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備後の歴史を歩くコミュの風雲の神辺城 山名理興と神辺合戦(九)

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 外郭を踏み潰し、理興を支援した宮氏の勢力を北方に退けた大内方は、天文一七年(一五四八)六月、いよいよ理興の立て籠もる神辺黄葉山城に攻めかかった。

 残された記録によると、大内氏の攻撃は、六月二日、五日、一八日、二十日と繰り返され、中でも一八・二十日両日の攻撃は総攻撃であったようで、一部の兵は城壁を乗り越えて突進し、義隆から「城越えの鑓」の手柄を賞された者もいた(閥閲録三八など)。

 合戦の詳細は、後の軍記物語が伝えている。真偽は不明だが、面白いので紹介しておこう。


 (理興が尼子に寝返った為)大内義隆は、理興(原文では忠興、ここでは理興で通す)退治のため、陶隆房を大将として五千の兵を備後に差し向けた。安芸国では毛利元就を初め、元就の次男で吉川家を継いだ元春、3男で小早川家を相続した隆景、宍戸隆家、平賀隆宗など大内方の国人衆がこぞって出陣し、総勢一万余騎で神辺表に出張した。これに対して理興は近国に聞こえた勇士であったから、多勢には少しも臆せず、足軽を出して防戦した。

 中でも六月二十三日の合戦は激戦であった。吉川元春は、吉川家相続後の最初の合戦であったから諸人を驚かす手柄を立てようと、手勢1千余騎を率いて神辺城に攻めかかった。これを見た理興は、叔父弾正忠を城内に残し、手勢1千余騎を二手に分け、三百騎を杉原左衛門太夫に与えて吉川勢に当たらせた。吉川の先手が、小勢と侮って争って攻めかかったところに、理興は城の裏手から軍勢をひそかに廻し、元春の旗本に攻めかかった。理興は下知した「戦いを緩くしたら、元就が救援に駆けつけ、勝利は得られない。只一戦に元春を討ち取れ…」理興の家老杉原播磨守盛重は、理興の言葉に勇み立ち、吉川勢目がけて真っ先に突撃して行った。

 吉川治部少輔元春はこの時十九歳、勇気凛々の若武者であったから、味方危うしと見るや自ら槍を取って杉原勢に突進して行った。この元春の猛進振りに吉川勢は立ち直り、終に理興の兵を城中に追い返した。

 大内方の大将陶隆房は、合戦後元春の陣を訪ねて言った。
「自身手を砕かれ勝利を得られ誠に目出度い。去りながらご自分の勇気を誇り手ずから鑓を取られ戦われたことは主将として危うき行いである。今後は慎まれたが良かろう」と(陰徳太平記巻十七備後国神辺城合戦の事)。

 吉川元春の勇戦は事実であった。ただし、二三日ではない、正しくは一八日・二〇日である。この合戦での吉川勢の損害は33人(吉川家文書五〇七)。義隆の感状は言う

去る夏御調表出張せられ、六月一八日、同二十日、村尾城下に於いて合戦の時、当手(吉川勢)の輩の手負い注文一見候おわんぬ、能く能く賀予せらるべく候也 恐々謹言
十二月十日 義隆 花押
   吉川治部少輔殿
  (吉川家文書五〇八号)

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