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ミュージカルの原作本、映画コミュの原作となった実在の人物

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歴史上の人物や有名人がモデルのミュージカルがありますよね。
その人たちを紹介するトピックです!

コメント(15)

アニー・オークリー

アニーよ銃を取れのモデルとなった人物。
19世紀後半に活躍した射撃の名手にして、バッファロー・ビルのワイルド・ウエスタン・ショーの花形スターだったそうです。
とにかくアニーの純粋な恋心が素敵で応援したくなるミュージカルです。
しかし劇中のインディアンの儀式や、男性優位な描写が問題になったりして映画は73年以降映画の公開を差し止めてしまい、長い間リバイバルもビデオ化もされなかったようです。
そしてベルナデット・ピータース主演で再演されたブロードウェイ版でも、インディアン描写はカット。
おちも変更されての上演でした。
アニー・オークリー Annie Oakleyことフィービ・アン・モーゼス Fhoebe Ann Moses(1860〜1926)は,ワイルド・ウェスト・ショーの人気女性ガンマン。小さな射撃手 Little Sure Shotと呼ばれ,曲打ちの名手だった。ショーのヨーロッパ巡業でドイツ皇太子の持つ葉巻の先を打ち落として見せたなど数々の伝説がある。
ミュージカル"アニーよ銃を取れ Annie, Take Your Gun"のモデルでもあるが,作中とは異なり1875年の射撃大会でちゃんとフランク・バトラーを負かしている(子供の頃から抜群に射撃が上手かったらしい)。その後結婚し,夫婦でワイルド・ウェスト・ショーのスターとして活躍したのはその通り。
エヴァ・ペロン

エヴィータのモデルです。
アルゼンチン大統領フアン・ドミンゴ・ペロンの妻でありファーストレディだった女性。
マリア・エバ・ドゥアルテ(旧姓名)はアルゼンチン、パンパス草原の貧しい村・ロス・トルドスで未婚のコック、フアナ・イバルグレン(1894年 - 1971年)と妻帯者である農場所有者フアン・ドアルテ(1872年 - 1926年)との間に生まれた5人の私生児のうちの一人として誕生。15歳でブエノスアイレスに上京。
そしてラジオドラマの声優で花開く。
その時にファン・ドミンゴ・ペロン大佐の愛人となる。
夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、ファーストレディ(大統領夫人)となったエバは国政に積極的に参加。慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立し、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備に務め、また、労働者による募金でミシン、毛布、食料などを配布(その一部は日本にも送られた)、貧困層の政府の無策に対する不満を逸らすのに役立った。また、正義党の婦人部門を組織するなど、ペロン政権の安定に大きな貢献をした。
反面、選挙で選ばれたわけでもないエバの公私混同とも言える活動や、その「ばら撒き」とも言える無軌道な政策に疑問を持つ向きも多かった上、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。
しかし、貧困者の優遇政策に務め、女性参政権を実現(1947年)したのも事実で、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、エビータと愛称で呼ばれるようになり、アルゼンチンで最も影響力のある人物となった。このように、民衆から支持があったものの、特にアルゼンチンの白人富裕層からはひどく嫌われ、その経歴から「淫売」、「成り上がり」と批難を受け、カトリック信者がその殆どを占める保守的なラテンアメリカの土壌においては、女性として政治において活動的過ぎる人物と見なす者も多かった。
1952年に33歳で子宮癌によって死去、その葬儀には数十万の市民が参列した。その後フアン・ペロン政権が軍事クーデターで1955年に倒れるまで、その遺体はミイラとして展示された。のち遺体はイタリアのミラノへ空輸され埋葬され、16年後の1971年に遺体は発掘されスペインに空輸された。
その後国外に亡命していたフアン・ドミンゴはアルゼンチンに帰国し大統領に再び就任したが、その後1974年に死去した。エバの遺体はアルゼンチンに返還され、夫・フアンの遺体のそばに展示された。
エリーザベト・アメーリエ・オイゲニー(Elisabeth Amalie Eugenie、1837年 - 1898)

エリザベートのモデル。
エリーザベトはバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の一族に生まれた。
姉ヘレーネの見合い相手だった従兄の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められ、2人は婚約することになり、エリーザベトは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。
しかし、母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さが耐えられなかった。
彼女は宮廷生活を嫌い、大西洋に浮かぶマデイラ島などに療養に行ったり、夫の同行でイタリアを訪問したり、個人的に病院を慰問したりと、理由を見つけてはウィーンを離れることが多くなった。
特に彼女のお気に入りの場所はハンガリーだった。
穏健独立派のハンガリー貴族アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。
また、彼女の最愛の息子ルドルフ皇太子の自殺以降、彼女は喪服を脱ぐことがなかったそうです。
1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニの手によって殺害され、その生涯を閉じた。
エリーザベトは当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌と、ウエスト50センチという驚異の体形の持ち主だった。過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて顔を扇で隠すようになり、それが彼女の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。
シュープリームス(ダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、フローレンス・バラード)

ドリームガールのモデルとなったグループ。

ミシガン州デトロイト出身。ハイスクール時代の1959年に女性4人組のコーラス・グループ、プリメッツを結成。プリメッツは1961年にモータウンと契約、3人組となってザ・シュープリームスとしてデビュー。
数々のヒット曲を放ち、トップスターの仲間入りを果たす。ほとんどのヒット曲はモータウンの看板作曲家チームのホーランド=ドジャー=ホーランドの作品。
もともとダイアナ一人が目立っていたシュープリームスだったが、1967年にはメンバーチェンジを機にダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと正式にグループ名が変わった。

1970年にダイアナはグループを脱退。変わりにジーン・テレルが加わる。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756/1/27 - 1791/12/5)

【モーツァルト】【マドモヮゼルモーツァルト】のモデルというか超本人!

ザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルトの息子として生まれる。
神童としての逸話は数えられないほどある。
そんな中でも有名なエピソードは、門外不出の宗教曲アレグリ作曲の【ミゼレーレ】を一度聴いただけですべて楽譜に起したそうです。
彼の音楽は全くの隙がなく、どの楽曲にも素晴らしい魅力に溢れています。

41の交響曲や協奏曲、宗教曲、オペラなど彼の音楽性を語るのに重要な音楽がたくさんあるが、『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲している。
マリア・フォン・トラップ(Maria von Trapp ,1905/1/26 - 1987/3/28)

誰もが知る【サウンド・オブ・ミュージック】のマリア先生のモデル。

生まれてすぐに母を亡くしたマリアは、父の手で親戚に預けられたが、その父も九歳のときに失った。やがて預けられていた親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入った。
その後、、ザルツブルクにあった女子ベネディクト会のノンベルク修道院に志願者として入ったが、修道院の暮らしになじめず体調を崩した。そこで院長の勧めで修道院を離れ、娘マリアの家庭教師を探していたトラップ家に住み込みで働くことになった。
もともと音楽好きの7人の子供たちと仲良くなり、また父親のゲオルク・トラップと心を通わせるようになり、1927年11月27日にノンベルク修道院で結婚式をあげた。
このとき父親のゲオルクは47歳、子供たちは長男ルーペルト16歳、長女アガーテ14歳、次女マリア13歳、次男ヴェルナー12歳、三女ヘートヴィック10歳、四女ヨハンナ8歳、五女マルティナ6歳であった。やがてゲオルクとマリアの間にもローズマリー、エレオノーレ、ヨハネスという一男二女が生まれ、12人の大家族になる。
ひょんなことから1935年のザルツブルク音楽祭に参加し、ヴァスナー神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌ったところ優勝してしまった。以降、この合唱団は人気となり、やがてヨーロッパ全域を回り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートをおこなうようになった。
しかし1938年、オーストリアはナチスに併合されてしまう。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、家族でオーストリアを離れることになった。
一家は汽車を乗り継いでスイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航した。

ミュージカルは大ヒットしたが、あまりに現実とかけ離れた物語や父ゲオルクの人物造形にマリアと子供たちはショックを受けたそうだ。
やがて1965年にジュリー・アンドリュースの主演で映画化されると世界中で大ヒットした。このときもマリアは脚本家に対して、夫ゲオルクの書き方を改めてくれるよう頼んだが、結局聞き入れられなかった。

激動の人生を送ったマリアは1987年3月28日に闘病生活の末にこの世を去った。現在、マリアはトラップ・ファミリー・ロッジの一角の墓地にゲオルクらと共に眠っている。
李香蘭 (山口淑子)1920/2/12〜

劇団四季オリジナルミュージカル【李香蘭】のモデル。
満州の炭鉱の町・撫順で生まれ、奉天と北平で育った国際的女優・歌手。
戦前には李香蘭(りこうらん、Lǐ Xiānglán、北京語読みは リー・シァンラン)の芸名で、戦後は本名の「山口淑子」の名で活躍した。
後に1974年から1992年までの18年間は「大鷹淑子」として日本の参議院議員も務めた。

日本語も中国語も堪能だったことから奉天放送局の新満州歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)より中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビュー。
映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本、満州国(現・中国東北)で大人気となった。
そして、標準的な北京官話とエキゾチックな容貌から、日本でも満州でも多くの人々からは当然の如く中国人スターと信じられていた。
しかし、映画『支那の夜』をはじめ、『白蘭の歌』『熱砂の誓ひ』で、抗日から転向し日本人を慕う中国人女性を演じた為、第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本の敗戦に伴う満州国の崩壊後に漢奸(中国の売国奴・敵国協力者)の嫌疑をかけられ、上海で中華民国の軍事裁判に掛けられる。
漢奸罪で処刑寸前のところを、奉天時代の親友であったロシア人女性・リューバの機転で北京の両親の元から戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明され、無罪となり国外追放になったのである。
中国から引き揚げる1946年2月28日、李香蘭は、李香蘭とわからないように化粧も落とし、もんぺ姿で乗船する行列に並んだ。ところが、女性出入国管理官より李香蘭と見破られ、乗船を目の前に再度収容所に連れ戻されてしまった。それから10日後に問題は解決し、1ヶ月後の3月末に今度こそ出国できることになる。
帰国後、翌年には本名の「山口淑子」に戻し、銀幕に復帰。
また、シャーリー山口(Shirley Yamaguchi)の名でハリウッド映画に主演したり、ブロードウェイでのミュージカルにも主役で出演した。
その折ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと知り合い、1951年に結婚。1958年に離婚。
ピーター・アレン(Peter Allen、1944/2/10 - 1992/6/18)

オーストラリア、テンタフィールド出身のシンガー・ソングライター。

1959年 ギタリストでシンガーのクリス・ベルと出会い、ヴォーカル・デュオを結成。"The Allen Brothers"と呼ばれ、オーストラリアのTVで人気が出る。
20歳の時に香港でジュディ・ガーランドの目にとまり、彼女のショーの前座に抜擢される。
ジュディの娘のライザ・ミネリと結婚するが 離婚。



1992年6月18日 エイズにより死去。享年48。
ゲイである事実は公式なかたちでは発表されないままだった。
デイジー&ヴァイオレット ヒルトン姉妹(Daisy and Violet Hilton 1908/2/5–1969/1/6)

ミュージカル【サイドショー】のモデル。
サイドショーとはいわゆる見世物小屋。名前の由来は、サーカス小屋の脇に設置されることが多かったからだそうです。

ヒルトン姉妹はイングランドはサセックス東部でケイト・スキナーのもとに生まれた。
しかし彼女らは産まれて間もなくケイトの働いていたバーの主人とその産婆、メアリー・ヒルトンのもとに売り渡された。
二人は尻と腰が癒着した形で骨盤で繋がっており、血管は共有していたが、他の臓器は別々に持っていた。メアリー・ヒルトンは、彼女らを見世物として全米、そしてヨーロッパを回った。
そのおかげで一儲けしたメアリーは、今度は姉妹を一旦公の場から遠ざけ、当時の夫マイアー・マイヤース氏の所有する部屋で姉妹を更に有名にするため、歌やダンス、ヴァイオリン、クラリネット、サキソフォーンの徹底的な訓練を積ませた。

現在ではヒルトン姉妹が幼少時いかなる人生を送っていたのかは、朧げに知られるのみである。しかし1942年に彼女らが出版した自叙伝によれば、義母メアリーの目まぐるしく変わる夫はいずれも暴力的で、虐待を受けていたとされている。
その後メアリーが死ぬと、義父と彼の実娘は二人をそのまま育てた。
しかし1931年、今度はヒルトン姉妹は彼らの支配から逃れるべく、そのマネージメント方法を巡って訴訟を起こし、勝訴する。
こうして姉妹はついに"独立"した人生を獲得した。しかしその後も二人はしばらくの間、生活資金を得るため、彼女らが嫌悪していたサイドショーに出演し続け、「ヒルトン姉妹のショー」としてしばらくの間興行を続けた。

1932年、ヒルトン姉妹は一躍その名を知らしめることになる。
奇形者ばかりを集めて撮影された映画「フリークス」に出演したのである。
その中で二人は自身そのままの役を演じ、結合性双生児は愛に満ちた人生を送ることが出来るか?という疑問をテーマに、あたかも身をもって答えたのだった。ではその疑問に対する答えはいかなるものだったのか。
当時、多くの記者たちは彼女らに対し率直に誰もが抱く、ある興味深い疑問を彼女らにぶつけた。
それは例えば片方が恋人と愛しあっている際、片方はどうしているのか?という問いである。ヒルトン姉妹はきっぱりと答えている。彼女ら共に、片方が何かに興じているとき、それを全く無視するよう精神的な意味において互いを"分離"する技術を自然と身につけたのだという(またその技術について、ヒルトン姉妹は同時代に生きたかの有名な奇術師フーディーニに魔法をかけられたおかげよ、と話している)。
またデイジーはある日、髪を金髪に染めたりもした。それは彼女が彼にヴァイオレットと間違えて呼ばれるのを何より嫌っていたからである。しかし、彼女らの身近な者たちの証言によれば、二人は間違いなく互いの感覚を共有しており、彼女らが話したような精神的分離は決してあり得そうもない、と話している
ヒルトン姉妹は別々にそれぞれの夫と結婚した。しかし二人とも決して子供を設けることはなく、また結婚はいずれも短い間に破局した。

やがてヒルトン姉妹から世間の興味が消えうせた頃、彼女らはマイアミに移住し、「ヒルトンシスターズ・スナックバー」なるハンバーガーショップを開店した。しかしビジネスは失敗した。独立を勝ち取り、その後自由を獲得したかに見えた彼女たちは、その引き換えに「見世物一のスター」の座として得ていた破格の収入(絶頂期、彼女らは週5千ドルを稼いでいたという)を失うことになったのである。
そして1950年に二人は再びハリウッドへと戻り、「Chained of Life」なる映画に出演し、往年の美声を響かせた。

やがて1960年代になると、再び全国興行の旅に出た。
しかしそれも長くは続かず、その姿が最後に見られたのはノース・カロライナ州のドライブイン・シアターである。ツアーはその後も日程が決定していたが、彼女らはもはやその興行に出るための資金さえもなかった。
二人はその後、金欠から食品販売店でレジ係り- 片方がレジを打ち、片方は食品を袋に詰めた -として働くことになった。
そして1969年1月6日、二人はその数日前から仕事場に姿を見せなくなり、心配した主人は警察に通報した。そして警察が部屋に入ったとき、既に死亡していた。死因は当時猛威をふるった香港インフルエンザであった。
その後二人が出演した「Chained of Life」の続編となる「Torn by a Knife」なる作品が製作されたが、この作品は世に出ることなく終わった。
ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat 1859/12/2 - 1891/3/29)

サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージのモデル

新印象派に分類される19世紀のフランスの画家。
印象派の画家たちの用いた「筆触分割」の技法をさらに押し進め、光学的理論を取り入れた結果、点描という技法にたどりついた。
スーラは完成作を仕上げるまでに多数の素描や下絵を制作して、入念に構想を練った。
また、点描の大作を仕上げるには相当の時間を要したことと思われる。

1884年にはこのミュージカルにも出てくる生涯最大の大作で代表作でもある《グランド・ジャット島の日曜日の午後》の制作に着手している。
グランド・ジャット島に集う50人ほどの人物を点描で描き出したこの大作は、1886年の第8回印象派展(最後の印象派展)に出品されて話題となった。
「新印象派」という名称は、この作品を見た批評家フェリックス・フェネオンが同年発表した雑誌記事の中で最初に使ったものである。
この作品の題材となったグランド・ジャット島は、セーヌ川の中洲で、パリ北郊クールブヴォア付近にある。

31歳の若さで病死したため残された作品数は少なく、上記の6点のほかには油彩約60点とクロクトン(油彩下絵)約170点、素描約230点が残るのみである。

典型的な中産階級の家庭に生まれ、正規の美術教育を受けたスーラは、早世したという点を除いては特に波乱のない平穏な人生を送った。
彼は寡黙で内省的な性格であったと言われ、私生活については他人に全く語ることがなかったという。
スーラは死の直前の1890年、内縁関係にあった女性との間に一子をもうけているが、スーラの母親さえそのことをしばらく知らなかったというほど、秘密主義を貫いていた。
ザ・フォー・シーズンズ

ジャージーボーイズのモデルになったグループ

アメリカ合衆国の、主に1960年代に活動したロック・グループである。
1960年代初めにヴァリを中心に活動していた「フォー・ラヴァーズ」を再編して、フォー・シーズンズを結成。
名プロデューサー、ボブ・クリューのもとで、1962年以降「シェリー(Sherry)」、「恋のヤセがまん(Big Girls Don't Cry)」、「恋のハリキリ・ボーイ(Walk Like a Man)」(3曲とも全米No.1)などのヒットを連発する。
ドゥーワップの音楽性を大胆に取り込んだ曲は、ポップチャートばかりでなくR&Bチャートでも大きな成功を収める。
1964年になると、ドゥーワップ・スタイルから脱却し、スケールの大きな曲調と複雑なコーラスが絡み合う、いわゆる日本で言うソフト・ロック的なアプローチを始め、この路線でも、「悲しき朝やけ(Dawn (Go Away))」、「悲しきラグ・ドール(Rag Doll)」(全米No.1)、「バイ・バイ・ベイビー(Bye, Bye, Baby (Baby, Goodbye))」などをヒットさせる。
その後一時低迷したものの、1970年代にも新編成で人気が再燃し、「愛はまぼろし(Who Loves You)」、「1963年12月(あのすばらしき夜)(December, 1963 (Oh, What A Night))」(全米No.1)がヒットした。
またフォー・シーズンズは覆面バンド「ワンダー・フー(The Wonder Who?)」名義でも数曲の楽曲を発表した。ワンダー・フーとしては、1965年にボブ・ディランのカバー曲「Don't Think Twice (It's All Right)」をヒットさせている。
フランキー・ヴァリがグループのリード・ヴォーカルであり、顔役でもあるため、現在再発売されているCDの多くでは「Frankie Valli and The Four Seasons」とクレジットされている。
フェラ・クティ(Fela Anikulapo Kuti, 1938/10/15-1997/8/2)

FELA!のモデル
ナイジェリア、アベオクタ出身のミュージシャン、黒人解放運動家。
ミュージシャンとしてはトランペット、ピアノ、ヴォーカルと多彩な技術を誇るマルチミュージシャンで、アフロビートの創始者として世界的に著名である。
「Black President(黒い大統領)」の呼び名で知られる。

1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に入学し、単身留学する。
在学中にトランペットを習得し、友人たちと「フェラ・アンド・クーラ・ロビトス」(Fela Ransome-Kuti & the Koola Lobitos) を結成する。
なおこの時期に黒人差別を体感したことが、彼に生涯にわたる深い影響を及ぼすことになる。
1963年、同大学卒業。21歳のときに結婚した3歳年下の女性とナイジェリアに帰国する。クーラ・ロビトスを率いて本格的に音楽活動を開始するが、金銭面でかなり苦戦する。
これはナイジェリアには音楽を愛好する富裕層が少ないことが一因であった。
そのため彼はガーナへツアーに旅立つ。
当時は流行のハイライフ・ジャズを演奏しており、バンドは人気を獲得するが金銭面での不調は続く。
1968年、アメリカツアーに向けた記者会見上で、自身の音楽を「アフロビート」と定義する。1969年、アメリカへツアーに旅立つ。しかし同国においてハイライフ・ジャズはありふれた音楽であり、聴衆の関心を集めるものではなかった。マネジメントにも恵まれず、さらに彼らは労働許可証を保持していなかったためアメリカ移民局に睨まれ、メンバーの一部が離脱するなど辛酸を舐めることになる。
さらにここでも黒人差別に直面し、マルコムXやブラックパンサー党などについて学び始める。
これにより彼の音楽性は輸入音楽の物真似からアフリカ土着音楽への転換と、さらに政治的メッセージの重視へと変貌を遂げる。
1970年、ナイジェリアへ帰国。アフロ・スポットと名付けた会場を拠点に活動し、バンド名を「フェラ・アンド・アフリカ70」(Fela Ransome-Kuti and the Africa '70)に改名、この頃に上記の音楽性は確立される。
これが「アフロビート」の完成である。
聴衆の獲得に成功し、アフロ・スポットを「アフリカ・シュライン」に改名し、以後同会場はフェラの活動本拠地となり、聖地として現在も名高い。なおシュラインは「聖堂」を意味する。
政治的メッセージはより強化され、黒人の解放に加えてキリスト教、イスラム教の破棄、パン・アフリカニズムの実現をも訴えるようになる。またそれによる富裕層の圧迫も、時とともに激しさを増すようになる。
1974年、弾圧はついに公権力に及び、フェラは警察の自演による大麻所持容疑と未成年者誘拐で逮捕され、カラクタ監房に2週間拘置される。
しかし大麻所持は証明されず、さらにフェラの許にいた未成年の女性(実際は成年女性だった)はあくまで自身の意思による家出であることが明かされ、彼は釈放される。
帰宅したフェラは自宅の周囲を高さ4mの有刺鉄線で囲み、そこを「カラクタ共和国」と命名した。彼はその場所で志を同じくして集まった仲間たちと共同生活を営み、国家との対立を一層深めるようになる。
一方でカメルーンツアーを成功させるなど、商業的には絶大な成功を収めるようになる。1975年、再び逮捕された経験を元に「Expensive Shit」を、警察にカラクタ共和国を攻撃された際に負傷した経験を元に「Kalakuta Show」を発表しヒットする。彼は都合12回逮捕されるが、そのつど証拠不十分によって釈放されている。
1976年、フェラは白人に強制されていたキリスト教の洗礼名「ランサム」を捨て、フェラ・アニクラポ・クティと改名する。アニクラポは「死を操れる者」の意味。
また軍隊をゾンビに喩えた屈指の代表作「Zombie」はこの年に発表された。
1977年、対立はついに頂点に達し1,000人の軍隊により共和国は襲撃を受ける。建造物は放火によって消失、77歳になっていたフェラの母フンミラヨはこのとき受けた傷が元で翌年他界する。
フェラは拘留され裁判が開かれるが、この公判は警察によってニューヨーク・タイムズなどの外国報道機関を追放した閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受ける。
1978年、バンドメンバーである女性コーラス27人と合同結婚式を行う。
1997年8月2日、エイズによる合併症で死去。58歳。自身の音楽活動は実子のフェミ・クティ(Femi Kuti、1962年6月16日-)により受け継がれ、現在に至っている。
クーデンホーフ光子(旧名 青山みつ) Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 1874年7月24日 - 1941年8月27日

ミュージカル『MITSUKO』のモデル

クーデンホーフ=カレルギー光子こと青山みつは、東京府牛込で骨董品屋を営む青山喜八と妻津禰(つね)の三女として生まれた。1892年当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーに見初められ、大使公邸に小間使いとして奉公する。ハインリヒが騎馬で移動中、落馬したのを、みつが手当てしたのがなれ初めだといわれるが定かではない。

1893年に周囲が反対する中、光子はハインリヒと結婚する。長男ハンス光太郎、次男リヒャルト栄次郎の2人の子を東京でもうけた。書類が残されており、東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚と言われている。ただ、この頃の国際結婚は、外国人にあてがわれた現地妻という認識が強かったため、光子は実家から表向き勘当されている。またハインリヒはこの結婚に際し青山家に対してかなりの犠牲を払ったらしく、後年、光子が帰国しなかった理由のひとつがこのあたりにあったようである。

1896年に光子は、夫の祖国であるオーストリア=ハンガリー帝国へとわたる。その際には、明治天皇の皇后美子から「異国にいても日本人の誇りを忘れないでください」と激励された。

クーデンホーフ=カレルギー家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家であり、クーデンホーフ=カレルギー一族は東洋の島国からきた光子を奇異の目で見た。ハインリヒは「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、光子の庇護に努めた。その後、三男ゲオルフ[1]ほか4人、合わせて7人の子に恵まれる。 ハインリヒは子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ光子に日本語を話すことを禁じた。光子は多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかってしまう。ハインリヒは日本への里帰りを計画するが、長期間幼い子供たちと離れることは難しかった。夫婦仲は良かったが、18ヶ国語を理解し、特に哲学に関しては学者並みの知識を持つ教養豊かな夫と、尋常小学校程度の妻では全く知的レベルが違い、子供たちのこと以外に夫婦でつながりを持てるものは少なかったが、彼女も渡欧後に自分の無学を恥じて、歴史・地理・語学・礼儀などを家庭教師を付けて猛勉強をした。


1905年に日露戦争が起こり、日本の国際的地位が高まると、光子への偏見も和らぐが、翌1906年5月14日にはハインリヒが心臓発作を起こし急死してしまう。ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言がなされていたが、一族が財産を巡り訴訟を起こす。しかし、光子は受けて立ち、勝訴する。夫の遺産を相続し、伯爵夫人として家政を取り仕切る。子供たちの教育のため財産を処分しウィーンへ居を移す。

1914年に始まる第一次世界大戦ではオーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵国として戦うことになり、光子への差別は強まった。またハンスとゲオルフの2人の息子が兵士として従軍したり(リヒャルトは肺の病気で徴兵を免れた)、光子自身も赤十字社を通しての食糧供出に奔走するなど多難な時期を送る。

1918年に戦争が終わると、次男リヒャルトが舞台女優イダ・ローラントと結婚すると言い出し、光子と対立。リヒャルトは家を飛び出し駆け落ちをしてしまう。そして「汎ヨーロッパ主義」を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。長男ハンスも裕福なハンガリー系ユダヤ人の一族出身で、オーストリア=ハンガリー帝国最初の女性パイロットリリー・シュタインシュナイダーと結婚した。また娘のイダ・フリーデリケ・ゲレスも、のち作家として成功した。 しかし東京生まれの上の2人とボヘミア生まれの5人の子を差別したり、夫を失ってからは日本風に厳格に管理しようとしたため、成長した子供たちは光子に反発し彼女の元を去った。晩年の光子と同居し、未婚のまま光子の死を看取った次女オルガは母光子を「鬼婆のようだった」と語っている。

追い打ちをかけるように、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことに伴い、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を消失、更に1925年には脳溢血により右半身不随となるなど不幸な生活を送った。その後はウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガ[2]の介護により静養の日々をすごすようになる。このころの唯一の楽しみはウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことであった。

1941年8月27日、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら亡くなる。ついに日本に帰ることはなかった
フランク・ウィリアム・アバグネイル, ジュニア(Frank William Abagnale, Jr.、1948年4月27日 - )

ミュージカルCatch me if you canのモデル。
歴代の詐欺師の中では詐取した金額こそ突出してはいないものの、若さ(16歳という若さで活動を始めた)と手口の大胆さ・鮮やかさで、米国では彼の詐欺事件がしばしばTV番組などで報道されたこともあり、よく知られていた。
後、著した自伝「Catch me if you can」(邦訳:『世界をだました男』新潮文庫…表記は「アバネイル」)はベストセラーとなり、それを元に『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(監督:スティーヴン・スピルバーグ、主演:レオナルド・ディカプリオ)として、映画化もされた。

1960年代、両親の離婚が元で家を飛び出した16歳の彼は、生き抜く術を模索する中、パイロット・医師・弁護士といった職業が大きな社会的信用力を持つことを理解する。以来、実際には在籍したこともない、エンブリー・リドル航空大学、ハーバード・メディカルスクール、ハーバード・ロー・スクールなどを卒業したと偽り、約5年間にわたって、上記のような職業人(ルイジアナ州の弁護士資格は19歳のとき実際に取得)になりすまし、少なくとも8つの偽名を駆使、当時のレートで250万ドル以上に相当する不渡り小切手を26カ国で乱発する犯行を重ねた。

しかし1969年、21歳の時にフランスでエール・フランス機に乗った際、手配者のポスターから搭乗員がアバグネイルを確認して通報、フランス警察に逮捕される。
フランスの刑務所で6ヶ月間服役の後スウェーデンに移送され、さらに6ヶ月服役した。
その後、アメリカで移送途中に逃走するが、すぐに逮捕され、12年の刑期を言い渡された。

捕まって服役の後、自らの経験をもとにセキュリティコンサルティング会社を経営して成功している。
九重文隆1915年(大正4年)4月3日 - 1956年(昭和31年)10月29日

ミュージカル『異国の丘』のモデル(作品内の名前は九重秀隆)
学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスヴィル高校を卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍。1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となる。

翌1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事に就任して上海へ赴く。上海では蒋介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国。なお、中国側の女スパイだった鄭蘋茹に篭絡された文隆が機密情報を漏洩するのを恐れて帰国を命令したとする説もある。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉まで昇進。

太平洋戦争のさなか、貞明皇后の姪・大谷正子と1944年(昭和19年)にハルビンで結婚。1945年(昭和20年)8月15日、満州で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊によって襲撃を受け、8月19日に捕虜となる。その後、シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を転々と移動させられた。1949年(昭和24年)のハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で25年の禁固刑を受ける。抑留中は士官であることを盾に労役を断固拒否しソ連に対し気骨のあるところを見せた。1955年(昭和30年)の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で、動脈硬化による脳出血と急性腎炎のため死去したとされる(ソ連による暗殺説もある)。その後、遺骨は正子夫人の尽力で1958年(昭和33年)に帰国した。

1991年(平成3年)10月18日付「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪、名誉回復。1992年(平成4年)2月27日、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、1997年(平成9年)10月16日、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。

正子夫人との間に実子はない。庶子(妾腹の子)に俳優の東隆明がいる。東には男子がいる。文隆という嫡男を失った近衞家は、文麿外孫の細川護��を養子となし、護��は近衞忠��と改名した。

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