息長=息が長いとは、製鉄に必要な炭火の火力を得るための空気を吹き込む鞴のカラクリの秘術に由来し、本来は素戔嗚=帥升=製鉄王を指すキーワードなのだそうです。

息長氏の父系の祖先は天日矛=素戔嗚ですから、製鉄士族の息長氏を名乗っても不自然ではありません。ただし、古い時代の倭国は妻問婚の母系社会なので、父系の継承を重んじる皇室の祖先すら、元を辿ると母方の皇祖母神の家、つまり姬姓斎皇家に行き着くため、皇統を生んだ誓の男神・素戔嗚ではなく、女神の天照大御神を皇祖神と規定しているのだそうです。斎皇家が母系で伝える姬姓が『日本の国姓』とされることは、日本書紀私記に言及があります。

息長氏の系図があまりにも断片的だったり、いつの間にか自然消滅したように見えるのも、父系の氏族名を仮冒しているからだそうです。そして、蘇我と書いても素戔と書いてもソガと読み、斎皇家の男衆=素戔嗚直系の父系の一族が蘇我氏の正体だそうです。だから蘇我馬子が自分に敵対した天皇を暗殺しても、クーデターとみなされなかったわけですね。天皇=大王よりも格上?の、皇祖の一族を束ねる重鎮なのですから。

また、蘇我氏本宗家滅亡は『屠蘇説話』になっていて、フィクションなのだそうです。皇祖大兄皇子の荒魂が蘇我馬子、和魂が聖徳太子=厩戸皇子として説話仕立てになっているのだとか。素戔嗚は、台風の風水害をもたらす荒魂の破壊神の名で、同一神の台風の慈雨による農作物の再生をもたらす和魂は、熊野や気比で別名の食物神として祀られています。これと同じ設定だそうです。

物部守屋は呪いの人形を作りますが、宿敵の蘇我馬子ではなく、皇祖大兄皇子= 押坂彦人大兄皇子の人形を作ったことになっています。ニックネームの、「我は皇祖神素戔嗚の蘇り」=蘇我の馬子ではなく、御本名の方で呪ったわけですね。この皇子は事績不明なのに、当時の歴代天皇より広大な墓域を持つ古墳に葬られています。正体が蘇我馬子=聖徳太子なら当然の扱いでしょう。

そして、聖徳太子像が長大な布に包まれてグルグル巻きの封印状態で保管されてきた理由も明らかです。お屠蘇を飲んで「鬼は外」と言って病魔を払う風習のルーツとなった、屠蘇説話の疫病の祟りをもたらす怨霊ですから、封印して聖徳太子と美化し賛美して祀ってあるわけです。
『茅の輪の神事の実態に迫る!2』

素戔嗚が牛頭天王=疫病神として知られるのは、姬姓斎皇家では、男子は巫女神道の継承に不要なので、14歳で成人すると家から外に出されて、神官や僧侶や修験者になるだけでなく、医者になる者が多いからだそうです。

鞆浦は、息長大姬が神社に鞆を奉納したことが名前の由来で、妹の一族は都に戻らず備後に残り、坪生庄は斎皇家配下の神戸の荘園になったのですから、斎皇家の男衆の医師団が、備後の神社を拠点に、天然痘対策の『蘇民将来』説話を流して人々を救ったのは当然のことと思います。

天然痘ウィルスは牛由来の人獣感染症を起こしますが、人間同士で感染する致死率の高いウィルスと違って、もとの牛の天然痘のウィルスに人間が感染しても、症状が軽くて済むそうです。

そこで斎皇家の医師団は、天然痘に罹った牛の首を切り落として牛頭天王として神棚に祭祀し、ウィルスを含むその血液を丹=水銀朱で防腐処理して丸い輪の形のゲートに塗って血の輪=茅の輪とし、これに触れながら潜ると、種痘と同じ原理=病原性の弱いウィルスに触れることで免疫を獲得できる、としたわけです。

また、京都の祇園の神社では今も、赤い文字を書いたお守りの札を配布していますが、あれも牛の血と丹を混ぜて書くのが正式なのだそうです。水銀は現代のワクチンにも保存剤として使われています。

素戔嗚から牛頭天王が派生した理由、蘇我と蘇民や屠蘇=病魔退散と茅の輪の関係を、ここまで綺麗に体系的に説明できる人は、斎皇家の斎女様たち以外におられません。茅の輪が迷信ではなく、本物の効力を持つ防疫結界技術で、病魔退散のお守りのお札も、触れば弱化ウィルスに触れて免疫ができる、本物の効力を持った神具と聞いて、

なぜ牛頭天王信仰が、日本全国津々浦々まで浸透しているのか、ようやく納得できました。伝染病を食い止めることができる本物の医療技術だったからです。

日本の漢方=東洋医学は、現代の西洋医学と肩を並べられる完成度にありますが、茅の輪の防疫技術も実用の域に達していたと思われます。天然痘は撲滅されましたが、今でも斎皇家の医師団は、再流行に備えて、内々に私立医大を営んでおられます。

斎皇家は皇室にとって最も尊い母方の家なので、忌家とされて存在を隠されてきたので、殆ど知る人はいませんが、私は先代斎皇・耀姬陛下の家庭教師頭を務めたので、貴重な伝承に触れることができました。

【天惺靖智 ray.crosmy@gmail.com】
『茅の輪の神事の実態に迫る!』に追記。(オマケ)

かつては、疫病が流行ると、祖先の素戔嗚に扮した姿で、庶民に蘇民将来説話を語り聞かせながら、牛の血と丹を混ぜた神言を書いた御守りグッズを、日本全国津々浦々まで配布して回った、姬姓斎皇家の男衆の医師団がいたのだそうです。

斎皇家の男衆=素戔嗚直系の子孫は、沼名前神社に置いてある力石を持ち上げることができる、骨太筋肉質の巨漢揃いですから、「疫病神・素戔嗚の蘇り」を名乗っても、あの迫力で通用しそうです。

筆頭の人物=耀姬陛下の配偶者は、身長197センチ、体重160キロオーバー、ストロンゲストマンコンテスト優勝クラスの体格をなさっていて、宿禰様と呼ばれています。

あの巨体で、粗末な服を着た素戔嗚のコスプレをして、神懸かって神威を纏った雰囲気を漂わせながら、無病息災の御守りを手にして日本全国の家々を回ったら、昔の人々は恐れをなして、口々に「素戔嗚が来た」と噂したことでしょう。

作り話をして脅かしつつ庶民を救済するのが、「我は祖先神の蘇り」を自称する、斎皇家の男衆=八咫烏の別名でも知られる蘇我衆のやり方のようです。

荒魂は恐ろしい鬼だが、よくよくお祀りして和魂の面を引き出せれば、福を呼び込むことができることから、「鬼は外、福は内」と言うようになったのであって、一般に庶民が信じている、鬼=蘇と福の神は別の存在という認識は間違いのようです。

「皇祖の同一神の荒魂と和魂」と、崇敬会の会食の席で、耀姬陛下はレクチャーなさっておられました。

先代斎皇・耀姬陛下の配偶者=武内宿禰を襲名した人物は、節分になると、鬼の形相で庭の白洲に現れて、子供達が一斉に炒った豆を投げると、それを口や手でキャッチして食べまくり、クルッと回って穏やかな福の神の顔になって屋敷に上がり、神座に着いて、献上された屠蘇を大盃で飲み干し、上機嫌の笑顔で子供達を呼び寄せて、無病息災の神札を与え、大人達には薬酒、子供たちには煎じた漢方薬のお茶を勧めます。

斎皇家のこの神事が世間一般に広まって、節分の豆撒きになったようですが、残念ながら、荒魂と和魂の関係は、庶民の間で正しく認識されていないようですね。

「素戔嗚は、疫病をばら撒く神? 疫病から人々を救う神?」と問われれば、神道をよく勉強した人は、「両方」と正しく答えられますけどね。(笑)

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