依羅の原
旋頭歌
青(あを)みづら 依網(よさみ)の原に 人も逢はぬかも 石走る 淡海県(あふみあがた)の 物語せむ
((青みづらの)依羅の原で人と逢わないものかなあ。そうすれば(石走る)淡海の国の物語をしようものを)
原文; 青角髪依網原人相鴨石走淡海縣物語為
(柿本人麻呂歌集・巻七 ー1287)
依網の原、人も逢はぬかも、淡海県の物語と何三題話のような意味の分からない歌であるが、実際よく分からない歌である……
しかし、それだけに得体の知れぬ、何かある種怪しげな感じのする、探究心を唆られる歌ではある。
「青みづら 依羅の原」の「青みづら」とは「あをみつうら(碧海浦)」の意で三河国碧海郡にある「依羅」にかかるという」(岩波国語辞典)とのことで、この1287歌を例に挙げている。
しかし、如何に信頼ある岩波古語辞典の記事とはいえ誤りもあったし、人麻呂には依羅娘子という後妻がいたらしいこと、河内の依羅郷を本貫とする丹比三宅麻呂との関係、集中には人麻呂が三河に行った歌がないと思えること等から、三河の依羅と取るよりも河内の依羅と取った方が遥かに自然だと思うのである。
＞「人も逢はぬかも」の「人逢ふ」は「人に逢ふ」とは異なる。「人に逢ふ」は、自分が「人に逢ふ」意で、ごく普通の表現。「人逢ふ」は「人が私に逢ふ」意で相手が逢う意志を持ってこちらに逢ってくれることを示す(伊藤先生)
歌の内容が、伊藤先生の言うように人麻呂が依羅の原で誰か人麻呂に逢う意思を持っている人とひょっこり出逢うことを期待しているものだとすると、私たちはその「人」とは人麻呂の妻となったらしき依羅娘子かと考えがちである。が、その場合なら「妹」とするだろう。しかも原文を見ると助辞に「鴨」が一つあるだけの略体歌であり、作者が人麻呂だと仮定して略体歌を使用している人麻呂前期〜中期？(下記参照)において既に依羅娘子と知り合いになっていたとは考え難い。私は人麻呂が依羅娘子と結婚(再婚だろう)したのは、人麻呂晩年の、早くとも前妻が亡くなったと思しき文武四年(700)から大宝元年(文武五年・701)以後だろうと思うのである。
以前「朝月の 日向の山に」で述べたが………
人麻呂の活動を明示する最も早い年の作と言われる天武九年(680)の人麻呂歌集2033
七夕歌 「天漢安川原定而神競者磨待無」
は非略体歌であることから、この略体歌とされる1287旋頭歌は天武九年以前の作かと思っていたがややこしいことに旋頭歌はまた少し違うらしい(笑)
はっきりしないが、同じく人麻呂歌集所載の略体旋頭歌1294は持統十年くらいに人麻呂が長田王に従って筑紫下向した時に収集して書き加えたと思えるから、この1287歌は配列からに考えてその少し前の、持統中後期くらいの作と考えるのが妥当ではないか。
近江に赴いていた難波の官人が故郷の依羅に近づいた時の感慨を詠んだ歌、或いは河内地方の民謡に人麻呂が宴用に手を加え、自分を主人公に擬して作り直した……といった感じのものではないだろうか。
＞「淡海県(あがた)の 物語りせむ」の「県」とは、近江地方の意｡県は六世紀ごろ全国的に設けられた行政区画の名､朝廷の御料地ともいわれる｡県廃止後もその称が残り､単に「地方」の意で用いられた(奈良県立万葉文化館・万葉百科)
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「都と地方」という対立概念を考えると岩波古語辞典の「県」に書かれている��の「田舎」と取ってもよいのかもしれない。同�△任蓮崔亙�官の任命地」としてこの1287歌を例として挙げているが、巻九の人麻呂歌集の歌からは人麻呂が山城に赴任したことはあっても近江に赴任したことは無いと思える。したがって岩波古語辞典では少し後世のものだが��「田舎」とされているのが最も適しているように思う。
人麻呂が淡海に深い思い入れがあるように思えるのは、彼が近江の比良地方を本拠地としていた和爾氏(和邇氏とも)の同族(岸俊男・日本古代政治史研究) で和爾氏が「歌の物語を多く伝へてゐる家柄」(武田祐吉(国文学研究・柿本人麻呂攷。学燈社万葉集必携��) だからであろう。※��人麻呂が和爾氏の血を引いていることはその出生地を見れば明らかであるし、近江荒都歌、吉備津の子(実は志賀津の子)挽歌、武士(もののふ)の八十宇治川、夕波千鳥といった近江に関する歌を多く詠んでいることもそれが一因となっていると思われる。
これは以前にも言ったことだが、中でも近江荒都歌の反歌31番の異文系統「一は云はく、比良の」とあるのは、人麻呂がその比良を本拠地とする先祖の和爾氏の歌物語に大きな興味を持っていたからだろうと思うのだ。比良は上にも書いたが大津の辛崎からは相当遠くに離れて在る湖西の和爾氏の本貫のある土地である。
「淡海県の物語」が何をいうのかについては、壬申の乱によって滅び荒れてしまった近江京や無常をいうのだろうとする解説本が多い。しかしそれもあるのだろうが、それよりも武田祐吉氏の言う「和爾氏が歌の物語を多く伝へてゐる家柄」だったらしきことを考えると、私は人麻呂が望む「淡海県の物語」とは、その和爾氏の「歌の物語」なのではないだろうかと思うのである。人麻呂は忍壁に随行しての北陸下向旅の途上若しくは帰路でさぞかし比良に立ち寄りたかったことであろう。
31反歌の異文系統「ささなみの 比良の※�ぢ腓錣� 淀むとも 昔の人に 逢はむと思へや」は
(楽浪の比良の大わだよ、お前がどんなに淀んだとしてもここで昔の人にめぐり逢うだろうなどと思おうか(いや、思いはしない))という意味である。
この「昔の人」も、「や」という反語を考えればもうこの世にはいない比良の和爾氏の人々を指すのだろう。
また、そう考えると、この1287歌二、三句の「依網の原に 人も逢はぬかも」の「人」とは、こういった和爾氏の歌の物語を知っている人をいうのではないだろうか。
中西先生は「人」について「依羅娘子」と称する語部(かたりべ)がいて近江や人麻呂の伝承を伝えたか。その人」と述べている。が、それが人麻呂の妻 依羅娘子をいうのか否かは分からない。この評からもこの歌の民謡性、芸謡性といったものが感じられるように思う。
前に投稿した丹比三宅麻呂についての記事の「依羅」から思い出したことで、以前「好きなうた」トピに投稿したことのある歌だが、少し進展があった？かと思う(笑)ので投稿することにした。
※� 帖帖帖聴貌�先生は「上の句の『人も逢わぬかも』に、『人のいない道で愛しいあの子がひょっこり現れてくれないかなあ』の意を内包しているとすれば『近江県の物語り』は、当時の人々には先刻承知の寝物語と理解することができる」と述べている。一首を男女関係から解こうとする解で「代匠記」以来あるらしい。
この場合、先生は依羅娘子のことは念頭になかったのだろうか。
※�⊇仞乎蓮帖帖朕曜穗い僚仞乎呂賄畦�市櫟本に違いないだろう。櫟本の和爾下神社の鳥居から東へ150米近くには平安末に清原清輔が建てた人麻呂の墓標を享保年間再興、傍に歌塚の碑がある。歌塚のすぐ東の小山に式内和爾下神社があり柿本氏と同族の春日、和爾、櫟井、布留臣(物部氏ではない)らの祖神天押足彦命(あめのおしたらしひこ)を祀っている(犬養 孝・万葉の旅(上))
和爾下神社の北方には和爾の集落がある。
※��…………しかもこれらの歌は悲哀を感じさせる歌が多いが、これは人麻呂の先祖である和爾氏が衰退してしまって滅亡する寸前であったからではないだろうか。
※�� わだ………川や湖の淀み。関西地方で言う「わんど」も入るか
〈参 考〉
猿女(さるめ)氏………鎮魂祭に奉仕する猿女と呼ばれる女性を貢進した古代氏族。天孫降臨に際し先導となった天鈿女命（あめのうずめのみこと）を祖と伝える。
〈弘仁私記序〉に、稗田阿礼(ひえだのあれ）を天鈿女命の後裔と伝えているので稗田氏同様，和珥（わに）氏の同族であった可能性がある(執筆者;和田 萃)
出典; 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」
他にも和爾氏の同族と考えられているものに遣隋使として有名な小野妹子、現世とあの世とを往復していたという伝説を持つ小野篁(たかむら)の出た小野氏がある。
和爾や小野というのはJR湖西線の駅名にもなっており、その辺りがかつての和爾氏の本拠地の比良である。
古代大和では奈良〜石上の間は柿本氏の他春日、大宅、櫟井といった和爾氏支族の勢力圏で、石上周辺は物部氏の勢力圏であった(岸俊男・日本古代政治史研究)
旋頭歌
青(あを)みづら 依網(よさみ)の原に 人も逢はぬかも 石走る 淡海県(あふみあがた)の 物語せむ
((青みづらの)依羅の原で人と逢わないものかなあ。そうすれば(石走る)淡海の国の物語をしようものを)
原文; 青角髪依網原人相鴨石走淡海縣物語為
(柿本人麻呂歌集・巻七 ー1287)
依網の原、人も逢はぬかも、淡海県の物語と何三題話のような意味の分からない歌であるが、実際よく分からない歌である……
しかし、それだけに得体の知れぬ、何かある種怪しげな感じのする、探究心を唆られる歌ではある。
「青みづら 依羅の原」の「青みづら」とは「あをみつうら(碧海浦)」の意で三河国碧海郡にある「依羅」にかかるという」(岩波国語辞典)とのことで、この1287歌を例に挙げている。
しかし、如何に信頼ある岩波古語辞典の記事とはいえ誤りもあったし、人麻呂には依羅娘子という後妻がいたらしいこと、河内の依羅郷を本貫とする丹比三宅麻呂との関係、集中には人麻呂が三河に行った歌がないと思えること等から、三河の依羅と取るよりも河内の依羅と取った方が遥かに自然だと思うのである。
＞「人も逢はぬかも」の「人逢ふ」は「人に逢ふ」とは異なる。「人に逢ふ」は、自分が「人に逢ふ」意で、ごく普通の表現。「人逢ふ」は「人が私に逢ふ」意で相手が逢う意志を持ってこちらに逢ってくれることを示す(伊藤先生)
歌の内容が、伊藤先生の言うように人麻呂が依羅の原で誰か人麻呂に逢う意思を持っている人とひょっこり出逢うことを期待しているものだとすると、私たちはその「人」とは人麻呂の妻となったらしき依羅娘子かと考えがちである。が、その場合なら「妹」とするだろう。しかも原文を見ると助辞に「鴨」が一つあるだけの略体歌であり、作者が人麻呂だと仮定して略体歌を使用している人麻呂前期〜中期？(下記参照)において既に依羅娘子と知り合いになっていたとは考え難い。私は人麻呂が依羅娘子と結婚(再婚だろう)したのは、人麻呂晩年の、早くとも前妻が亡くなったと思しき文武四年(700)から大宝元年(文武五年・701)以後だろうと思うのである。
以前「朝月の 日向の山に」で述べたが………
人麻呂の活動を明示する最も早い年の作と言われる天武九年(680)の人麻呂歌集2033
七夕歌 「天漢安川原定而神競者磨待無」
は非略体歌であることから、この略体歌とされる1287旋頭歌は天武九年以前の作かと思っていたがややこしいことに旋頭歌はまた少し違うらしい(笑)
はっきりしないが、同じく人麻呂歌集所載の略体旋頭歌1294は持統十年くらいに人麻呂が長田王に従って筑紫下向した時に収集して書き加えたと思えるから、この1287歌は配列からに考えてその少し前の、持統中後期くらいの作と考えるのが妥当ではないか。
近江に赴いていた難波の官人が故郷の依羅に近づいた時の感慨を詠んだ歌、或いは河内地方の民謡に人麻呂が宴用に手を加え、自分を主人公に擬して作り直した……といった感じのものではないだろうか。
＞「淡海県(あがた)の 物語りせむ」の「県」とは、近江地方の意｡県は六世紀ごろ全国的に設けられた行政区画の名､朝廷の御料地ともいわれる｡県廃止後もその称が残り､単に「地方」の意で用いられた(奈良県立万葉文化館・万葉百科)
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「都と地方」という対立概念を考えると岩波古語辞典の「県」に書かれている��の「田舎」と取ってもよいのかもしれない。同�△任蓮崔亙�官の任命地」としてこの1287歌を例として挙げているが、巻九の人麻呂歌集の歌からは人麻呂が山城に赴任したことはあっても近江に赴任したことは無いと思える。したがって岩波古語辞典では少し後世のものだが��「田舎」とされているのが最も適しているように思う。
人麻呂が淡海に深い思い入れがあるように思えるのは、彼が近江の比良地方を本拠地としていた和爾氏(和邇氏とも)の同族(岸俊男・日本古代政治史研究) で和爾氏が「歌の物語を多く伝へてゐる家柄」(武田祐吉(国文学研究・柿本人麻呂攷。学燈社万葉集必携��) だからであろう。※��人麻呂が和爾氏の血を引いていることはその出生地を見れば明らかであるし、近江荒都歌、吉備津の子(実は志賀津の子)挽歌、武士(もののふ)の八十宇治川、夕波千鳥といった近江に関する歌を多く詠んでいることもそれが一因となっていると思われる。
これは以前にも言ったことだが、中でも近江荒都歌の反歌31番の異文系統「一は云はく、比良の」とあるのは、人麻呂がその比良を本拠地とする先祖の和爾氏の歌物語に大きな興味を持っていたからだろうと思うのだ。比良は上にも書いたが大津の辛崎からは相当遠くに離れて在る湖西の和爾氏の本貫のある土地である。
「淡海県の物語」が何をいうのかについては、壬申の乱によって滅び荒れてしまった近江京や無常をいうのだろうとする解説本が多い。しかしそれもあるのだろうが、それよりも武田祐吉氏の言う「和爾氏が歌の物語を多く伝へてゐる家柄」だったらしきことを考えると、私は人麻呂が望む「淡海県の物語」とは、その和爾氏の「歌の物語」なのではないだろうかと思うのである。人麻呂は忍壁に随行しての北陸下向旅の途上若しくは帰路でさぞかし比良に立ち寄りたかったことであろう。
31反歌の異文系統「ささなみの 比良の※�ぢ腓錣� 淀むとも 昔の人に 逢はむと思へや」は
(楽浪の比良の大わだよ、お前がどんなに淀んだとしてもここで昔の人にめぐり逢うだろうなどと思おうか(いや、思いはしない))という意味である。
この「昔の人」も、「や」という反語を考えればもうこの世にはいない比良の和爾氏の人々を指すのだろう。
また、そう考えると、この1287歌二、三句の「依網の原に 人も逢はぬかも」の「人」とは、こういった和爾氏の歌の物語を知っている人をいうのではないだろうか。
中西先生は「人」について「依羅娘子」と称する語部(かたりべ)がいて近江や人麻呂の伝承を伝えたか。その人」と述べている。が、それが人麻呂の妻 依羅娘子をいうのか否かは分からない。この評からもこの歌の民謡性、芸謡性といったものが感じられるように思う。
前に投稿した丹比三宅麻呂についての記事の「依羅」から思い出したことで、以前「好きなうた」トピに投稿したことのある歌だが、少し進展があった？かと思う(笑)ので投稿することにした。
※� 帖帖帖聴貌�先生は「上の句の『人も逢わぬかも』に、『人のいない道で愛しいあの子がひょっこり現れてくれないかなあ』の意を内包しているとすれば『近江県の物語り』は、当時の人々には先刻承知の寝物語と理解することができる」と述べている。一首を男女関係から解こうとする解で「代匠記」以来あるらしい。
この場合、先生は依羅娘子のことは念頭になかったのだろうか。
※�⊇仞乎蓮帖帖朕曜穗い僚仞乎呂賄畦�市櫟本に違いないだろう。櫟本の和爾下神社の鳥居から東へ150米近くには平安末に清原清輔が建てた人麻呂の墓標を享保年間再興、傍に歌塚の碑がある。歌塚のすぐ東の小山に式内和爾下神社があり柿本氏と同族の春日、和爾、櫟井、布留臣(物部氏ではない)らの祖神天押足彦命(あめのおしたらしひこ)を祀っている(犬養 孝・万葉の旅(上))
和爾下神社の北方には和爾の集落がある。
※��…………しかもこれらの歌は悲哀を感じさせる歌が多いが、これは人麻呂の先祖である和爾氏が衰退してしまって滅亡する寸前であったからではないだろうか。
※�� わだ………川や湖の淀み。関西地方で言う「わんど」も入るか
〈参 考〉
猿女(さるめ)氏………鎮魂祭に奉仕する猿女と呼ばれる女性を貢進した古代氏族。天孫降臨に際し先導となった天鈿女命（あめのうずめのみこと）を祖と伝える。
〈弘仁私記序〉に、稗田阿礼(ひえだのあれ）を天鈿女命の後裔と伝えているので稗田氏同様，和珥（わに）氏の同族であった可能性がある(執筆者;和田 萃)
出典; 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」
他にも和爾氏の同族と考えられているものに遣隋使として有名な小野妹子、現世とあの世とを往復していたという伝説を持つ小野篁(たかむら)の出た小野氏がある。
和爾や小野というのはJR湖西線の駅名にもなっており、その辺りがかつての和爾氏の本拠地の比良である。
古代大和では奈良〜石上の間は柿本氏の他春日、大宅、櫟井といった和爾氏支族の勢力圏で、石上周辺は物部氏の勢力圏であった(岸俊男・日本古代政治史研究)
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コメント(1)
〈参考〉 和爾氏の歌物語
応神記に天皇が近つ淡海に行幸した際、宇治にて葛野(かづの)を望んだときの国見歌と、宇治の木幡村で和爾氏の娘である宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)と出会って妻問いした後、開かれた饗宴に彼女の家へ招き入れられた時の歌が載っている。
一時（あるとき）、天皇、近つ淡海国に越え幸しし時、宇遅野（うぢの）の上に御立(たた)して、葛野を望（みさ）けて歌ひて曰はく、
千葉の 葛野を見れば 百千足（ももちだ）る 家庭（やには）も見ゆ 国の秀（ほ）も見ゆ（記歌謡42)
とうたひたまひき。
故（かれ）、木幡村（こはたのむら）に到り坐しし時、麗美（うるは）しき嬢子、其の道衢（ちまた）に遇へり。爾（ここ）に天皇、其の嬢子に問ひて曰りたまはく、「汝は誰が子ぞ」とのりたまへば、答へて白さく、「丸邇之比布礼能意富美（わにのひふれのおほみ）の女、名は宮主矢河枝比売（みやぬしやかはえひめ）なり」とまをしき。天皇、即ち其の嬢子に詔りたまはく、「吾、明日還り幸（いでま）さむ時、汝が家に入り坐さむ」とのりたまひき。故、矢河枝比売、委曲（まつぶさ）に其の父に語りき。是に父答へて曰く、「是は天皇の坐すなり。恐（かしこ）し。我が子仕へ奉れ」と云ひて、其の家を厳餝（かざ）りて候（さもら）ひ待てば、明日入り坐しき。故、大御饗（おほみあへ）を献りし時、其の矢河枝比売命に、大御酒盞（おほみさかづき）を取らしめて献りき。是に天皇、其の大御酒盞を取らしめ任（なが）ら、御歌（みうたよ）みして曰（のたまは）く、
この蟹や 何処（いづく）の蟹 百伝ふ ※�ヽ兌�（つぬが）の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島（いちぢしま） 美島（みしま）に着（と）き 鳰鳥（みほどり）の 潜（かづ）き息づき しなだゆふ 佐々那美道（ささなみぢ）を すくすくと 我が行（い）ませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子 後姿（うしろで）は 小楯（をだて）ろかも 歯並みは 椎菱（しひひし）如（な）す 櫟井（いちひゐ）の 和邇坂（わにさ）の土（に）を 初土（はつに）は 膚赤らけみ 底土（しはに）は 土黒（にぐろ）きゆゑ ※�∋阿跳�の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉（まよ）画（が）き 此（こ）に画き垂れ 逢はしし女（をみな） かもがと 我（わ）が見し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに 対ひ居るかも い添ひ居るかも（記43)
とうたひたまひき。如此（かく）御合（みあひ）したまひて生みませる御子は、※��宇遅能和紀郎子（うぢのわきいらつこ）なり。（記歌謡43)
※�� 角鹿(つぬが)………現在の敦賀。和爾氏の勢力範囲であった。
※�∋扱�(みつぐり)の中…………「三栗の」は「中」に掛かる枕詞。
栗のいがのなかに実が三つ入っている、その中央の意から、「中」および地名「那賀(なか)」
にかかる。「ー中つ枝(え)の」(記歌謡43)、「ー那賀に向かへる曝井の」(万1745)
(岩波古語辞典) なお、「三つ栗の中」は記歌謡44にも出てくる。
これについては人麻呂歌集に次のような歌がある。
妻の和(こた)へたる歌一首
松反り しひてあれやは 三栗の中 上り来ぬ 麻呂といふ奴
(鷹の松反りという言葉があるが惚けてしまったのか。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもして来ない、この麻呂っていう奴は(釈注より))
(人麻呂歌集・巻九 ー1783)
この歌は人麻呂の妻が作ったということになっているが、さすがに妻がこんな枕詞を知っているとは思えない。人麻呂の作った戯れの宴会歌かと思われるが、人麻呂はこの枕詞もこの記歌謡43から採ったのだろうか。
※��「宇治若郎子」は応神天皇の皇子で仁徳天皇と皇位を譲り合い、宇治の宮で自殺したという。
「古人」は宇治若郎子を指す。これについても人麻呂歌集に次のような歌がある
挽歌
宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮所の歌一首
妹(いも)らがり 今木(いまき)の嶺(みね)に 茂り立つ 妻(つま)松の木は 古人(ふるひと)見けむ
(妹の家に今来たという今木の嶺に茂り立つ松、夫の訪れを待つように今も立つ松の木を昔の人は見たのだろうか(釈注より))
(人麻呂歌集・巻九ー1795)
古人とは宇治若郎子のことである。
応神記に天皇が近つ淡海に行幸した際、宇治にて葛野(かづの)を望んだときの国見歌と、宇治の木幡村で和爾氏の娘である宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)と出会って妻問いした後、開かれた饗宴に彼女の家へ招き入れられた時の歌が載っている。
一時（あるとき）、天皇、近つ淡海国に越え幸しし時、宇遅野（うぢの）の上に御立(たた)して、葛野を望（みさ）けて歌ひて曰はく、
千葉の 葛野を見れば 百千足（ももちだ）る 家庭（やには）も見ゆ 国の秀（ほ）も見ゆ（記歌謡42)
とうたひたまひき。
故（かれ）、木幡村（こはたのむら）に到り坐しし時、麗美（うるは）しき嬢子、其の道衢（ちまた）に遇へり。爾（ここ）に天皇、其の嬢子に問ひて曰りたまはく、「汝は誰が子ぞ」とのりたまへば、答へて白さく、「丸邇之比布礼能意富美（わにのひふれのおほみ）の女、名は宮主矢河枝比売（みやぬしやかはえひめ）なり」とまをしき。天皇、即ち其の嬢子に詔りたまはく、「吾、明日還り幸（いでま）さむ時、汝が家に入り坐さむ」とのりたまひき。故、矢河枝比売、委曲（まつぶさ）に其の父に語りき。是に父答へて曰く、「是は天皇の坐すなり。恐（かしこ）し。我が子仕へ奉れ」と云ひて、其の家を厳餝（かざ）りて候（さもら）ひ待てば、明日入り坐しき。故、大御饗（おほみあへ）を献りし時、其の矢河枝比売命に、大御酒盞（おほみさかづき）を取らしめて献りき。是に天皇、其の大御酒盞を取らしめ任（なが）ら、御歌（みうたよ）みして曰（のたまは）く、
この蟹や 何処（いづく）の蟹 百伝ふ ※�ヽ兌�（つぬが）の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島（いちぢしま） 美島（みしま）に着（と）き 鳰鳥（みほどり）の 潜（かづ）き息づき しなだゆふ 佐々那美道（ささなみぢ）を すくすくと 我が行（い）ませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子 後姿（うしろで）は 小楯（をだて）ろかも 歯並みは 椎菱（しひひし）如（な）す 櫟井（いちひゐ）の 和邇坂（わにさ）の土（に）を 初土（はつに）は 膚赤らけみ 底土（しはに）は 土黒（にぐろ）きゆゑ ※�∋阿跳�の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉（まよ）画（が）き 此（こ）に画き垂れ 逢はしし女（をみな） かもがと 我（わ）が見し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに 対ひ居るかも い添ひ居るかも（記43)
とうたひたまひき。如此（かく）御合（みあひ）したまひて生みませる御子は、※��宇遅能和紀郎子（うぢのわきいらつこ）なり。（記歌謡43)
※�� 角鹿(つぬが)………現在の敦賀。和爾氏の勢力範囲であった。
※�∋扱�(みつぐり)の中…………「三栗の」は「中」に掛かる枕詞。
栗のいがのなかに実が三つ入っている、その中央の意から、「中」および地名「那賀(なか)」
にかかる。「ー中つ枝(え)の」(記歌謡43)、「ー那賀に向かへる曝井の」(万1745)
(岩波古語辞典) なお、「三つ栗の中」は記歌謡44にも出てくる。
これについては人麻呂歌集に次のような歌がある。
妻の和(こた)へたる歌一首
松反り しひてあれやは 三栗の中 上り来ぬ 麻呂といふ奴
(鷹の松反りという言葉があるが惚けてしまったのか。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもして来ない、この麻呂っていう奴は(釈注より))
(人麻呂歌集・巻九 ー1783)
この歌は人麻呂の妻が作ったということになっているが、さすがに妻がこんな枕詞を知っているとは思えない。人麻呂の作った戯れの宴会歌かと思われるが、人麻呂はこの枕詞もこの記歌謡43から採ったのだろうか。
※��「宇治若郎子」は応神天皇の皇子で仁徳天皇と皇位を譲り合い、宇治の宮で自殺したという。
「古人」は宇治若郎子を指す。これについても人麻呂歌集に次のような歌がある
挽歌
宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮所の歌一首
妹(いも)らがり 今木(いまき)の嶺(みね)に 茂り立つ 妻(つま)松の木は 古人(ふるひと)見けむ
(妹の家に今来たという今木の嶺に茂り立つ松、夫の訪れを待つように今も立つ松の木を昔の人は見たのだろうか(釈注より))
(人麻呂歌集・巻九ー1795)
古人とは宇治若郎子のことである。
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