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備後の歴史を歩くコミュの神村八幡神社

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神村八幡神社(かむらはちまん)福山市神村町に鎮座する。

創祀は延久元年(1069年)。京都男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請し創建されたとされる古い神社だ。神社庁への登録名はただの八幡神社である。男山八幡宮は清和源氏の中で主流とされる、正に武闘派としての流れを造った河内源氏の守護神である。壺井八幡宮は康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦勝して凱旋した源頼義が、その本拠地、河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に男山八幡宮から勧請し創建されたものだ。1500年代の戦国時代、備後ではあちこちに出現した武将達が、源氏の武運にあやかろうと男山八幡宮から武神としての八幡神を勧請し、多くの八幡神社が創建されているが、この平安末期に、また、この神村の地に清和源氏、河内源氏の流れをくむ武将がいたのだろうか。男山の祭神は神功皇后、応神天皇、宗像三女神の八幡神であるが、ここ神村八幡神社は応神天皇と姫大神の二柱だ。姫大神は八幡神社では宗像三女神を指すとされているから、そうすると神功皇后が抜けている・・・?

沼隈郡誌には「西備名区」から次の物語を引用し載せてある。天正の末(1590年頃か)、神村の郷士、石井又兵衛に「阿良(おやや)」という 美人の妻がいた。阿良は新庄本郷の生まれで宮島の遊女だったという。あるときに阿良は松林院という修験者と不倫関係になってしまった。これを知った又兵衛は二人を許さず、大きな桶に二人を首だけ出るように入れて、その桶の中にムカデや毒蛇を一杯入れ、酒を注いだという。二人は叫び狂って死んでしまった。「その様、見るも凄まじく聞くも恐ろし」死んだ二人は伊勢山に葬られ夫婦墓を常福寺に建てられた。それでも阿良らは怪火となりその祟りは収まらず、神村八幡に祠を建てて祀った。石井又兵衛は石見守の息子だという。

神村八幡神社に建てられた由緒書には八重垣神社(石井家守護神)として次のように記されていた。石井氏が神辺城主だった頃、八重という美しい側室がいて八重屋敷を設けて住まわせた。やがて八重は山伏と人目を忍ぶ仲になり、そのことが城主に知れた。八重は蛇を入れた樽に詰められ、蓋から首だけを出されて由谷橋(ゆや)に晒され、通行人に竹鋸で首を挽かれた。深夜、山伏が忍んで行ったときにはすでに死んでいて、したたり落ちる八重の血をホラ貝に受け城主に祟りあれと吹いた。すると八重屋敷は怪火で焼け、城主は悪夢に悩まされ、ついに乱心した。この八重の霊を鎮めるため八重明神の祠を建てた。

物語に多少の違いがあるのは逆に面白いと思うが、歴代の神辺城主に石井なる人物はいない。そこで沼隈郡誌に石井氏の出自を捜してみた。すると神村城主に石井石見守清信がいた。そして、その息子が綱信又兵衛だった。神辺城主ではないのは明らかである。神村八幡神社へ確認すると、その由緒書は、世界文化社が1979年に発行した「ロマンの旅 日本の伝説13 山陽」の中で、武田静澄氏が「広島伝説拾遺」として「八重明神」を書かれたのを引用し建てたものだった。神辺城主だけは直した方が良いのではと思う。

本殿は三間社入母屋造りで千鳥破風が付く。拝殿は平入りの入母屋造りで向唐破風向拝だ。拝殿の後ろ側に幣殿を併せ持つ。境内は広くて掃除も大変だろうが綺麗にされていた。

国道2号線、八幡神社向かう道の東側に「赤壁」という交差点がある。この「八重」の血が家の壁に付き汚れたので洗い流したのだが、何回洗い流しても血の跡が浮かんできて消えなかったという。仕方がないので壁を赤く塗って誤魔化したのだ。赤い壁の家がこの交差点付近に建っていたのだろう。

写真

左:由緒書
中:拝殿
右:本殿

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.15.38.394N34.27.9.247&ZM=11

コメント(16)

神村八幡神社

左:本殿 手前のは熊野神社の社殿
中:本殿 反対側には艮神社の社殿が建つ
右:境内社 稲荷神社
神村八幡神社

左:境内社 石鎚神社
中:問題の八重垣神社は左側、右はタカオカミ神社
右:天神社
神村八幡神社

左:立派な社務所
中:境内から見下ろす赤壁方向の町並み
右:参道入り口の石柱
ユーホー(UFO) さん

日曜日の夕方行ってきました。
中学校からは野球部の声がよく聞こえてました。

高校がこの近くだったもので馴染み深いのですが、約30年振りに訪れた八幡神社は変わってました。かつてはもっと山でした。何かエピソードとか、写真をお持ちでしたらこの下にでも貼り付けてください。この日は赤坂八幡神社にも立ち寄りました。後ほどアップする予定です。
世界文化社に武田静澄氏の件について問い合わせてみた。
本日、電話で回答をいただいたのでここで紹介しておきます。

まず、1979年に発行した「ロマンの旅 日本の伝説13 山陽」はすでに絶版されている。著者の武田静澄氏も1995年にお亡くなりになっていた。そこで出版社は独自に歴代の神辺城主や「沼隈郡誌」等で「おやや」または「お八重」を調査されたらしく、結果は、誤記または誤植とする私の意見と同じだった。しかし、絶版された本の訂正は物理的に無理ということでした。誠意ある対応をしていただいて嬉しく思いました。そして、武田静澄氏のご冥福をお祈りします。
よかったですね (^O^)

しかし…神社の由緒書きが……。
結構いろんなとこに引用されてるような感じですが。
神村八幡神社には黙っておきます。
由緒書きがあれば必ず見ますからね。

本に載ってるのをそのまま引用ってのは・・・。
神社に伝わっているものを知らせて欲しいです。
なかなか誠意ある対応だったのですね^^
辺→村だけだからこそっと書き直しておけばいいような?
「福山の古建築」に石井家住宅(本家)が紹介されている。この家は天正の頃の豪族石井石見守清信後裔の家で、代々庄屋であったという。神村町には石井家の分家という古い住宅がある。この分家の先祖は石井石見守清信の次男・・・又兵衛だそうだ。そして菩提寺は神村町「常福寺」。お八重の墓所だ!!

戦後、石井一族80戸で石見守の250回忌を営んだと記されている。

本家を見て、分家を探して、常福寺のお八重の墓を探訪するツアーはいかがでしょうか・・・?
まちのねこさんがアップされた「神村城とおややが火」
これが解決のきっかけとなった。


古西氏が「福山の古建築」で紹介された石井家の菩提寺神村町「常福寺」が判明せず、石井本家住宅も所在がわからないままになっていたが、お陰様で一気に氷解した。

まちのねこさんによると石井家住宅はすでに取り壊されて宅地化され団地になっているとのことだった。そして神村小学校の北西辺りに石井一族の墓所があるということで探し訪ねてみた。

福山西警察署の交差点を北に進むと石井家墓所に無事到着した。墓所には昭和58年3月、神村石井一族会が建立した神村城主石井石見守清信の400年碑があり、右奥一区画の墓は明らかに古い。そこに石井石見守清信の夫婦墓はあった。地輪台座は一つだが空輪、風輪、火輪、水輪は対で建てられた五輪塔だ。

沼隈郡誌には「妾お良(おやや)の墓は神村村常福寺に在り・・・夫婦墓に遠幽妙浦信女、法林院長覚と刻む。又兵衛は石井石見守の男なり」と記されるその墓を探し出すことが目的だ。

古い五輪塔群を捜す。石見守の他に夫婦墓らしきものは3〜4基あり、読みにくい文字を目で追う。そして一番奥に五輪塔ではなく一つの墓石に戒名が並んで刻まれている墓を見つけた。明らかに夫婦墓だ。それに刻まれた文字を読む。右側に「**院長覚」左は「**妙浦信女」

あった。これだ!!
胸が震えた・・・。

墓所には無人の家が建つ。これが常福寺なのだろうか。古西氏は「戦後、石井一族80戸で石見守の250回忌を営んだ」と記されるが、これでは天正年間に神村城主を務めた石井石見守の時代がまったく合わない。神村石井一族会の石碑にある昭和58年(1983)が400回忌とすれば没年は1583年で天正11年だ。戦後がいつかわからないが1945年と仮定すると、350回忌でもあやふやな記述となる。

又兵衛により悲惨な殺され方で命を落とした「おやや」、神村八幡神社では「お八重」であるが、同じ墓石で眠る。

汗が流れる中、そっと手を合わせた。

写真

左:石井石見守清信の400年碑
中:この建物が常福寺だろうか?
右:古い墓石群

地図(石井家墓所)
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=479770.125&Y=124042.732&SCL=661



石井又兵衛とおややの墓

写真
左:石井石見守清信の墓
中:夫婦墓が並ぶ
右:向かって左のが石井又兵衛とおややの墓 やっと見つけた。
石井又兵衛とおややの墓

写真
左:墓石
中:戒名
右:右奥にひっそりと眠る
おめでとうございます。
本家ツアーはだめだったけど、お八重の墓は、ついに一年ぶりに見つけることができましたネ (^O^)

しかし……改めて読み返してみると……
阿良は山伏と夫婦墓で葬られたとのかと思いきや
阿良は石井又兵衛に殺されたのに、今だに夫婦墓ですか……
なんかこわい......
分家住宅は不明のままですけど、墓にはやっとたどり着きました。

山伏の名前は「松林院」で、墓石に刻まれた戒名は「法林院長覚」
「松」と「法」が違うだけだから、ひょっとすると山伏の墓かも知れない。しかし、沼隈郡誌には「法林院長覚と刻む又兵衛は石井石見守の男なり」とあるからやっぱり又兵衛とおややの夫婦墓ということになります・・・。


おややにとってはどっちが幸せなのでしょうか・・・?


>11

コメントの訂正

誤:地輪台座は一つだが空輪、風輪、火輪、水輪は対で建てられた五輪塔・・・

正:台座は一つだが空輪、風輪、火輪、水輪、地輪は対で建てられた五輪塔・・・


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