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備後の歴史を歩くコミュの瀬戸内と三菱

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今年のお盆過ぎから急に足腰が弱り、今では自力で歩けなくなった母を大田記念病院に連れて行き色々と検査をしてもらった。脳の萎縮は前回よりも進んでいたが、急を要する要因は見つからず、歩けなくなった原因の特定には至らなかった。整形外科での検査も必要だ。午前9時から始まり終わったのは午後2時を過ぎてだった。暇つぶしに院内にあったパンフレットなどを読みあさったら『友』No.362におもしろい記事を見つけた。
栗山院長の「ためになる話」No.19
「龍馬の恩返し」と題されたその内容は瀬戸内に三菱系の会社が多いのはなぜかというもの。記事の内容は題にあるとおり、龍馬が関係した「いろは丸」事件と繋がりがあるという。慶応3年4月23日、笠岡市六島付近で紀州藩所有の明光丸と、伊予大洲藩から海援隊が借りていたいろは丸が衝突しいろは丸は沈没する。損害賠償について龍馬ら海援隊は紀州藩と交渉の結果11月7日、長崎で7万両が紀州から海援隊に支払われた。その8日後、11月15日龍馬は京都近江屋で暗殺されるのである。龍馬等が受け取った7万両もの賠償金はどうなったのか。岩崎弥太郎がこの資金を元手に三菱財閥を立ち上げたという説があるらしい。瀬戸内に三菱が多いのは、龍馬の瀬戸内への思いと感謝の念を岩崎弥太郎が引き継いだからだ。それが龍馬の恩返しだという。最後は私の勝手な根拠のないただの思いつきであると結ばれていた。
備後で三菱と三谷一二(いちじ)氏の関係を栗山院長はご存じないのだろうか。一二氏は明治4年10月22日沼隈郡山手村に生まれた。明治23年に東京高等商業学校(現一橋大学)へ入学。岩崎家に下宿し岩崎久弥氏の子ども達の教育係を務めた。久弥氏は岩崎弥太郎の長男である。一橋卒業時、久弥氏は一二氏に去就を訪ねられた。一二氏は一も二もなく三菱入社を希望された。入社後は銀行部から東京本社支店長、三菱鉱業取締役等を歴任され、昭和19年には第4代福山市長にも就任。昭和39年93才で亡くなられている。備後と三菱との繋がりは三谷一二氏を語らずして三菱は語れない。龍馬の恩返しなどは思いも付かないのである。少しはためになっただろうか。

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