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備後の歴史を歩くコミュの妙正寺 三原市本町

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妙正寺 三原市本町
日蓮宗 京都妙顕寺末
無量山正寿院
本尊 釈迦如来

 大正12年編纂広島県誌第二編社寺志には「延宝二年(1674)、三原城預浅野忠真創立、もと禅宗昌寿寺の末寺なる福寿院の旧跡昌寿寺の上にあり、忠真此の旧跡を昌寿寺より請い受け、更に地を下方に転して一寺を設け、菩提所を新設す、享保九年(1724)、忠義父の志を継ぎ、寺を米田山下(黄幡の畔)より野畑山に引き、古堂を修益す、昔は歳米百石を附せり、寺は山の半腹にあり、登覧して海山の勝甚美、騒客の吟詠多し」とある。浅野忠真は三原3代城主、忠義は4代城主。また、境内堂として「七面堂」が記載されている。

 山門脇に「日蓮宗妙正寺」と刻印された自然石柱が建ち、山号「無量山」と掲げられた切妻造四脚門をくぐって境内に入ると、正面に巨大な本堂が迎えてくれる。二重の寄棟造本瓦葺で、一重目に軒唐破風の向拝を造り、二重目の壁は、まるで城のような漆喰塗籠としている。「本堂は日蓮宗寺院で、同じ浅野家の菩提寺として広島市に建立された国前寺と酷似する」と「広島県の近世社寺建築」に記されている。本堂の建立は上記したように、享保9年(1724)米山田から野畑山への移転に伴い「古堂を修益す」とあるように、妙正寺略記には「延宝2年(1674)の創建堂を移築したもの」とある。しかし、延宝2年創建堂を大きく改変して建立されたことが明確で、現本堂の建立年は享保9年(1724)が確定している。隣の庫裏は禅宗の寺院によく見られる切妻妻入の建造物で、本堂建立の1年後、享保10年(1725)である。また、この寺には明治初年の神仏分離を免れた番神堂が現存している。境内本殿西側に石鳥居が建ち、拝殿と本殿が鎮座している。拝殿に掲げられた扁額には「最上位経王大菩薩」とある。経王大菩薩は七面大明神とともに法華経の守護神だ。しかし、どこにも番神堂の明記がない。石鳥居を見ると「奉寄進鳥居一基 七面大明神 三十番神 大黒天」とあり、三十番神の存在が証明された。この本殿は「三原志稿」に「享保十二年(1727)丁未年、此所引再建。閏正月十三日ヨリ同三月七日成就遷宮」さらに「但此の番神社ならびに神体とも、享保六年(1721)、米田山麓に於いて 忠義公の御裏方君御建立ありしを、此の処へ移されし也」とある。拝殿および本殿は閉じられていて中は見ることが出来なかったが、七面大明神・三十番神・大黒天の三座が祀られているのだろう。

 妙正寺番神堂は桁行三間、梁間一間流造で、オレンジ色に塗られた銅板葺き屋根正面に千鳥破風を飾る神社本殿様式だ。広島県内日蓮宗寺院境内に現存確認できた番神堂三宇のうちの貴重な一宇である。また、本殿・庫裏・鐘楼堂・番神堂(最上殿)・山門・浅野氏墓所は三原市指定重要文化財である。

写真

左:山門 享保14年(1729)の建立
中:山門に掲げられた扁額「無量山」
右:本堂

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.4.58.331N34.24.3.465&ZM=9

コメント(4)

妙正寺

写真

左:禅宗寺院によく見られるような庫裏
中:玄関
右:鐘楼堂 吊される梵鐘には「日本第一唐 安芸州 小早川拾遺隆景公之智臣井上伯耆守藤原春忠 鋳之者 天正八年丙子花朝吉日 大工 竹原屋吉井左衛門尉信正 敬白」と彫られていた。しかし天正8年は庚辰で、丙子は天正4年である。現地案内板にこのことは触れていないが、天正4年(1576)鋳造説を取っているようだ。
妙正寺

写真

左:境内に建立された石鳥居
中:拝殿の扁額は「最上位経王大菩薩」
右:番神堂本殿
妙正寺

写真

左:三原浅野家3代忠真(ただざね)から11代忠助を除く12代忠英(ただひで)までの墓が並んでいる。

中:浅野家墓所は本堂の真裏にある。

右:番神堂の背面
妙正寺

写真

左:本堂
右:本堂の前方一間分は吹き放ちとなる

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