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備後の歴史を歩くコミュの神森神社

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神森神社(かんもり) 福山市坪生町に鎮座する。

創建は天文六年(1537年)陶山又次郎、坪生武高の両氏が坪生庄の鎮守として筑前「香椎宮」から勧請したとある。香椎宮(かしいぐう)とは、福岡県福岡市東区に鎮座し、淀姫神社で紹介した神功皇后が自身の手により仲哀天皇を祀った神社である。その後、神功皇后も合祀され二柱が祀られている。したがって、ここの神森神社の祭神も神功皇后と仲哀天皇の二柱かと思いきや、神功皇后と武内宿禰の二柱というのだからびっくりした。びっくりできなかった人は「淀姫神社」を参照されたい。陶山氏や小早川隆景らが社領を寄進しているが毛利氏はこれを削っている。かつての坪生庄は備後深津郡坪生村と備中小田郡篠坂村に分断されたが両村の産土神として崇敬され、嘉永二年(1849年)の社殿再興も境界を越えて両村にて行われている。

ここの本殿であるが永禄六年(1563年)に再建された時の棟札が残っているらしいが、建築様式からみると17世紀中期のものと考えられる。水野勝成による福山城築城が元和八年(1622年)で、この残材が使われたという伝承がある。この伝承は福山城と同じアスナロ材が使用されており信頼できるとしている。ということは吉備津神社とは兄弟分となる。桁行三間、梁間三間の入母屋造で千鳥破風が付く。規模は三間*三間だが、手前の1/3は壁板が張られず吹き放ちとなっている。この部分を「外陣(げじん)」、壁板が張られた後ろの2/3を「内陣」と称する。この形式は広島県中部に多く見られ福山城下の本殿形式とは異なるらしい。明治二十二年に覆屋が造られたために保存状態は極めて良い。平成八年にそれまでの檜皮葺を銅板に葺き替えられ、覆屋が撤去され、本来の形に復されたとある。格式の高い建物で、江戸時代初期の芸備地方特有の入母屋造建築の代表例だと紹介されている。備後地方の標準的な形式は外陣を持たず、三間*二間とされる。

参考「広島県神社建築」

写真(狂ちゃん撮影)

左:参道石鳥居
中:本殿
右:由緒書

地図

https://yahoo.jp/NC8vp6

コメント(8)

私も行ってきました。

この裏山は愛宕山というらしい。
うえには愛宕神社がありそうでした。
山道ではあるが参道があった。
案内書や、今年(2013年)の『文化財ふくやま』に、神森神社本殿の屋根は「香椎造りと呼ぶ独特のもの」と紹介されているが、これのどこが香椎造りなのであろうか。私の目には普通の平入り入母屋造で、正面に向拝と千鳥破風を付けたものとしか見えない。

香椎造とは香椎宮の本殿形式である。千鳥破風付きの平入り入母屋造までは神森神社と同じであるが、香椎造のポイントはここからである。入母屋屋根の前方左右に切妻屋根を造り、さらにその下に庇が付くのである。

写真で説明しよう。
香椎宮本殿

左の写真
右のソテツ側が正面となる。左奥の棟が入母屋屋根で、その前方に切妻屋根が付き、さらにその下に庇が造られている。

中の写真
反対側から写しているので左が正面。突き出た破風が千鳥破風。一段高い棟が入母屋屋根。その手前の低い棟が切妻屋根で、下に庇が付く。

右の写真
後から写したもの。三間社入母屋造の前方に、左右一間ずつ切妻屋根を出し、庇を付ける。したがって切妻屋根の下は五間となる。

切妻屋根の下に造られた庇はこのようになっている。車寄せという入口が設けられ、階段を覆うための庇である。

これが香椎造で、全国で香椎宮唯一だ。

福山文化財協会には知らせておこう。
以前、岡山のとある神社が日吉造と紹介されていた。日吉造も珍しく、わざわざ見に行ったが、まったく日吉造ではなかった。神社好きな人間は、ワザに見に行くのである。香椎造といわれて見に行き、ただの入母屋造だったら、私だったら怒るだろう。
この神社が建つ愛宕山は、芦田川から北東方向に向って延びる10kmの福山北断層の東端付近にあたり、南東方向に向かう河川とのクロスポイントに浮く分離した岩盤になっています。したがって地電流が大きく変化して地磁気の変動スポットになっています。その磁気刺激によって脳を活性化される効果が高い、昔風に言えば“霊場”の一つで、その影響を受けやすい人は、夜間幽霊が見えることもあるようです。私にとっては、心地好く脳を刺激してくれる癒しのスポットです。

登っていくと小さな祠の愛宕神社があり、心地好い脳への刺激を受けながらマインドフルネス=瞑想が出来る良好なスポットですね。
『素戔嗚と武内宿祢と荒魂=勇気の関係。国体護持の精神の祭祀』
(神功皇后と武内宿祢はなぜ一対で神社に祀られているのか)

神功皇后(息長帯姫)などに長く仕えた、武内宿祢という謎の人物がいます。名前を分解すると、宿祢は軍事を司る首長の意味であり、武門の首長という意味を強調するために“武”を先頭に置き、“内”を加えることで息長斎皇家の内家の男衆であることを意味しています。つまり、現在の斎皇を守護する護衛武官の長とされる、コードネームFineを名乗る人物などが、武内宿祢の名跡と精神を世襲しているわけですね。だからファインさんは内々に「宿祢様」の尊称で呼ばれることが多いのです。

宿祢という言葉は応神天皇以降に出現していて、それ以前は軍事を司る首長のことをネ=根と呼んでいたようです。ネの音に祢=禰の文字が当てられるようになったのは、霊廟に祀った父方の祖先という意味を持つことからも明らかなように、古代の軍事的首長が、後世になって神格化されて祭祀される状態に移行してからのことのようです。

「宿祢様」の尊称で呼ばれる、息長斎皇家を守護する護衛武官の長は、霊廟に祀られた父方の祖先の精神を自身の心に宿した、神聖視される崇敬の対象=現人神ということになります。ところで、素戔嗚というのは、息長一族の父系の祖先神とされる天日矛の荒ぶる魂、【暴風のような雄叫びをあげて勇ましく自らを鼓舞して戦うスキル】を擬人化・神格化した存在です。ということは武内宿祢は、天日矛の“勇気の精神”を神格化した“荒魂”の素戔嗚の精神を、世襲で受け継ぐ現人神の尊称ということになります。

神功皇后と武内宿祢が一対で神社に祭祀されることが多々あるわけですが、これは息長斎皇家が母系で受け継ぐ“天照御大神の和魂”(※“親”や“仁”の一字で表される太陽信仰に基づく人道精神、【太陽が大地に芽生えたあまねく生命を育み育てる光】としてイメージされる“母性的な慈愛の心”→この統治哲学を認識することで、自ずと“和”の精神が生まれる。八紘為宇=地球人類皆兄妹。)と、これを守るために勇気を持って戦う、息長斎皇家が父系で受け継ぐ“素戔嗚の荒魂”を一対の形で祭祀しているものと受け取ることが出来ますね。

私が耀姫様とファインさんの御振る舞いをこれまで何度も一対で語ってきたのは、こういった神道の精神が下敷きとして存在しているからです。

耀姫様が仰るには、実質的に息長斎皇家の荘園だった、表向きは直属(審神者の一族)の藤原氏が治めていた“坪生荘”(現・広島県福山市坪生地区を中心とした農耕地帯)にある神森神社は、本来の呼称を忌み伏せてあり、正しくは“神守神社”と表記されるものであり、“教育勅語”にも示されている“国体護持の精神”として、神功皇后=天照大神・和魂と、武内宿祢=天日矛・荒魂を一対にして祀ってある、斎皇が御下命なさって創建された、この地域の地脈(活断層)が交差して地場(磁場)が高まった癒しの地=イヤシロチ・霊場・聖地・神域に建つ神社なのだそうです。

なかには、なぜ神功皇后と仲哀天皇が一対でお祀りされておらず、武内宿祢なのかと疑問に感じて「驚いた」などのコメントを寄せる方々がおられますが、“国体護持の精神”は“和魂”と“荒魂”に分けることが可能であり、それぞれを神格化した呼び名として、神功皇后と武内宿祢が用いられているのだそうです。

国家神道の祭祀の頂点に位置する先代斎皇の御教示ですから、これがファイナルアンサーということになります。

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