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備後の歴史を歩くコミュの近田八幡神社

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近田八幡神社(ちかたはちまん) 福山市駅家町近田に鎮座する。

鎮座する山は「獅子尾山(ししおやま)」という。天正3年(1575)7月、和田伝左衛門が願主となり、上山守の当島八幡神社から八幡神を勧請し創始され、明治時代には村社に格付けされた神社だ。当島八幡神社からは近田八幡神社のほか、天正5年(1577)に中島八幡神社、天正17年(1589)には万能倉八幡神社へ勧請され、いずれも村社に格付けされた。境内には大正4年に本殿、拝殿、幣殿、随神門、および石段を改修した時の石碑が建っている。かなりの規模で改築されたようだ。いま建つ社殿はこの時のものかもしれない。反りのある石鳥居をくぐり石段を登る。途中に随神門が建つ。社殿は直線的に東向きに建てられていて、夕方の参拝は夕日が眩しかった。五間社、平入り入母屋造、桟瓦葺きの拝殿。その後方には幣殿が建てられその屋根は本殿の軒唐破風下まで伸びている。本殿は三間社入母屋造で本瓦葺き屋根には千鳥破風が備わる。向拝は軒唐破風だ。身舎の前方一間は壁板が貼られない吹き放ちの外陣となる。組み物は出組が使われ、四方を廻り縁がめぐる。彫刻もすばらしい。屋根瓦は平成15年に葺き替えられたばかりで綺麗だった。

隣にはスサノオを祀った荒神社があり、ここの境内社かと思ったが広島県神社誌には独立した神社として記載されていたので、こことは別に後ほど紹介したい。

写真
左:石鳥居
中:参道中程に建つ随神門
右:五間社と大型な拝殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.18.33.243N34.32.30.697&ZM=10

コメント(13)

近田八幡神社

写真
左:本殿
中:出組と軒。軒下の垂木が二重に使われているのが正式な社殿の建築様式とされている。軒先までの長いのが「ヒエン垂木」下側の短いのを「地垂木」といいます。

右:本殿の後ろ側
近田八幡神社

写真
左:壁板の貼られていない外陣がよくわかる。
中:千鳥破風と軒唐破風
右:社紋は「瓜木瓜(うりもっこう)」
近田八幡神社

左が近田八幡神社本殿で、右が荒神社

荒神社は一間社流造だった
ここは北西の稲荷神社のある山と合わせて法光寺山城という城跡だったようです。
以下、続・山城探訪より抜粋です

この城跡は福塩線近田駅から線路沿いに西へ約三百mに立地し、『広島県中世城館遺跡調査報告書』略測図では福塩線と県道下御領新市線によって大きく南北二つの郭群に二分して記載されており、南郭群は福山市駅家町近田、北郭群は同新市町戸手に立地する。

南郭群の主郭部には近田八幡神社他数社が建立されて祀られている。
南主郭群は、南北約25m、東西36mの一段であるが、かつては二段であった可能性がある。
現在の八幡神社の石段と拝殿、本殿等の建造物は大正五年に改築されており、境内の古木の根元に以前の地表の痕跡が残っており改築時に境内が広げられた可能性がある。
また南側の登坂路の境内入り口に宝暦六(1758)年建立の石鳥居が立っており、以前は南側に主参道があったものと考えられる。
主郭北側下部にも郭を設けており郭は西側下まで回り込んでいる。
本来は二段又は三段であった可能性があるが現状は改変されて不鮮明である。
主郭部西南には一段下がって小郭と三本の堅堀が設けられている。
西側麓には現在小道と水路が通っているがここは城の防御構築施設の「堀切」跡と考える。
東側中心には八幡神社の参道と石段が設けられ、現況は参道と石段の両側が荒地、墓所、ゲートボール場となっているが郭跡が改変されたものと考える。
主郭東側の郭は主郭の下一段までは、郭跡と考えられるが、それ以外の東側各段は改変が激しく各段全てが城の郭とは認めがたい。
参道石段の北側にはゲートボール場が設けられているが郭跡とも考えられる。
ゲートボール場から東に続く削平地も郭跡の可能性があるが不鮮明である。
南郭群東側に馬蹄形に囲われた一画が残り、この城跡の居館部分とも考えられるが現況では直ちに居館部とは断定できない、今後の精緻な調査を待ちたい。
『西備名区』戸手村の項に「法光寺山城地内に法光寺と云う寺があり城主落去の時破却と云う」と記述されており館ではなく寺が建っていたとも考えられる。

南北に大きく隔てられている郭群のあいだの福塩線と県道下御領新市線部を、『広島県中世城館遺跡調査報告書』では大堀切と記しているが、大堀切と見るには少々無理があるように考えられる。
北郭群と南郭群は本来別の城と考える。
南の郭群は立地条件等から考察し、主たる役割は芦田川の水運物流監視の城と考える。

城主については確証を欠くが、『西備名区』では近田の項で「堀越城、近田宗左衛門尉義成・同 宗三郎義次・平賀木工頭隆久・同 九郎左衛門尉」を記し、八幡宮については「慶長六年和田新三郎男、源十郎某、毛利家長州に移封より浪人し、ここに八幡宮を勧請し一社を建立」と記されている。
「慶長六年和田新三郎男、源十郎某、毛利家長州に移封より浪人し、ここに八幡宮を勧請し一社を建立」と記されている。




慶長6年は1601年です。西備名区とは創祀の伝承が違っているようです・・・?
う〜ん、たしかに違っていますねぇ・・・
和田も姓だけしか合っていないですね
詳しい資料が残っていないって事ですかね?
近田八幡神社の麓に祀られる地蔵堂と薬師堂。

先日の新聞に地蔵堂が再建されたという記事が載っていたので、さっそく見学に行ってきました。

落慶法要は済まされたばかりで、今日は防水工事等の作業が行われていました。新品のとは色の違う茶褐色の柱は前堂宇で使われていた物を再利用しています。向拝の虹梁型頭貫も再塗装され再利用されています。地元の人に伺ったところに夜と総工費は約600万円だそうです。

昨年の7月に撮った古い地蔵堂とともに紹介します。

近田地蔵堂
宝形造

再利用された虹梁頭貫の柱から外側にはみ出させた部分を木鼻といいますが、そこには彫刻が施されています。また虹梁の真ん中に大きめの蟇股をおいて桁を支えます。向拝柱上には大斗を置き舟肘木で同じ桁を支えています。軒は一軒疎垂木となります。
近田八幡神社の狛犬

明治24年と読める。
玉乗り型狛犬をよく見ると、阿型には吽型の子狛犬が、反対に吽型には阿型の小狛犬がいます。
随神門に祀られている木製の随神様

注目すべきは胸に彫られている神紋「五瓜唐花」
ところが社殿の棟瓦のは「瓜木瓜」
私的にはこの神紋はこだわってほしいところです・・・。

なぜならば、この鎮座地である獅子尾山は、かげとらさんのコメントにあるように法光寺山城といわれる古城跡で、城主については確証を欠くとあります。

随神の神紋からすると宮氏が思いつくのですが・・・。

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