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萬葉集・万葉集コミュの柿本朝臣人麻呂の「朝臣」という称号

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万葉集、(巻一、二九)の詞書は「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」で、人麿の称号が「朝臣」であることを告げています。これ以降、頻出します。万葉集を紐解くとき、最初に出てくる朝臣が、「巻一、十六」の題詞、

近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇謚曰天智天皇] / 天皇詔内大臣藤原【朝臣】競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌

にある「内大臣藤原朝臣」です。これが、藤原鎌足であることは諸家異論がありません。その鎌足は、

 生まれ: 西暦614年, 日本
 死 去: 西暦669年11月14日, 大和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3

です。問題は「朝臣」という称号にあります。

 朝臣
朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓やくさのかばねの制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当する。 上から一番目の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中で事実上、最も上の地位にあたる。 古くは「あそみ」と読み、阿曽美や旦臣とも書いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%87%A3

で、西暦「684年(天武天皇13年)に制定された」ことが日本書紀に記されています。であるにも関わらず、それより十五年前に死去した鎌足が、何故「朝臣」なのか、全く理解不能なのです。

「八世紀になって追贈されたのではないか」

であれば、何故「真人」を追贈しないのか。第二位の人麿と同じ「朝臣」では、余りにも「格落ち」です。

 ここに見られる矛盾を明らかにしたのも古田武彦です。以下、『人麿の運命』の「第6章 人麿の立つ大地」の記述をもとに論を進めます。

 問題のポイントは次の点にあります。

  (一)藤原鎌足は「朝臣」であった。(姓)
  (二)それは、日本書紀・天武紀、天武十三年の、いわゆる「八色の姓」とは矛盾する。

 この二点が確実です。そして肝心の一点、それは次の点にあります。

  (三)「柿本朝臣人麿」の「朝臣」も、鎌足の「朝臣」も同質の称号である。

なぜなら、万葉集中、最初に出現する「朝臣」が鎌足、そして二回目以降、もっとも頻出する「朝臣」が、他ならぬ人麿の「朝臣」です。史料批判の原則上、両者は同質の「朝臣」。これは余りにも当然の判断という他ありません。

 にも拘わらず、従来、 

  (a)人麿の「朝臣」は、天武十三年の「八色の姓」の第二位のものに、ぴったり適合している。
  (b)鎌足の「朝臣」は、何かの間違いだろう。(あるいは、後の追記〈ただしここだけ〉 

といった形で処理してきたように見えるのは、安直きわまりない。いうなれば、一種の「ドンブリ勘定」のたぐい。学問の名に値しない。

ということになります。この回答は何か。この問に答える前に、さらに重大な疑惑に直面しなければなりません。それは、

 「天渟中原瀛真人天皇〈あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと〉」

 これは、天武天皇の称号です。「天武天皇」というのは、後代の呼び名で、当時は、この名で呼ばれています。巻一、巻二の、

 「明日香清御原宮に天の下知らしめしし天皇の代」

 という項目の下に、
 
 「〔A〕、謚(おくりな)して天武天皇といふ」
 
 とある、この〔A〕のところに、この名前が書かれています。

 つまり、天武天皇その人の称号が「真人」なのです。したがって、天武十三年の「八色の姓」の場合、

  「真人が、だれだれを真人に任命する」

という奇妙なことになります。先の「朝臣鎌足」問題と一緒に視野に入れると、身動きが取れなくなります。これを解くには、より広い視野に立つ必要があります。それが、『旧唐書』日本伝です。

 旧唐書 巻199上 東夷伝 「倭国の条」は、

 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、〜」
 
と記し、「日本国の条」は、

 「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。

としています。この内容は、「郭務悰 (かくむそう)の政治的軍事的報告書」の反映であり、本質的に疑うことができません。唐朝において諸官を歴任して高官に登った阿倍 仲麻呂の証言もこれを裏付けています。

 つまり、七世紀末までは、少なくとも「大儀名分」上、筑紫の倭国が権力中心であり、冠位、行政、法度、律令、それぞれ「筑紫」が中心だった。そう考える他ありません。それなのに、『日本書紀』という正史は、

  「神武以来、大和が全国の中心」

 という“顔”をして記述されています。つまり、歴史の偽造をしています。この歴史事実、旧唐書の倭国伝から見るとき、先の矛盾は矛盾でなくなります。

  「八色の姓」は、筑紫の倭国から発布された制度である」

 これが回答です。しかも他にもある『日本書紀』の多数の「転用」、ハッキリいえば「盗用」の場合、時間体は“自由に”移動させられています。

 してみれば、この「八色の姓」も、「鎌足」以前の“ある時点”のもの、という他ありません。将来、「禁書」の原本か、その写しが発見されない限り、時点を明確にすることはできませんが。

 この俯瞰の峰から、問題を整理しましょう。

 第一、鎌足は、筑紫の「倭国」から「朝臣」に任命されていた。

 第二、天武天皇も、同じく「倭国」から「真人」に任命されていた。(「真人」を「姓」のように、上におかず、名の下においたのは、八世紀)。

 第三、人麿も「朝臣」に任命されたのは、筑紫の倭国からであった。

 以上です。

 また、紀貫之が『古今集』の「新、仮名序」で人麿を「おほきみつのくらゐ」、つまり「正三位」と明記していますが、これを任命したのも筑紫の倭国であるのは、これまでの論述から明らかでしょう。

 このように、江戸国学の契沖、真淵、宣長らの言語言霊論、大和朝廷一元史観に基づく万葉解釈を無批判に引き継ぐ現在の小川靖彦、中西進他の万葉学会的理解を離れ、科学的、論理的な言語、歴史解釈の目で万葉集を理解することにより、そこに歴史の真実が反映していることが当然ながら明らかになります。■ 

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