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備後の歴史を歩くコミュの上山守八幡神社

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上山守八幡神社 旧称「当島八幡神社」

福山市駅家町上山守に鎮座する。創建は大同二年(807年)に土肥氏が願主となり宇佐より勧請し、姫居山へ再建したとあるが、土肥氏は中世に入府した地頭なのでこれは誤伝とされる。水野記によると建立は神宮寺とともに天平勝宝元年(749年)とされる、いずれにしても古社である。現在の本殿は延宝八年(1680年)六月、三好庄七貞家が造営したとある。境内にある式内社「多理比理神社(たりひり)」は延元元年(南朝年号1336年)に、社殿が大破したためにここへ合祀したとされている。吉備津神社境内へ遷座した説もあるが、いずれも決定的な証拠はない。神宮寺については「大城山神宮寺」と称され、現在では明王院の末寺となっている。この八幡神社から御幣分けをした神社は「近田八幡神社」「中島八幡神社」「万能倉八幡神社」と三社もあり、それぞれが村社という格式を与えられている。かつては神宮寺を備え合わせた大社だったことが伺える。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神という宇佐八幡神に加え、天神系、地神系、出雲系の神々が列挙されている。本殿は三間社流造。ここの本殿は外陣を持たない古式の三間社流造で、17世紀に建築された代表例として「広島県神社建築」にも紹介されている。外陣とは外板を張らない吹きさらしの部屋をいう。平成六年に編纂された広島県神社誌では屋根は檜皮葺と記されているが、この神社も残念ながら銅板に葺き替えられていた。境内は広く、訪れたときは近所の人達がグラウンドゴルフを楽しんでおられ、地域にしっかりと根付いた神社と感じた。

参考 井上新一著「駅家今昔」

写真(2007年3月28日、狂ちゃん撮影)

左:拝殿
中:流造の本殿
右:後ろから見た本殿、三間社(柱が四本)がよくわかる

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.19.45.588N34.31.35.960&ZM=11

コメント(5)

2007年4月4日撮影

桜が綺麗に咲いていました。
芦田川土手から祭りの幟が見えたので寄り道してきました。

本殿の建築様式も確認してきました。
本殿は三間社流造。身舎柱は正規の丸柱が使われ頭抜きで固定。その木鼻には彫刻が施される。柱上には大斗を乗せ、木組は平三斗。柱間は、背面はバチ束が置かれ、妻側はカエル股で、妻側と前面には長押が打たれる。妻飾りは二重虹梁大瓶束。三方を縁がまわり後ろは脇障子で止まる。向拝柱は4本使われ、それぞれが頭抜きで固定される。内の二本は三斗組で手挟みを受け、両端は連三斗が手挟みを受ける。柱間はカエル股が飾られる。身舎とは海老虹梁で繋ぐ。背面の軒は二軒。前面は三軒となる。屋根の大棟には五本の鰹木と両端は外削ぎの千木が置かれる。

写真
左:境内に建てられた幟
中:本殿の背面  
右:本殿の妻(側面)部分
上山守八幡神社

写真
左:境内の入り口に掲げられた御神燈
中:向拝部分
右:本殿の千木と鰹木 
上山守八幡神社の石鳥居には、享保元年(1716)一月吉日の年号と共に、寄進した万能倉、大橋、向永谷、近田、戸手、新山、中島、下山守、江良、今岡、上山守、倉光、坊寺の13か村名が彫られていた。江戸中期には、これらの品治郡東南部地域の総氏神として祀られた大社であったことが伺える。

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