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備後の歴史を歩くコミュの国分寺

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国分寺(こくぶんじ)福山市神辺町下御領

中国四十九薬師霊場第十二番札所
ご本尊は薬師如来。山号は唐尾山醫王院といい、真言宗大覚寺派に属する。
天平13年(741)に聖武天皇は全国に国分寺の建立を命じた。それは全国に置かれた国府付近に国分尼寺とセットで建てられていった。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と称する。備後では、国府は府中市に置かれ、府中市元町の広谷公民館前駐車場付近一帯が備後国府跡ツジ遺跡と比定され現在も発掘調査が行われている。発掘現場では三つの大規模柱穴発見され、国政を司った国庁建造物跡と考えられている。また備後国総社は近くの小野神社境内に確認されている。

備後国分寺は昭和47年(1972)から発掘調査が行われ、東西180mの寺域が確認され、法起寺式伽藍配置であったことも判明している。一方、国分尼寺は、ここから西方の小山池に廃寺跡が確認され、国分寺と同じ瓦が出土したためにここが国分尼寺跡ではないかと思われている。

国分寺本堂は五間社の宝形造に近い寄棟造で、前方一間通りが吹き放たれ、さらに一間の向拝を持つ。角柱上は舟肘木を置く。屋根は桟瓦葺で、降棟の先に稚児棟が造られる。入母屋屋根に本瓦葺の三間一戸山門(仁王門)は古そうである。

写真
左:山門(仁王門)
中:山門(仁王門)にかかげられた扁額。後に「深小川」の千社札が・・・。
右:仁王

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.23.46.120N34.33.42.048&ZM=8

コメント(12)

国分寺

写真
左:案内書
中:鐘楼
右:「醫王閣」
備後国分寺のホームページがありました。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/pada/bkoku1.htm
○元禄七年(1694)福山城主水野勝種候より金穀役夫並びに用材が給付され、本堂を再建

○元禄十年(1697)客殿庫裏
○永禄四年(1561)梵鐘
○元文五年(1740)仁王門

上記ホームページに記載された建立年です。

永禄4年の梵鐘は確認が必要です・・・。


1982年に編纂された「広島県の近世社寺建築」によると国分寺の建造物は

○元禄7年(1694) 本堂
○元禄10年(1697) 庫裏
○天保15年(1844) 客殿
○元文5年(1740) 仁王門(棟札)
○宝永4年(1707) 鐘楼堂(鐘銘による)

とあるから梵鐘は永禄4年(1561)ではなく宝永4年(1707)が正解のようです。
備中国分寺 

備後国分寺は神辺町下御領にあるが、備中国分寺は岡山県総社市上林にある。現在は日照山国分寺と称し、京都市右京区の仁和寺を総本山とする真言宗御室派に属す。創建は備後と同じ天平13年(741)聖武天皇の発願であるが、その堂宇は南北朝時代に焼失してしまい、中世には廃寺となる。江戸時代に現在の備中国分寺が、同じ場所に再興され堂宇が再建された。昭和46年に岡山県教育委員会が発掘調査を実施した結果、寺域は東西160m、南北180mが検出され、南門跡や中門跡、その他建物跡や築地土塀跡が確認されたが、金堂、講堂跡は今の寺域に含まれており、配置や規模は確認できていない。今建つ五重塔や本堂などの堂宇は江戸時代に建造されたものである。備中国分尼寺跡は、備中国分寺の東方約600mの丘陵地に確認されている。当時の境内は、現存している築地土塀から東西108m、南北216mと推定される。建物は、境内の中心線上に南門・中門・金堂・講堂が建ち並び、金堂は桁行21m、梁間13.2mの大規模な建物であった。広い基壇の中に多くの礎石が整然と残されており、国分寺跡とともに国指定史跡である。総社は文字通り市名になったが、備中国府跡はいまだ確認されていないが、総社市には「北国府」や「南国府」という字が存在し、ここらに備中国府があったと考えられている。付近には造山古墳や作山古墳という巨大な前方後円墳や、他にも多くの古墳が存在する。ヤマトに匹敵する吉備王国が証明される地域である。

写真
左:本堂と向こうに見える五重塔
中:客殿 左側の向唐破風が玄関で、右側は勅使門
右:本堂

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=481627.736&Y=124804.561&SCL=13568
備中国分寺

写真
左:五重塔
中:五重塔
右:太子堂

五重塔は文政4年(1821)から20数年かけて、奈良時代の位置とは別の場所に建立された。総高は約34mと非常に高い。ちなみに明王院は96.17尺、約29mである。心柱は床下に置かれた礎石から相輪まで達している。
備中国分寺

写真
左:五重塔 部分
中:五重塔 軒
右:五重塔 高欄付きの廻縁

方三間の初重の円柱は長押で固定され、柱上には三手先の出組が軒を支える。柱間は蟇股を置く。蟇股の上は捨斗を置き、間には支輪を張る。軒は二軒で平行繁垂木という和洋式の塔だ。下から三重目まではケヤキ材、上部二層は松材が使われている。国指定重文である。
備中国総社宮

岡山県総社市

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=481524.698&Y=124827.038&SCL=3230
備後国総社

府中市元町
小野神社境内

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=479677.105&Y=124465.842&SCL=669

備中に比べると・・・。

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