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備後の歴史を歩くコミュの福島正則が建てた櫓とは

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平成30年6月22日の中国新聞朝刊に野毛氏が取り上げられています。広島城の築城は毛利輝元ですが、関ヶ原の戦い後、毛利氏に代わり入封した福島正則によって本格的に整備されました。その櫓はどのような建築様式だったのかを示す貴重な写真です。福島正則は安芸・備後入封に際し、「三次、東城、小方(大竹)、鞆に新城をこしらえ、神辺は古城をとりたて、三原の城には刑部少殿を置かれ、広島は主の居城」と領内7ヶ城を拠点として整備したことが『福島太夫殿御事』に記されています。注目は各所に「新城をこしらへた」のに対して「神辺は古城をとりたて」とあることです。既に神辺には毛利氏の城があり、これをリフォームして福島丹波を入れました。三原城の海縁の櫓は福島正則によって建築されました。正保三原城図に描かれていますが、それは、この写真と同じ様式の櫓です。見てわかるように櫓の下半分は黒板が張られた下見板張りという手法です。私は神辺城もこれと同様の櫓が建てられたと考えています。この後、一国一城令が発布され、広島城、三原城以外は破城となるわけですが、神辺に破壊を免れた櫓が残っていたとすれば、このような櫓だったといえるでしょう。福島に代わって水野勝成が神辺に来たときに見上げた神辺城は、いくつか神辺城想像図として描かれた白漆喰総塗り籠めの櫓ではなく、下見板張りの櫓だったのではないでしょうか。(写真1枚目)

三原城正保絵図(部分)です。海縁に建つ櫓は福島正則が築城したといわれています。下見板張りが確認出来ます。(写真2枚目)


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神辺城と相方城
天正9年(1581)12月25日、神辺城主杉原盛重は鳥取の八橋城で病死する。
天正12年(1584)、嫡男の杉原元盛を次男景盛が誅殺。豊臣秀吉は景盛を討ち杉原家は没落する。
天正19年(1591)、毛利元康が神辺城主となるが、慶長3年(1598)、神辺城から新たに王子山城を築く。この城は『福山志料』に未完であったと記される。関ヶ原の合戦に間に合わなかったのだ。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で敗れた毛利氏は防長二カ国へ移封させられ、安芸・備後二カ国49万石に福島正則が入封する。神辺城には福島丹波が入城する。

以上、大雑把な神辺城の変遷であるが、杉原盛重の時代は尼子との戦いで主に山陰にいた。同時代の相方城のような石垣を備えていたと思う。そして相方城の遺構と伝わる城門や櫓は、戸手の素盞鳴神社に移築されていたが、櫓は惜しくも焼失した。「備陽史探訪の会」田口会長が若かりし頃に撮影された写真が1枚残っているのみであるが、神辺城にもそのような櫓が建てられていたと推測する。
さて、神辺城はどのような城だったかというと、毛利時代と福島時代とを別けて想像しなくてはならない。『福島太夫殿御事』に記されたように「古城」を取立て福島丹波を入城させていることから、「古城」とは毛利元康の城で間違いなかろう。これを大幅にリフォームした。黄葉山上のみならず麓にも城下町が造られたことは発掘調査からも想像出来る。
大坂夏の陣の直後、慶長20年(1615)一国一城令が発布。『福島太夫殿御事』には「 五ヶ所新城天守矢倉堀こわし石垣そのままおかれ城主何れも平屋敷に成候」と記される。五ヶ所とは広島城と三原城を除き、新たに築かれた小方・三次・東城・鞆、そして神辺と考えるのが妥当だ。実は一国一城令が出される以前から正則はせっかく建てた城を破壊している。
慶長14年(1609)7月29日付けの薩摩藩主島津家久に宛てた正則の書状に「輝元代より之端城共」を一、二カ所普請させたら、新城をこしらえていると徳川家康の耳に入ったため、家康の機嫌が悪く「右之城破却」して謝ったと書いている。輝元代の端城(支城)とは毛利元康の神辺城以外になく、慶長14年にはすでに壊されたことになる。鞆城の破却に付いては、元和3年(1617)の朝鮮通信使の記録『扶桑録』に、取り壊されて石垣のみ残っていたことが記されている。正則は三原城に付いて徳川幕府に壊すのか残すのかお伺いを立てている。安芸国に広島城、三原は備後国御調郡である。備後国に三原城ということで残された。
さて、水野勝成が備後に入国後初めて神辺城を見上げて何を思っただろう。備後の城三原城は浅野の支配となったために、勝成が新たに治める備後10万石の居城は一国一城令で壊された後の神辺城だった。これには幕府も新規築城を認めざるを得なかったと私は考える。
相方城について『西備名区』には「佐賀田山城」として次のように記してある。「有地民部少輔元盛開築して、此に移れり。比は天正のはじめと云うなり(中略)天正年中、太閤秀吉公より諸国山城御停止によって、各下城す。時に有地、佐賀田山をひらき、品治郡宮内に居住す。其の後雲州へ所替えし、吉川の手に属し船手の将となる」
現在、城跡にはアンテナが林立し、立派な石垣が残されている。一方、神辺城跡には基礎部の石積みが少し残るだけで完成形は見る影もない。想像図に描かれた神辺城の立派な石垣が、現在残されていない理由を、櫓とともに福山城へ移設されたから無くなったという説がある。だが、神辺城の失われた理由が『備陽六郡志』に次のように記されている。「外篇芦田郡之二」相方村の項 「古城一ヶ所 城主 有地美作守 神辺を初、所々の古城、石垣を崩し、家普請、川除なとの遣い侍れとも、當城は石塁全して馬出し堀なとの形残れり。いつの比にや戸手村祗園の社造営の節、別当、村の庄屋へ云けるは、此の石塁の石を給れ、社の用に遣い侍らんと約諾しける。自是以後、若し石を穿つものあれば傷損するゆえ、取る者なし。」
神辺をはじめ所々の古城の石垣は、家普請や川普請に使われたが、相方城のは戸手祗園(現在の素盞鳴神社)の造営に使うために、庄屋と約諾したので取る者が無かったと記されている。この文章の信頼性は別としても理にかなっている。
天正19年(1591)神辺城主となった毛利元康は、翌年から秀吉によって開戦した文禄慶長の役(1592年から1598年)に参戦し、朝鮮に渡海した。そして無事に帰国を果たした慶長3年(1598)、神辺城から新たに王子山城を築く。したがって元康には赴任した神辺城に直接手を加える暇は無かった。福島丹波が入城した神辺の城は元康以前の城だった。
天正16年(1588)7月9日、相方城主有地民部少輔の動向が記された文章がある。天正16年7月7日、毛利輝元は豊臣秀吉に謁見するため吉田郡山城を出発し京都を目指した。それに随行した平佐就言が輝元の動静を書き綴った『天正記』である。7日に吉田を出発した輝元一行は可部で休憩を取り、草津に到着。海蔵寺で一泊する。翌8日には厳島に渡り参拝。その日のうちに似島まで移動して宿泊。翌9日、似島を出発し音戸の瀬戸で潮待ち。そこに「此の所へ有地民部少輔より御腰物一、進上の使者也」と記されている。有地民部少輔は元盛で、天正19年頃に出雲へ領知替えされるまで相方城で毛利氏に従った。この年、毛利元康は神辺に入封する。有地元盛とは入れ違いとなった。相方城の石垣や櫓などはこの頃までに有地氏によって築城されたと考えられるが、1996年、中井 均氏は現存する石垣の構造は天正年中、有地氏よって築ける技術では無く、慶長5年の関ヶ原の合戦に備えて毛利氏が直接築いたとの説を発表した。しかし、上記したように有地元盛は天正19年まで相方城にいて、入れ替わりに神辺に来た毛利元康は翌年から朝鮮に出兵し、帰国後は王子山に築城開始するも関ヶ原に間に合わず途中止めで防長へ移封する。中井氏がいわれる石垣を築いた毛利氏とは具体的に誰なのか、記録も記憶も誰も持ち合わせない。

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