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備後の歴史を歩くコミュの素盞嗚神社

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延喜式・・・905年、平安時代醍醐天皇が藤原時平らに命じて編纂を開始し、927年に完成。その後も加筆修正され967年に施行された法律だ。五十巻三千数百条の条文を持ち、巻一から巻十が神祇官関係である。このうち、巻九・十は神名帳で、これは当時、官社とされた全国2,861の神社を国郡別に記載している。ここに記載された神社が「式内社」と呼ばれ、少なくとも今から千年以上昔の平安時代にはすでにその地に存在し、しかも官社として認定されていた神社なのである。ただ、鎌倉、室町、戦国時代を経て江戸時代の頃には、その所在や訳のわからなくなった式内社が多数ある。江戸時代が幕を閉じ、明治天皇を中心とした新政府が誕生すると国家神道が復活し、そして国を挙げて式内社現況調査が行われ、現存する神社が次々と式内社に比定され、これを元に官国弊社、県社、郷社等の新たな社格制度が成立したのである。福山市周辺では九社が神名帳に記載されていて、順に紹介しようと思う。

 備後国沼隈郡には三座として高諸神社・沼名前神社・比古佐須伎神社が、また、深津郡一座として須佐能袁能神社が記載されている。ところが明治の始めにはすでに高諸神社も沼名前神社も須佐能袁能神社も行方不明状態であった。そこで政府から調査を命ぜられた廃藩置県前の福山藩は、江戸時代中期に福山藩士の宮原氏がまとめた郷土史「備陽六郡志」、向永谷村の庄屋・馬屋原重帯が著した備後全域の地誌「西備名区」、管茶山がまとめた「福山志料」などに各神社の由緒や祭神等の調査記事があり、その辺を参考に調査していったようである。 最近では1975年頃から式内社研究会(皇學館大学)が改めて調査をし「式内社調査報告」を編纂している。

 まず鞆町「沼名前(ぬなくま)神社」であるが、正直これはちょっとひどいと思う。鞆にはもともと京都祇園祭で有名な「八坂神社」の本社ともされていた「祇園社」があった。明治初頭、政府より発令された神仏分離令により社名を仏教色の強い「祇園社」からなにがしかへの変更を強いられた。当然、祇園社の祭神は「牛頭天王(ごずてんのう)・武塔神=スサノオ」であるから「素戔嗚神社」と改称したが、式内社スサノオは深津郡「須佐能袁能神社」であって明らかに鞆ではなく矛盾している。戸手に鎮座する「天王社」も同様に社名を変更を迫られており、こちらも同じ祭神であるから「素戔嗚神社」を名のった。鞆「祇園社」は明治四年になって神名帳に記載のある沼隈郡「沼名前神社」が当社だとし、祇園社(スサノオ)を以て式内社「沼名前(ヌナクマ)神社」と再変更を申請し、これが認められて再び改称。この日から式内社「沼名前神社」の名が復活し、また国幣小社という立派な社格が与えられた。広島県内広しといえども官国幣社という社格はたった四社にしか与えられていない。明治初年では官幣中社「厳島神社」と当社の2社のみであった。後に国幣中社「速谷神社」国幣小社新市町「吉備津神社」が昇格した。しかし、ここでもまた矛盾が生じた。祇園社の祭神は「スサノオ」である。沼名前神社の縁起は、神功皇后が朝鮮半島に出兵(三韓征伐)した際に鞆に立ち寄られ、海の神様、山幸彦(ヒコホホデミ)の義理のお父さん「オオワタツミ」を祭ったのだ。これでは明らかに祭神が違う。困った宮司さんは、祇園社境内にもう一つ「渡守社」が鎮座していることに気が付く。こちらの祭神はラッキーなことに「オオワタツミ」なのだ。そこで今度は明治七年になって「渡守社」が 沼名前神社だと再上申し、翌八年に認められ、八年がかりで一件落着となった。可哀想なのは、それまで本殿に祭られていた京都八坂神社の本社とまでされていた祇園サンだ。いきなり「あんたは違ってた」とワキに追いやられ、そして境内社の「渡守さん」が意味不明のまま本殿に大栄転された・・・。渡守社は度々火災に遭い、その都度遷座を繰り返し現在地に落ち着いた。たまたま広い社殿の祇園社の境内を間借りしていただけだと思う。鞆にはもう一つ港の突先に「淀姫神社」がある。創建等は不明だが、由緒書によると神功皇后が立ち寄られ「オオワタツミ」を祀った。そして朝鮮からの帰りに再び立ち寄られ戦勝のお礼に妹の淀姫をこの地に留めさせて「オオワタツミ社」をお守りしたと言うのだ。こちらの方が式内社に近いと思うが証明は何一つできない。

 一方、「備後國深津郡 須佐能袁能神社」であるが、現在は新市町戸手に鎮座する「素盞嗚神社」が、明治元年十月、それまで「天王社」と親しみ呼ばれていた神社が式内社「須佐能袁能神社」に比定され「素盞嗚神社(スサノオ)」と改名された。京都祇園社も八坂神社と改名している。

 祇園社、天王社共に祭神は牛頭天王(ごずてんのう)で、もともとはインドの釈迦が説法を行ったとされる祇園精舎の守護神で、日本ではアマテラスの弟、スサノオと習合してしまった。祇園祭で有名な京都八坂神社は、門前町が今の祇園として栄え、平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」と歌われるほどの古社であるが、神名帳への記載はない。これは当時、祇園サンは神社と言うよりは寺と見なされていたと想像できる。とするならば、単純に考えて鞆の祇園社、戸手の天王社も同じ理由で式内社ではないはずだ。

 戸手天王社が式内社に比定された理由はなぜだろうか。無病息災を願う「茅の輪くぐり」という神事をご存じだろうか。茅の輪(かやくさで作られた輪)をくぐるれば、健康でいられるというもので、全国のスサノオ系の神社で行われている。この「茅の輪くぐり」の由来であるが、備後風土記「疫隈国社(エノクマ?エノスミ?)」の縁起に「昔、北海(出雲?)から武塔神(=牛頭天王=スサノオ)が南海(?)の神女のもとに行かれる途中、日が暮れ一夜の宿を求めて此の地(戸手?鞆?)で富み栄えていた弟の巨旦将来(こたんしょうらい)の所へ行ったが断られ、貧しかった兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は快く宿をお貸しした。年を経て、命は八人の王子をつれて還られた時、蘇民将来の家に立ち寄られ「吾は速須佐能神なり、後の世に疫病あらば、汝は蘇民将来の子孫と云いて、茅の輪を以って腰に着けたる人は免れるであろう」といわれ、疫病が流行ったときに茅の輪を付けた蘇民将来の家族だけが助かったという物語だ。これが備後風土記に書かれていたものだから、この備後地方がめでたく伝説発祥の地となり京都祇園社の本社とされた。この「疫隈国社」が、新市町戸手江熊(エノクマ?)に鎮座する天王社であるとされたのだ。ただ戸手は品治郡で深津郡ではないが、これも備陽六郡志に「昔はこの辺りまで深津だった」との記載があり、この項も無事クリア。晴れて式内社「素盞嗚神社」に比定され、県社という社格が与えられた。・・・が、江戸時代の学者さん達は「調べたけど、ようわからん・・・」らしい。皇學館大学がまとめた「式内社調査報告」によると「戸手のが妥当だけれども、後考を期したい」と結んでいる。この説に対し、志賀剛氏が書かれた「式内社の研究」では深津町「王子神社」こそが「備後國深津郡 須佐能袁能神社」であると断言している。理由は「疫隈国社」の鎮座地の推理と、王子はスサノオの八人の子、八王子に由来し祭神もピタリと合致する。さらに、志賀氏の遺稿にもなった「日本の神々と建国神話」の中の八坂神社の項でも「今、福山市にある王子神社(式内須佐能袁能神社)は、この説話(蘇民将来)によって作られた日本最初の八王子を祀る神社である」と再度断言されている!取りあえず「王子神社」へも行ってみた。国道の北側、小高い丘の上に鎮座していた。

写真
左:鞆 沼名前神社 拝殿
中:戸手 素盞嗚神社本殿 檜皮葺 
右:王子神社 本殿

コメント(6)

詳しく調べていらっしゃいますね。森本繁氏の資料には、戸手周辺が江隈(入り江の隅)と呼ばれた地域であり、チノワくぐり発祥の地であるとも記載されていました。近辺には、新市や網引といった、かつてこの辺りが海であったことを連想させる地名が残っています。戸手という地名も、八戸や神戸、室戸のように海沿いの地域に使われる戸という字があります。確か、戸は「囲い」を意味するのではないかと記憶しています。

ちなみに、宮司様の苗字は江熊様とおっしゃいます。
井上新一さんが書かれた「駅家今昔」に面白い記述があります。

駅家町万能倉「石神神社社名考」から引用します。

西備名区の万能倉村の項にこの神社の創建にかかわるような次の記載がある。「大前の某というは、江熊牛頭天王社の神人にて、本殿の鍵主なり、神事に神殿を開く事あり、此の人至らざれば、敢えて開くことなし。いにしえ素盞嗚尊の宿し奉り饗膳すすめし、蘇民将来の子孫はこれなりと云う」

明治時代までは、万能倉の大前氏が戸手天王社本殿の鍵を保管していて、祭典のたびに此の家から鍵を持参し本殿を開かないと祭典が行われなかった。それが明治のいつの時代にか、鍵を天王社へ渡してしまったが、それでも現在にいたるまで毎年の例として天王社の祭典には必ず招かれていて、祭典の進行には重要な役割を果たしているという。石神神社の鍵は現在もこの家が保管している。また、この家が石神神社の境内に末社として鎮座している蘇民神社を祀っている・・・。


この人物に心当たりがありますか?

石神神社・・・神社庁への登録名は「素盞嗚神社」です。
本殿の写真を撮りに沼名前神社へ行ってきました。御弓神事が終わったあとで、閑散とたたずんでいた。


写真

左:切り妻流れ造り本殿、銅板葺き
中:同じ
右:境内社「渡守神社」 こちらに祀られていた「オオワタツミ」が本殿に移された。
明治政府から出された「神仏分離令」と書いてますが、・・・明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然例)(慶応4年(1868年)3月13日から明治元年10月18日までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す・・・。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



実際には、この通達に基づいて数年掛けて行われたようです。


京都八坂神社の本社が備後「疫隈国社」である理由

姫路の広峰山山頂に広峰神社がある。この神社の縁起は、奈良時代末の天平6年(734)に、吉備真備によって創祀されている。勧請した祭神は牛頭天王だ。

どこから勧請したかであるが、上記したように牛頭天王の発祥は備後だし、吉備真備も吉備の人だ。吉備真備が伝えた牛頭天王社(広峰神社)が京都に伝わり京都祇園社(八坂神社)となった。

広峰神社と京都祇園社では、双方が本社を名乗り相譲らないが、元を辿れば備後「疫隈国社」が本社となる。鞆祇園社か戸手天王社かはわからない。

写真
桁行が11間もある広峰神社本殿は国指定重要文化財。入母屋造、檜皮葺本殿の前部分に11間通りの縋破風向拝が造られている。




京都八坂神社(祇園社)
祭神は牛頭天王で貞観18年(876)に創建された。

元々拝殿と本殿は別棟で建てられていたが、承応3年(1654)に二棟を一つの入母屋屋根で覆った。その結果とてつもなくでかい社殿となった。備中一宮・吉備津神社も同じように拝殿と本殿を一つ屋根で覆っている。

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