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備後の歴史を歩くコミュの加茂町北山 志川滝山合戦と芋原の大スキ

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 備後外内郡「境目」に於ける宮氏の動きが表面化したのは、天文二十一年(1522)六月のことであった。陶晴賢は芸備の味方国人衆に指令を出した。

「備後の境目の動きの儀、江良丹後守を差し上せられ候 元就と相談あり馳走肝要たるべき旨直書なされ候 猶房秀申すべく候 恐々謹言」(閥閲録百四等)

 宮氏の旗揚げが確実となった。腹心の江良房秀を派遣するので、毛利元就の指示に従って兵を出して欲しい、詳しいことは房秀が伝達するはず…。

 問題は、この尼子に呼応して志川滝山城で挙兵した宮氏である。「備後古城記」等の郷土史書は、宮越後入道光音、或いはその子下総守光寄が宮一族を糾合して立て籠もったとするが、果たしてそうなのか…。

 私は、郷土史書が述べる志川滝山合戦の粗筋は大いに疑問があると思っている。「西備名区」は言う

「備後国志川滝山の城主宮常陸守(下総守とも)光寄は、父入道光音が、天文三年の亀寿山合戦で宮氏が降伏した時、共に毛利氏に降伏して幼少の主元範を預っていたが、この年(天文二十一年)、一族などを集めて軍議して、再び亀寿山の城を取り返そうと兵を集めたところ、毛利氏の知るところとなって、元就が三千八百の兵を率いて当城に攻め寄せ合戦となった…」

 亀寿山合戦の虚実は置くとして、天文末年の備南の状況は、宮光音、光寄父子が幼主を擁して平穏に志川滝山城に居城できるような情勢ではないし、「光音、光寄」父子も実在を証明するような史料は一切残されていない。

 備後南部での宮氏の活動は、天文十七年(1548)の「宮次郎左衛門尉要害の落去」(毛利家文書)によって一つの区切りを迎える。以後、天文二十一年の志川滝山合戦を除いて、庶家の有地氏の動きが見られる以外、「宮氏」の活躍は途絶える。

 さらに、天文十七年、大内、毛利勢と戦って敗れた「宮次郎左衛門尉」も、今まで言われてきた備南の宮氏ではなく、庄原市東部の西城、東城から南下した宮氏であった可能性が出て来た。「備後古城記」安那郡中条村の城主として宮次郎左衛門景盛、東右衛門の名が書き上げられているが、宮景盛は西城大富山城第三代の城主であるし、東右衛門も景盛の家老、西城八鳥蟻腰城主東氏のことである。今まで備後南部の宮氏と備北西城・東城の宮氏を別物として考えることが多かったが、両者は本来同じ一族と考えるべきなのだ。

 西城東城の宮氏は備後の最奥部にあって尼子氏との関係は密接であった。宮景盛の妻は「尼子新宮党」として恐れられた尼子誠久の娘と伝え、新宮党が元就の謀略で滅ぼされた時、誠久の忘れ形見勝久が乳母に抱かれて東城の徳雲寺に逃れてきたのは、宮氏の保護があったればこそであった(続く)。

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