このようにして、あらゆる創られたものの中に、the Prime Creator(もっとも始めに創造を司った存在)の基本的な特質の痕跡があります。確かに、Areopagitaによれば、「存在するあらゆるもの」は、「本質的に美しいもの」から産まれ、その部分の中に、認めることのできる「美」の痕跡を含んでいる。
この上に高揚するという方法は、いろいろなキリスト教の神秘主義者達によって言い伝えられ使われてきました。とくに聖フランシスです。彼は「Canticle of the Creatures(創造物の賛美歌)」のなかで「太陽を神とみなしている」事を考えてください。彼はまた修道院に花を植えることを指示しました。それによって花を見る人が永遠の優しさを思い出すことがあるようにと考えたからです。この方法は、St Rosa of Limaの方法でもありました。この人にとっては、鳥の鳴き声や一つの花の姿が、彼女の魂を、直接的に神のレベルまで高揚させました。St Francis of Salesもまた、あらゆる自然の美しい現象を「神を示すもの」と意識を変えて行くことをしたマスターでした。それは、「精神面(spiritual)」での例え(アナロジー)としてであり、シンボリズムでした。
内なる「美」、モラルの美しさ、崇高さや調和のとれた考え・寛容な感情・英雄的な行動の美しさについては、Maurice Maeterlinck.によってうまく表現されています。次にあげるのが、彼の本「The Treasure of the Humble」の中の「内なる美」からの引用であります。この本は彼の作品の中でもっとも、素晴らしく格調高いものであります。
私たちは、すでに、「神性divinity」の二つの側面である「偏在性」と「超越性」について述べてきました。両方とも真実であり必要なもので す。しかし、片方だけを取り上げると、片手落ちです。両方が統合・融合される必要があります。「宇宙偏在性=内在性」の側面が優位であると扱われると、 「神性」という「アイデア」や「それがかたちとなって表われているもの」が、下がったり薄れたりする。このようにして、美学の分野では、「表現」と「造 形」の側面が広がってゆくとすると、Parnassians and the Neo-classicists達の優雅で・心地のよく・洗練された「冷たい完全さ」を持つことになる。宗教の分野では、「感傷的な神秘主義」や「神が人 間になった」という人間が全面に出過ぎた「個人的な神への愛」になります。思想の分野では、人間を人間のまま神聖視するのです。ある種の理想視する傾向の 果てにそうなるのです。これとは逆に、「超越性」の部分にあまりにも強調があると、二元主義が強くなりすぎます。自然や神が、人間の反対側に追いやられる のです。「創造されたもの」と「創造主」の間に、人工的に対立が作られるのです。その結果、人間と神との間に、あまりにも広いギャップができるのです。
ここでも、メーテルリンクの「The Treasure of the Humble」を薦めます。この本の「silenceすなわち、静けさ」についての章が、私たちが評価をやり直すことの役に立ちます。外面的な「人・モ ノ・事」の「取るに足らない部分」や、「せわしさ」から離れて、見つめ直すことが役立つのです。長い間する事のなかった「超越的に感じること」をもう一度 取り組むことにより、偉大な「現実reality」を直接的に体験するです。すなわち、あらゆる形の向こうに存在する「美」を感じるようになる事です。こ の「美」とはプラトンが、彼の無比の散文で語ったものです。あの永遠の「美」は、絶対の「もの」として・完全なユニットとして、それ自身で永遠に存在する のです。